第7話 安全すぎる村で
その夜、雨が降った。
辺境では珍しくもない天気だ。空気が湿り、土の匂いが強くなる。けれどリリアは、雨音を聞きながら、どこか落ち着かない気分で寝返りを打っていた。
(……静かすぎる)
雨が降っているのに、外が騒がしくならない。
風も強くない。家々の軋む音も、動物の鳴き声もない。ただ、一定のリズムで雨が地面を打つ音だけが続いている。
眠れないまま、夜が明けた。
外に出ると、村は雨上がりの匂いに包まれていた。
道はぬかるんでいるはずなのに、足を取られるほどではない。畑の土も、ちょうどいい具合に水を含んでいる。
「助かったなぁ」
畑で鍬を持っていた男が、空を見上げて言った。
「昨日の雨、強くならなくてよかった。作物がちょうど欲しがってた分だけ降った」
隣の村人も頷く。
「最近、天気運がいいよな。この辺り」
“運がいい”。
その言葉が、胸に引っかかる。
運で済ませていいのだろうか、と。
村を歩くと、昨日まであったはずの小さな不調が、すべて解消されていることに気づいた。
咳をしていた老人は、今日は元気に杖をついて歩いている。
落ち着きのなかった馬は、静かに飼い葉を食べている。
喧嘩腰だった二人の若者も、今日は互いに視線を逸らして通り過ぎた。
(……揃いすぎてる)
安全。
安定。
平穏。
どれも、良い言葉だ。
けれど、重なりすぎると、不安になる。
村の外れで、レオンが見回りをしていた。
鎧ではなく、動きやすい服装。剣は腰にあるが、抜かれた形跡はない。
「昨夜の雨、問題なかったか?」
「……はい。特には」
「そうか。ならいい」
それだけで会話は終わる。
けれど、レオンは去り際に、ふと立ち止まった。
「この辺り、魔物の足跡がほとんどない」
独り言のような声音だった。
「森も静かだ。静かすぎるくらいにな」
リリアは、何も答えなかった。
答えられなかった、の方が正しい。
昼頃、行商人が村に立ち寄った。
荷馬車を引く、見覚えのある一団だ。以前、街道で道を教えてくれた商人もいる。
「おお、また会ったな」
気さくに声をかけられ、リリアは軽く会釈する。
「この村、居心地がいいだろ?」
「……はい」
「不思議だよな。辺境なのに、空気が澄んでる。夜も静かだし、馬が妙に落ち着く」
商人は首を傾げた。
「ここを拠点にしようか、って話も出てるんだ。危険が少ないのはありがたい」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきしんだ。
(……だめ)
人が集まる。
広がる。
そうなれば、いずれ――。
王都の記憶が、脳裏をよぎる。
平和で、整っていて、評価される場所。
そして、不要になった瞬間に切り捨てられた場所。
夕方、村長の家を訪ねた。
「……相談が、あります」
自分から切り出すのは、勇気がいった。
「この村に、人が増えるかもしれません」
村長は、少し意外そうに眉を上げた。
「行商人から聞いたか。まあ、可能性はあるな」
「……それは、村にとって、良いことですか」
村長は、すぐには答えなかった。
しばらく考え、それから言う。
「良い面も、悪い面もある。人が増えれば、争いも増える。だが、衰えるよりはましだ」
リリアは、唇を噛んだ。
(……私は)
この村が、好きだ。
静かで、無理がなくて、誰も彼女を値踏みしない。
でも、その“安全”が、自分を中心に広がっているのだとしたら?
「……もし、村が変わる原因が、私だったら」
言葉にした瞬間、胸が苦しくなる。
「私は……ここに、いない方がいいんでしょうか」
村長は、じっとリリアを見た。
聖女を見る目ではない。一人の人間を見る目だ。
「君が原因だと、どうして思う?」
「……わかりません。でも……」
「なら、決めるのは早すぎる」
村長は、静かに言った。
「この村は、君が来る前からここにあった。君がいなくなっても、ここにあり続ける。だが、今は――君がここにいる」
それだけで、答えのすべてのようだった。
夜、外に出る。
星がよく見える。雲一つない空。
リリアは、胸に手を当てる。
何もしていない。
祈ってもいない。
それでも、空気は安定している。
村は守られている。
(……安全すぎる)
その事実が、いつか誰かを呼び寄せる。
それが、良いことなのか、悪いことなのか――まだわからない。
ただ一つ、確かなことがある。
この静けさは、永遠ではない。
リリアは夜空を見上げながら、初めて「いつかここを離れる日」を、はっきりと意識していた。




