第26話 留まらない聖女は、救わない
世界は、今日も壊れていない。
朝になれば人は起き、火を起こし、言葉を交わす。
畑は耕され、道は踏み固められ、争いは小さな声で始まり、やがて形を変えて消えていく。
完全な平和はない。
だが、完全な破滅もない。
それが、この世界の常態だ。
街道を歩くリリアは、その光景を遠くから眺めながら、足を止めなかった。
誰かに呼び止められることもなく、誰かを呼び止めることもない。
旅人として。
名も持たない者として。
かつて「聖女」と呼ばれていた痕跡は、もう身につけていない。
白い法衣も、祈りの道具も、称号も。
残っているのは、歩くための足と、見極めるための目だけだ。
街道沿いの町は、騒がしかった。
怒鳴り声、泣き声、笑い声が入り混じる。
小さな揉め事が、あちこちで芽を出している。
リリアは、立ち止まらない。
助けを求める声が、聞こえなかったわけではない。
だが、それは「救い」を求める声ではなかった。
――誰かに代わりに決めてほしい。
その響きを、彼女は聞き分けられるようになっていた。
(……それは、私の役目じゃない)
人は、自分で選び、失敗し、傷つき、そして進む。
それを奪わない。
それが、彼女の選んだ在り方だった。
町を抜け、再び街道に出る。
空は曇り、遠くで雷鳴が低く唸っている。
不安定な天候。
不安定な人心。
だが、世界はまだ均衡を保っている。
その均衡が、どこで崩れるか。
誰が、何を引き金にするのか。
リリアは、答えを探さない。
ただ、壊れ始めた場所を見過ごさないだけだ。
街道の先、丘の向こうから、黒い煙が立ち上っているのが見えた。
火事か。
それとも――もっと別の何かか。
人が集まり、怒りが集まり、言葉が集まる場所。
リリアは、足を止めた。
胸の奥で、かすかな違和感が波打つ。
安定をもたらす感覚ではない。
むしろ、逆だ。
(……引き出されている)
抑え込まれていた感情が、表に出ようとしている。
誰かが、意図的に。
それは、聖女のやり方ではない。
だが――世界に必要なやり方かもしれない。
リリアは、進路を変え、丘の向こうへ向かった。
救うためではない。
止めるためでもない。
ただ、**何が起きているのかを見るために。**
留まらない聖女は、知っていた。
癒す者が必要な世界には、
同時に――**歪みを引き受ける者も現れる**ということを。
そして、その役を担う者は、
決して、感謝される場所には立たないということを。
世界は、まだ壊れていない。
だが、壊れ始める音は、確かにそこにあった。




