第23話 別れを告げない別れ
村は、いつも通りの朝を迎えた。
パンの焼ける匂い。
井戸の水音。
誰かが家畜に声をかける、穏やかな朝の気配。
それが、今朝で最後だと知っているのは、リリアだけだった。
荷袋は、もう背負っている。
中身は変わらない。着替えと、少しの食料。
聖女として持っていたものは、何一つ入っていない。
リリアは、家を出る前に、少しだけ立ち止まった。
扉に手を置き、目を閉じる。
(……ここは、壊れていない)
それが、救いだった。
去る理由が、破壊ではないこと。
村の中央へ向かうと、すでに起きている人もいた。
だが、声をかけられない。
声をかけてしまえば、理由を問われてしまう。
理由を語れば、この場所は“中心”を持ってしまう。
それを、リリアは避けたかった。
畑の脇で、ミーナが一人、草を摘んでいた。
朝露に濡れた指で、小さな花を集めている。
「……ミーナ」
思わず、声が漏れた。
ミーナは振り返り、ぱっと顔を明るくした。
「リリア! おはよう!」
いつもと同じ。
何も知らない声。
胸が、きゅっと締まる。
「……早いね」
「うん! 今日はね、村の外まで行ってみようと思って」
その言葉に、息を呑む。
「……どうして?」
「だって、外も……怖いけど、気になるでしょ?」
子どもは、もう気づいている。
境界が、薄くなったことを。
リリアは、膝をつき、ミーナの目線に合わせた。
「……無理は、しないで」
「うん!」
何も知らない返事。
だからこそ、言えることは少ない。
リリアは、ミーナの頭をそっと撫でた。
癒しの力は、込めない。
ただの、温度だけ。
「……ありがとう」
ミーナは、理由もわからず笑った。
立ち上がった時、背後から低い声がした。
「もう、行くのか」
レオンだった。
剣は帯びていない。巡回前の服装。
「……はい」
「誰にも、言わないつもりだな」
「……はい」
レオンは、少しだけ口角を上げた。
「正しい」
それだけだった。
彼は、村の外へ続く道を顎で示す。
「夜明け前に出るつもりだったんだろう。……だが、もう朝だ」
リリアは、空を見上げた。
雲の切れ間から、淡い光が差している。
「……間に合いました」
「そうだな」
レオンは、それ以上何も言わなかった。
引き止めない。
理由も、聞かない。
それが、最大の理解だった。
村の外れに差し掛かる。
振り返らない。
振り返ってしまえば、この場所を“選んだ”ことになる。
境界は、もうほとんど感じられなかった。
内と外の空気が、緩やかに混じり合っている。
(……大丈夫)
この村は、生きていける。
守られすぎず、壊れすぎず。
リリアは、最後に一度だけ、胸に手を当てた。
祈りではない。
別れの言葉でもない。
ただの、確認。
――私は、去る。
歩き出す。
街道の土が、足裏に伝わる。
背後で、村の音が続いている。
それが、何よりの証だった。
追放された聖女は、
誰にも別れを告げないまま、
それでも確かに、
**居場所を壊さずに、そこを去った。**




