3、 流浪の民 (その1)
3、流浪の民
クシが西の地で暮らし始めて、もうすぐ季節が変わろうとしていた。その頃にはリャマの放牧をする民の中にも少しずつ溶け込めるようになっていた。
どこか遠い地からやってきた謎の少年を、放牧民たちははじめ、物珍しく少し怖いものでも見るような目で遠巻きに眺めていたが、本来気さくなその民は、いつのまにか昔からの仲間のように彼に親しげに接するようになっていた。
やがて誰も彼もがクシに興味を持って話しかけてくるようになり、クシがこの民の言葉を理解するようになるまでにそれほど時間はかからなかった。
そのうえ少しおせっかいなオルマが発音から細かい言い回しまで厳しく教えてくれるので、クシの覚えは格段に早かった。
彼らは自分たちのことを『ロハ』と呼んでいた。
オルマ親子がクシの名前を聞いて笑った理由もほどなく分かった。ロハの間では、『クシ』というのは、【くしゃみ】のことだったのだ。
慣れ親しむようになってからも、いや親しくなれば尚更、彼らはクシのことを、わざと【くしゃみ】の意味の方の発音で呼んだ。からかい……というよりも、もう自分たちの仲間だという親愛の情を込めてそう呼んだのだ。だからクシのほうもそう呼ばれて悪い気はしなかった。
宮殿で家来に傅かれて生活していたときよりも、気の置けない仲間と暮らしている今の生活のほうをクシは気に入っていた。
オルマとチャキの双子は、男女が入れ替わったかのように性格がまるで逆だった。オルマは男勝りで体力があり、父親とともにリャマを追うのは主にオルマの仕事だった。一方、チャキはあまり家から出ずに、家事をしたり、リャマの毛を紡いだりしていた。
オルマはクシに、まるで男同士の親友のように接する。
「【くしゃみ】は気持ちのいい奴だな。街の方から来たというから最初はすました嫌な奴かと思ってた」
「オルマも女とは思えないほどさっぱりしている。チャキのほうがよほど女らしい」
「きっと神さまはあたしらに付けるものを取り違えたのさ!」
あっけらかんとして言うと、オルマは豪快に笑った。日にやけた顔に白い歯がやけに目立つ。
オルマとは特に気が合うのか、彼女といるだけでクシは心から楽しかった。リャマを追いながら、一日中二人は笑い合っていた。
しかし放牧民の生活は気楽で楽しいばかりではなく、むしろ危険に晒されることが多い。平原とはいえ、ところどころに地の裂け目があり、リャマとともにそこへ滑落して命を落とすものもいたし、夜になるとリャマを狙ってくるピューマなどの猛獣を追い払わなくてはいけなかった。
クシはそこに暮らすうちに自然と危険を察知する感覚が研ぎ澄まされていった。
やがて平原の草が霧雨で湿る季節になった。乾季の終わりに毛を刈り取ったリャマたちを放ち、ロハの民は移動をするために家の荷物をまとめ始めた。
「いったい、どこに行くのだ?」
「雨季は谷間に下りて作物を育てるんだよ」
ポコが半年間眠っていた木製の足踏み鍬を一本一本磨きながら言った。
「リャマたちは?」
「この季節は野生に返す。乾季になったら戻ってきてまたリャマを集めるのだ」
彼らはこの平原に定住しているわけではなかった。季節ごとに場所を移動し、生活に必要な物を育てたり、集めたりしながら生活しているのだった。
クシにとっては不思議なことばかりだ。
「【くしゃみ】には珍しい生活だろ?
谷間の暮らしは忙しいぞ。必死で働かないと半年間食うものが無くなってしまうからな」
オルマはたくさんの干し肉を袋に詰めていた。チャキは前の年に採れたとうもろこしの種を丁寧に選別している。
「今年はうまく育つかな?」
チャキが呟いた。
「昨年は本当にひどかった。種に残す分を取ったら食べる分は僅かしか残らなかった」
「虫にやられてしまったからな」
食べ物もろくにない半年をどうやって生き延びてきたというのか。リャマの干し肉を分け合ってようやく暮らしてきたのだろうか。そんな苦労は感じさせないほどオルマの家族は明るく逞しい。クシがひとり増えてもそんな不自由など微塵も感じさせずに彼を歓待してくれた。
クシも種の選別を手伝いながら「今年はうまく育つように」と祈りを込めた。
ロハの民は、一斉に泥レンガの家を後にした。大人はもちろん、子どもたちも生活に必要な荷物を体中にくくりつけてよろよろと重そうに歩き出す。乳飲み子を持つ母親は荷物とともに赤ん坊も布に包んで体に縛り付けている。大きい荷物を運ぶためにリャマも数頭連れるが、ほとんどの物は人間が自分で運ばなくてはいけない。リャマは山道を行くのが苦手なのだ。
ポコの一家も、背中に藁束やとうもろこしの種の入った袋や鍬など、それぞれが大荷物を背負って家を出た。
平原は果てしなく広い。谷に下りると言っても、どこまでも平らな大地に渓谷があるようには思えなかった。
荷物で重くなった体を抱えながら、ロハたちは広大な平原を何日もかけて歩いていった。
何日歩き続けても、景色は相変わらず見慣れた平原ばかりで渓谷が見えてきそうな気配もなかった。ただ広く、ほかに何も見えない大地の真ん中で、何度も野宿をした。
ロハたちは、疲れを癒す方法をよく知っている。
夜は焚き火を囲んで干し肉をかじりながら、昼の疲れなど感じさせないほど陽気に歌ったり踊ったりする。踊りつかれてぐっすりと眠り、翌朝はまた元気になって颯爽と歩き出すのだ。
しかし全員が寝入ってしまうわけではない。必ず交替で見張りが立ち、夜の平野に出没する猛獣から民を守る。長年同じ暮らしを繰り返してきた遊牧民の知恵だった。
平原の家を後にしてから何日経ったのか分からなくなる頃、ようやく山道に入っていった。荷物を抱えて山道を行くのは、平原を歩いているときより数段きつい。慣れたロハたちは山道などものともせずどんどん進んでいく。クシは息も絶え絶えに、ロハの列をやっと追いかける。
やがて頂上を越えると、目的地の深い渓谷が現れた。
一列に並んだロハたちは、慎重に渓谷を下っていく。木々などほとんど生えていない平原から、木々が鬱蒼と生い茂る山の中へ、その生活の変化はとても大きい。
渓谷の中腹あたりに、木が切られて土が均された場所がいくつかあった。細い木を丈夫な蔓で組んだ小屋がそのまわりに点々と建っている。それはロハたちの雨季の住まいなのだ。
ポコが入り口を覆う伸びた枝を掃うと、ひとつの小屋に入っていった。チャキが続く。
「さあ【くしゃみ】、入って」
オルマがクシの背中を押した。
ひと季節放置されていた小屋の中はかび臭い匂いがした。細い木を組んだだけの隙間だらけ壁からは、木の枝や蔦が容赦なく侵入してきている。
ポコが家の中の枝を掃い、クシとチャキがそれを外に運び出す。オルマが腐りかけた敷き藁を手早くかき集めて外に出し、各自が背負って持ってきた新しい藁を敷き詰める。
壁や屋根に掛かる蜘蛛の巣を払うと、ようやくこざっぱりとして、生活できそうな空間になった。
その日は小屋の掃除で一日が終わった。夜になると、刈り取った枝を薪にして火を焚いた。それで干し肉を炙って夕食にする。ポコは小屋の隅にある甕から蓄えてあった酒を出して晩酌を始めた。
ポコはクシにも酒を勧めると、話し始めた。
「わしらはずっとこんな生活を続けている。同じ地に定住できればいいが、家畜も畑も手に入る土地というのはそうそう見つからないのだ。
食べ物もその年の気候次第。気候が悪ければどんなに大事に育てても全滅してしまうこともあり、気候が良くても虫が増えてやられてしまうこともある。
収穫が多すぎれば蓄えた分は腐らせ、ほかの家族と収穫の量が違えば、争いになることもある。
平原の暮らしはここよりは気楽だが、食べ物はここの畑の蓄えと、リャマの肉しかない。それにあそこには凶暴なピューマが出る。ピューマは滅多に人を襲わないというが、あの土地のピューマは人を襲うことがあるのだ。
わしの妻、この子たちの母親もピューマに襲われた」
クシは、したたか酔って潤んだ目をしているポコの横顔を見つめた。
「厳しい暮らしだ。しかし、わしらの先祖が長い間かけて編み出した生活の知恵だ。ほかの方法は考えられない。
【くしゃみ】もここに暮らす限り、いつ何が起こるかわからないと覚悟しておくんだぞ。わしは知らないが、【くしゃみ】のいた大きな街の暮らしとはだいぶ違うだろうからな」
ポコはそう言うと木のカップに注がれた酒を一気に飲み干した。
ポコの話を聞いたクシは考え込んだ。
『ロハの民の暮らしを豊かにする方法は無いのだろうか』
次の日から、とうもろこしの植え付けが始まった。半年掘り返していない谷間の畑には木の根や草の根が広く深く這っていて、土を耕すには時間と労力がいる。
いつもは家に篭っているチャキも出てきて手伝うが段取りが悪く、オルマに叱られてばかりいた。
そのオルマは手際が良く力もある。太い根をひとりで掘り起こして引き出しては脇にどんどん積み上げていく
「さすが、オルマだな」
クシが感心して言うと、オルマは手を休めずに声を張り上げる。
「当たり前だよ。チャキがああだから、あたしがしっかりしなかったら大変なことになる」
本当に神さまはオルマとチャキに付ける物を間違えてしまったようだ。クシはオルマの言葉を思い出して、つい噴き出した。
「けど、今年は助かった。【くしゃみ】のお蔭で仕事が倍はかどるよ」
オルマは泥だらけの顔をほころばせて笑った。どんなに勝気で男勝りでも、笑顔はあどけなさを残す少女の顔だ。
「おい【くしゃみ】。ポコの畑が終わったら、こっちも手伝っておくれよ」
向こうのほうから声をかけてきたのは隣の畑を耕すティトーだ。
「やなこった! 【くしゃみ】はうちの家族なんだ!」
オルマは手に持った太い木の根を大きく振って、ティトーを怒鳴りつけた。
「オルマ、いいじゃないか。ここが早く終ったら手伝ってくるよ」
「ダメだ。あいつらは前の年、うちの作物が虫にやられてしまっても何も分けてくれなかったんだ。なあ、チャキ」
いつもは物静かで自分を主張することのないチャキが、ティトーたちを睨みつけて大きく頷いた。
同じ一族でありながら互いに恨みを持つ家族たちにクシは不安を覚えた。