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2、 西の果て (その2)




 どのくらいの時が経っただろうか。

 誰かに服の裾を引っ張られているような感じがした。まだうつらうつらとしながら無意識に手をやって裾を戻すが、何者かがまた引っ張り返す。

 クシは異様な気配にはっと目覚め、足元に視線をやった。真っ白なリャマが枝の間から覗き込んでいた。食べ物と勘違いしているのか夢中でクシの服の裾をかじっている。


「うわっ!」


 驚いて飛び起きようとして、低い木の陰で寝ていたクシは覆いかぶさる木の枝で顔を傷つけた。同時にリャマの方もクシの声に驚いて一瞬飛び退いたのだが、またすぐに寄ってきて服の裾をかじり始める。クシは夢中でそれを払いながら、何とか木の陰から抜け出そうと背中でいざった。


「××! ××××……」


 枝の向こう側から人の声が響いてきた。声の主は近づいてきてリャマの首に手をかけると、その身体を一所懸命引っ張っている。しきりに何かを叫んでいるのだがクシにはその言葉が理解できない。クシは、今居る地がクスコの言葉が伝わらない辺境であることを改めて悟った。

 リャマがようやく外へと引き出されて、解放されたクシは茂みを抜け出した。そこには、抗うリャマの首に縄をかけているひとりの少女がいた。リャマの首を縄で引き寄せ必死に押さえながら、少女はクシを振り返って怪訝な顔をした。

 クスコの周りでは見かけない服装だ。厚手の毛織物を幾重にも着て、頭に丸い頭巾を被っている。この辺りの強い日にやかれたためか、肌の色は暗褐色でところどころ表皮が剥けた痣がある。

 クシが立ち上がると、驚いて一歩下がった少女は、威嚇しているつもりなのか険しい顔で何かを必死に叫んだ。それもそうだろう。見慣れない服を着た薄汚い男が茂みの中からぬうっと現れたのだから。


「××××!」


 大声で叫ぶ少女に気付いて、今度は向こうから中年の男が慌てて駆けてきた。

 色鮮やかな模様を編みこんだ耳あて付きの毛編みの帽子を被り、腰まで隠れるような毛織の貫頭布を羽織っている。男は少女よりもずっと日に焼けて黒々とした顔をしていた。

 ふたりはどことなく顔つきが似ているので親子と思われる。何も持たずに湖のほとりに倒れていた男を怪しげに思っているのだろう。ふたりとも詮索するようにクシの頭から足先まで何度も視線を往復させた。


「この辺りに村があるのか? 私は行くところがない。あなたたちの村に泊めてくれないか?」


 言葉が通じないことは分かっていたが、クシは何も持っていないという身振りを交えて、とりあえず親子にそう頼んでみた。

 クシが必死に訴える姿を見て、親子は顔を見合わせ、あれやこれやと相談し始めた。

 先ずはクシの言った言葉の意味を議論しているのだろう。随分と時間をかけて話し合ったあと、ようやく二人はクシに向き直って笑顔を見せた。

 クシの言葉を正しく理解できたかどうかは分からないが、気持ちは通じたようだ。父親と思われる男がクシの肩をたたいて『付いて来い』というような仕草をした。

 クシが男に付いて歩き出すと、その後ろからリャマの首にかけられた縄を引きながら、少女が付いてきた。

 クシが振り返ると少女はニッコリと笑みを返した。少なくとも怪しい男という誤解は解けたのだろう。クシはホッとして少女に微笑み返すと、また前に向き直って歩いていった。


 湖のほとりに沿って向こう岸まで歩いて行き、その先にある小高い丘を上っていく。丘の頂上から下ろうとしたとき、クシは思わず声を上げた。

 丘を下ったその先に、一面を丈の短い草が覆う広大な緑の平原と、そこでのんびりと草を食むリャマの群れを見た。今まで彷徨ってきた乾いた荒地とはまるで違う光景だ。

 広い野原にはぽつんぽつんと泥レンガを組み合わせて造った家が点在している。

 リャマの群れの中にそれを追う人の姿も見えるが、人の数よりもリャマの数のほうが圧倒的に多い。リャマの群れの中に立つ人たちは、群れを外れたリャマを追っては再び群れの中に返していく。


 彼らはどうやらリャマを放牧しながら暮らす遊牧民らしい。

 クシを見つけた少女はおそらく、丘の向こうまで冒険に出てしまったリャマを連れ戻しに来たのだ。帰りが遅いことを心配した父親も一緒に丘を越えてきたのだろう。

 群れからはぐれた悪戯なリャマのお陰でクシは命拾いをしたのだ。


 男は点在する泥レンガの家のひとつに入って行った。クシが入るのを躊躇っていると、後ろから少女がクシの背中を押して中に入るように勧めた。


 中は薄暗く、明るい外から入った瞬間は目が眩んで何も見えなかった。目が慣れてくると、家の奥に少女と同じくらいの年の少年がひとり座っているのが見えた。少年は(かまど)に火をくべて食事の支度をしている。竈の上で炙られた肉の香ばしい匂いが家中に漂っていた。


 クシの腹がそれに反応してぐぐっと音を立てた。少女はそれを聞いてくすくすと笑うと、竈の肉を土器の上に載せてクシに勧めた。

 クシの体は思うよりも早く動いて肉にかぶりついていた。もうなりふりなど構わない。ちぎれそうな空腹を満たすことだけしか考えられなかった。


 幼い頃から皇族として厳しい躾を受けてきた自分にもこんな原始的な本能が残されていたのかと、心のどこかで驚いている自分がいた。しかし他方で何が何でも生き抜こうとする強さを残していた自分を頼もしく思った。



 空腹が満たされて、改めてクシは自分が今いる場所を観察した。

 四方を土壁で囲い、天井には藁が葺いてある小さな家。空気抜きの高窓から細い明かりが差し込むだけの狭く薄暗い空間には、隅に小さな竈があり、反対側には備蓄の食料が入った袋が積まれている。その間の藁と毛織の敷物が敷き詰められた床に、寄り添うように親子三人が座り、膝を突き合わせて無言で肉をかじっている。その中に自分も幅を取っているので、家の中はいっぱいいっぱいだった。

 人の良さそうな父親と負けん気の強そうな少女、そして少女と瓜二つだが、彼女よりも気の弱そうな少年。二人はおそらく双子なのだろう。何故かそこに母親の姿は見当たらなかった。


 食事が済むと、少女がクシの肩を叩いて呼んだ。意味の分からない言葉でしきりに何か言っている。クシは首を傾げて少女の動きを観察した。だんだんと少女の言おうとすることに察しがついてきた。

 少女は自分の胸を何度も叩いて繰り返している。


「オルマ、オルマ……」


 そう、それは彼女の名前だった。クシが少女に頷くと、今度は父親と少年が順に胸を叩いて名乗った。


「ポコ」


「チャキ」


 初めて通じた異民族の言葉にクシは嬉しくなり、自分も胸を叩いて告げた。


「クシ! クシ!」


 すると三人の親子は顔を見合わせた。クシがもう一度名前を告げると、少女がプッと噴き出した。あとのふたりもそれに続いて笑い出し、やがて三人はお腹を抱えて笑い出した。

 驚いたクシは何か可笑しなことを言ったかと慌てた。しかし親子は構わず笑い続ける。彼らの言葉を話せるようになるまで、彼らにとって何が可笑しいのかクシには知ることはできない。未知の地で生きる難しさをそんな些細なことで実感するクシだった。





 クシのいなくなったクスコでは、今までと変わらない日常が流れていた。

 キヌアの教室も毎日開かれて子どもたちも熱心に指導を受けている。成人の儀を控え張り切る少年たちに影響されて、キヌアの指導にもますます熱がこもっていた。


 そのキヌアが部屋に帰ると、ひとり涙が枯れるほど泣いていることなど、誰も想像しなかった。一番傍にいるティッカだけが、日に日にやつれていくキヌアを心配していた。

 クシがキヌアに武術の指導を申し入れたお蔭で、このクスコでもキヌアは居場所を見つけることができたのだ。そのクシを失ったことでキヌアの心は拠り所を失くしてしまったのだろうとティッカは考えた。

 しかし帰るあてのない人を待ち続けるのは辛すぎる。

 ティッカは、キヌアが武術の指導に夢中になることでクシを忘れてくれることを願っていた。



 クシがクスコを去ってからだいぶ経ったある日、ティッカがキヌアの部屋に慌てて飛び込んできた。


「キヌアさま、大変です。今晩、お部屋に皇帝陛下がいらっしゃるそうです。

 早くお支度をしないと……」


 ティッカは衣装籠をひっくり返してあれこれと選び始めた。相変わらず武術の指導ばかりしているキヌアには適当な服がない。

 衣装をほとんど籠から出して、一番底には見事な織りのショールと頭巾が残った。


「キヌアさま、さすがにこれはまずいですよね」


 ティッカがおずおずとそれを広げて見せた。


「これはクシのお母さまの……」


 キヌアはそれをティッカから受け取ると、懐かしそうに眺めた。


「クシさまにお借りしたまま返せずに……。

 私たちであのお部屋に返しに行くのは難しいですよね。黙って入ったことが知れたらどんなお咎めを受けるか分かりませんもの」


「ティッカ、これはこのまま仕舞っておきましょう。クシが帰って来るときまで」


 キヌアはそれらの着物を丁寧に畳むと、籠の底に大切に収めた。


「別に着飾らなくていいのよ。無理に作っても仕方ないでしょ? これからずっとお傍にいるのだから。いま着ているものでいいわ」


 キヌアは、散らかった服を畳んでその上に重ねながら言った。


「では、せめて御髪(おぐし)を整えて香油を塗るだけでも」


 ティッカは慌てて準備を整えると、いつも束ねて絡まっているキヌアの癖毛をほぐし始めた。


「キヌアさま、良かったですね。

 クスコに来た意味が見出せず、さらに懇意にしてくださったクシさまが居なくなられて沈んでいらしたので、心配だったんですよ。

 皇帝陛下がキヌアさまをお后と認めてくだされば、それこそキヌアさまがここに来られた意味があるというもの。立派にお役目を果たすことができますもの」


「……そうね」


 キヌアは少し口の端を上げて笑ってみせるが、その表情は固かった。ティッカは婚礼の日以来会うことのなかった皇帝の突然の訪問にキヌアがひどく緊張しているのだと思った。


「そうですとも! お母様……『天の女王』さまもお喜びになります!」


 キヌアはまだ強張った表情のまま軽く頷いた。




 日が落ちると、数人の侍従を従えて皇帝がキヌアの部屋に姿を現した。キヌアが挨拶を済ませると侍従もティッカも速やかに部屋を引き上げていった。


 まだ腰を低くして頭を下げたまま畏まっているキヌアに近づくと、皇帝は彼女の顎に手を伸ばして持ち上げ、彼女の顔を自分に向けた。

 婚礼の日に大広間で挨拶をして以来、全く顔を合わせることがなかったので、キヌアが皇帝の顔を間近で見るのも初めてだ。



 キヌアの婚礼が決まった途端、これまでキヌアの戦士としての技術と精神力を鍛えることだけに腐心してきた彼女の教育係たちは、俄かにクスコ風の女性としての振る舞いを身につけさせることに執念を燃やし始めた。

 普段の彼女の行動をすべて否定されることから始まったその躾は戸惑うことばかりで、何度も逃げ出してはまた連れ戻された。

 しかし、それはまだ序の口だったと彼女が知ったのは、最後の教育が始まったときだった。

 まだ若い王女は、側后として何を為すべきかということを一から覚えねばならなかった。

 今までの生き方を変え、屈辱にも耐えて、ひと通りのことを身に付けたというのに、クスコに来てみればその大役を果たす機会は与えられず、ただ漫然と時を過ごすことしかできなかった。ようやく本来の役目を果たす時が来たのだ。



 キヌアは仄暗い松明の明かりに照らし出されている皇帝の顔をじっと見つめた。

 僅かにクシに似てはいるが、深い皺を刻んだその顔は、弱々しく憐れな老人にしか映らない。かつてはその名を聞けば誰もが震え上がると言われた勇猛な皇帝の面影はどこにも感じられない。

 キヌアの顎を持ち上げているその指も細く骨ばって血が通っていないのではないかと思うほどひんやりと冷たい。

 皇帝は、顔を近づけて彼女の瞳を覗き込むようにして言った。


「間近に見ればなんと似ているのだ。そなたは母上にそっくりだ。野蛮な娘かと思っていたのは、余の大きな誤りであった」


 そう言うとキヌアの身体を抱きかかえ、甘えるように縋りついてきた。

 キヌアは背筋に水が走るような嫌悪感を抱いた。

 擦り寄る皇帝の身体を受け止めながら、クシと無邪気に合わせ稽古をしていた日々をありありと思い返していた。






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