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癒ししかできない無能聖女として追放されましたが、私がいなくなった国はもう保ちません  作者: 蒼井 玲


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第60話 閾値という壁

 王都、聖堂の地下記録庫。


 石壁に囲まれた部屋は、昼でも暗い。

 古い羊皮紙と封印箱が積み上がり、埃の匂いが満ちている。


 クラウスは、一冊の古文書を机に広げていた。


 報告はすでに届いている。


 南方交易都市リュシエル。

 未登録適性者死亡。

 巻き込み三十二名。

 建物一棟、記録欠落。


 羊皮紙の一部が、白く抜けている。


 記録者の筆跡が、途中で消えているのだ。


「……やはり」


 クラウスは低く呟く。


 机の向かいで、老神官が息を吐く。


「閾値だな」


「ええ」


 古文書には、かすれた文字で書かれている。


 ――聖性は均衡の力なり

 ――数が増えれば、位相は濃くなる

 ――濃度が限界を越えし時、世界は収束を求める


 クラウスは、報告書と照らし合わせる。


「適性者数が増えすぎた」


「だから収束した」


 老神官は目を閉じる。


「世界は、中心を作る」


 それは神の意思ではない。


 ただの法則。


 自然現象。


「問題は」


 クラウスが続ける。


「誰が中心になるかです」


 最も強い適性者。


 それは、ほぼ決まっている。


 リリア。


 老神官は静かに言う。


「だから我々は唯一を維持してきた」


「強制的に、濃度を抑えるために」


 独占は政治だけではない。


 世界の暴走を防ぐためでもあった。


 だが今は、遅い。


 拡散は始まってしまった。


 地上。


 聖堂の会議室。


 神官たちが声を荒げている。


「南の惨事を見ただろう!」


「複数容認の結果だ!」


「管理を復活させるべきだ!」


 保守派の圧力。


 セレナは、席に座ったまま聞いている。


 沈黙が、重い。


「……確かに」


 彼女はゆっくり言う。


「危険は増えました」


 ざわめき。


 保守派が勢いづく。


「だから」


 次の言葉で、空気が変わる。


「唯一に戻るのですか?」


 問い。


 誰も即答できない。


 唯一でも、完全ではない。


 歴史が証明している。


 セレナは立ち上がる。


「強制管理は、短期的には安定を作るでしょう」


 だが。


「恐怖は、必ず反発を生みます」


 静かな声。


「そして、より大きな共鳴を呼ぶ」


 沈黙。


 結論は出ない。


 世界は、単純ではない。


 一方、炭鉱町。


 丘の上で、レオンは空を見ていた。


 南の惨事は、すぐに噂になった。


「……死んだんだ」


 声が震える。


 リリアは否定しない。


「はい」


 少年の胸に、重い石が落ちる。


「俺が言ったんだ」


 みんなが持てばいい。


 分散すればいい。


 その理想が、誰かの死と重なる。


「俺のせいだ」


「違います」


 リリアの声は、はっきりしている。


「あなた一人のせいではありません」


 だが完全否定もしない。


 それが、彼女の誠実さだ。


 エルナが腕を組む。


「でもね」


 レオンを見る。


「世界は優しくない」


 理想だけでは守れない。


 リリアは、ゆっくり言う。


「分散には、限界があります」


 少年が顔を上げる。


「……限界?」


「ええ」


 空を指す。


「世界は、濃くなりすぎると収束します」


 つまり。


「中心を作ろうとする」


 レオンの背筋が冷える。


「じゃあ……」


 もし適性者が増え続けたら。


 誰か一人に集まる。


 強制的に。


 彼の視線が、リリアへ向く。


 彼女は静かに立っている。


 その存在が、すでに答えだった。


 レオンの喉が乾く。


「……あんたが」


 言いかけて、止まる。


 リリアは言う。


「まだ、そうとは限りません」


 だが可能性は高い。


 丘の上で、風が吹く。


 分散は理想。


 だが無制限ではない。


 世界には、


 見えない壁がある。


 それを超えれば、


 均衡は、


 強制的に作られる。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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