第6話 感謝されそうになって、逃げた
朝の村は、相変わらず静かだった。
リリアは井戸のそばで、水桶を抱えながら深く息を吸った。
冷たい空気が肺に入り、頭の中が少しだけ冴える。
(……今日も、何も起きていない)
それが、この村の日常になりつつあることに、まだ慣れない。
辺境だと聞いていた。魔物も出るし、作物も安定しない。だから人手が足りず、余裕もない――そういう場所だと思っていた。
けれど、ここ数日は違う。
「リリアちゃん、これ持ってって」
声をかけられ、振り返る。
昨日、畑仕事を教えてくれた女性が、籠を差し出していた。中には、焼き立てのパンがいくつも入っている。
「……え?」
「余ったからさ。昨日、手伝ってくれただろう?」
手伝った、と言えるほどのことはしていない。
教わりながら土をならし、苗を植えただけだ。失敗も多かったし、正直、足手まといだったと思う。
「い、いえ……私は……」
断ろうとした言葉が、途中で止まる。
女性は、にこりと笑った。
「遠慮しなくていいよ。助かったのは本当なんだから」
助かった。
その言葉に、胸の奥がひくりと揺れる。
――違う。
――私は、助けてなんていない。
それなのに、否定する言葉が見つからなかった。
結局、籠を受け取ってしまう。
「……ありがとうございます」
声が、少しだけ小さくなった。
女性は満足そうに頷き、畑へ戻っていった。
残されたリリアは、パンの温もりを手に感じながら、立ち尽くす。
(……だめだ)
これは、よくない。
感謝されることに、慣れてはいけない。
理由は、うまく言葉にできない。
けれど、王都での記憶が、胸の奥で静かに疼いた。
必要とされる。
評価される。
期待される。
その先にあったのは、追放だった。
村の中央を歩いていると、今度は別の声がかかる。
「リリアさん」
村長だった。
穏やかな表情だが、今日はどこか改まっている。
「少し、話せるかね」
「……はい」
家の中に招かれ、簡素な椅子に座る。
卓上には、湯気の立つ茶が置かれていた。
「この村はね、ここ数年、あまり運が良くなかった」
村長は、静かに話し始めた。
「魔物も出るし、病も流行った。若い者は町へ出ていく。正直、今年も厳しいと思っていたよ」
リリアは、黙って聞く。
自分が口を挟んでいい話ではない。
「だが、最近は不思議と落ち着いている。作物も順調だし、家畜も元気だ。村人同士の揉め事も、ほとんどない」
そこで、村長はリリアを見た。
じっと、確かめるように。
「……君が来てから、だ」
胸が、きゅっと縮む。
「い、いえ……それは、偶然です」
即座に否定した。
声が、少し早口になる。
「私は、特別なことは何もしていません。ただ……ここにいただけで……」
言いながら、苦しくなる。
“ここにいただけ”――それが、一番危険な言い回しだと、どこかで理解していた。
村長は、しばらく黙っていた。
それから、ふっと笑う。
「そうか。なら、偶然なんだろう」
深追いは、しなかった。
そのことに、心底ほっとする。
「だがな、リリア。偶然でも、必然でも、村が穏やかならそれでいい。我々は、理由より結果を大事にする」
その言葉は、王都で聞いてきた「結果」とは、どこか違って聞こえた。
比較も、順位もない。ただ、生きやすいかどうか。
「……ありがとうございます」
何に対する感謝なのか、自分でもよくわからなかった。
家を出ると、空は高く、雲がゆっくり流れていた。
風が、やさしい。
(……私が、いるから?)
考えかけて、首を振る。
(違う。考えちゃだめ)
その日の午後、村の外で、家畜が一頭倒れた。
老いた山羊で、寿命だろうと皆が言った。
けれど、リリアにはわかった。
寿命ではない。小さな瘴気の滞留。放っておけば、他の家畜にも影響が出る。
――祈れば、消える。
それは、確信に近い感覚だった。
リリアは、一歩下がる。
(……だめ)
ここで祈れば、また「理由」になってしまう。
誰かが気づくかもしれない。感謝されるかもしれない。
彼女は、何もせず、その場を離れた。
結果として、瘴気は夜までに薄れ、他の家畜に被害は出なかった。
誰も、そのことを不思議に思わない。
夕方、レオンとすれ違う。
「今日は、村が妙に穏やかだな」
「……いつも通り、だと思います」
「そうか?」
レオンは首を傾げたが、それ以上は言わなかった。
夜。
部屋で一人、外套を畳みながら、リリアは思う。
感謝される前に、逃げた。
役に立つ前に、引いた。
それでも、村は守られている。
(……私は、どうしたいんだろう)
答えは出ない。
ただ一つ、はっきりしていることがある。
――私はもう、「必要とされる場所」に戻りたくない。
その願いだけが、胸の奥で静かに形を持ち始めていた。
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