第32話 無名の手が、町を支える
昼を過ぎる頃には、広場の様子は少しだけ変わっていた。
壊れた屋台は立て直され、割れた瓶は回収され、血の跡は水で流されている。
だが、そのどれもが、完璧ではない。
歪んだままの柱。
色の違う板で継ぎ足された屋根。
雑に塗り込められた泥。
町は、傷跡を隠さずに立ち上がろうとしていた。
リリアは、石畳の端に立ち、その光景を見ている。
昨日なら、癒していたかもしれない。
空気を整え、感情を鎮め、穏やかな言葉を落としたかもしれない。
だが今は、ただ見る。
「……そこ、もう少し押さえてくれ」
声を張り上げたのは、町の代表ではなかった。
昨日まで目立たなかった若い男だ。
大工でも騎士でもない。
ただの、酒場の給仕だった男。
「それじゃ傾くだろ」
苛立ち混じりに言いながらも、自分の手を止めない。
誰も彼を指名していない。
誰も彼に命じていない。
それでも、いつの間にか人が彼の周りに集まり、手伝い始めている。
指示は荒い。
言葉は優しくない。
何度も言い争いになる。
「だから、そこは――」
「うるせえな、わかってる!」
怒鳴り声。
だが、殴り合いにはならない。
怒りは、残っている。
消えていない。
それでも、仕事は進む。
リリアは、静かに息を吐いた。
(……怒りが、使われている)
押し込められた感情ではなく。
燃やすための怒りでもなく。
ただ、動くための熱として。
エルナは、広場の端で腕を組み、その様子を見ていた。
「……面白いわね」
皮肉ではない声。
「私が立っているときは、誰も動かなかったのに」
「あなたが、引き受けていたからです」
リリアは、視線を動かさずに言う。
「責任も、怒りも、終わらせ方も」
エルナは、小さく舌打ちした。
「嫌な言い方」
「事実です」
広場の中央で、例の若い男が、手を止めた。
汗を拭いながら、周囲を見回す。
「……誰か、怪我人のところ行ってくれ」
命令ではない。
頼みだ。
すぐに、二人が動く。
リリアは、その流れを見ながら、胸の奥で静かな確信を抱く。
(……救わなくても、立てる)
時間はかかる。
傷は残る。
歪みは完全には消えない。
それでも、人は立つ。
エルナが、ぽつりと呟く。
「私、いらなかったのかしら」
その声には、初めて本音が混じっていた。
「いいえ」
リリアは、即座に否定する。
「あなたがいたから、壊れました」
エルナが、眉をひそめる。
「……褒めてるの?」
「はい」
リリアは、真顔で言った。
「壊れなければ、動けませんでした」
沈黙。
エルナは、目を伏せ、しばらく何も言わなかった。
「……ずるいわね」
やがて、低く呟く。
「壊すのは私。
立ち上がるのは彼ら。
あんたは、見てるだけ」
「ええ」
リリアは、否定しない。
「でも、見ている者がいないと、人はまた誰かを燃やします」
エルナは、笑った。
皮肉でも、自嘲でもない。
少しだけ、軽くなった笑み。
「……あんた、本当に嫌な聖女」
「もう聖女ではありません」
「そういうところよ」
広場の向こうで、若い男がふらついた。
疲労で足を滑らせる。
リリアは、一瞬だけ、前に出かけて止まった。
(……まだ、大丈夫)
他の誰かが、彼を支えた。
文句を言いながら、笑いながら。
無名の手が、町を支えている。
英雄はいない。
魔女も、聖女も、中心に立っていない。
それでも町は、少しずつ形を取り戻していく。
リリアは、静かに思う。
――これが、望んだ世界。
壊れながら。
不完全なまま。
誰か一人に背負わせない世界。
そのとき、広場の外れで、小さなざわめきが起きた。
見慣れない服装の男たちが、町へ入ってくる。
整った装備。
規律ある足取り。
リリアの胸が、わずかに冷えた。
(……来た)
壊れた町を見に来たのではない。
“原因”を探しに来た者たち。
王国の紋章が、陽光に鈍く光っていた。




