第11話 留まる理由が、増えていく
朝、村の空気は少しだけ甘かった。
焼いた麦の匂い。濡れた土の匂い。煙の匂い。
全部が混じって、どこか「ここにいていい」と言われている気がする。
リリアは水桶を抱え、井戸から戻る途中で足を止めた。
家々の間を、子どもたちが走り回っている。昨日まで見なかった顔も混じっていた。
(……増えてる)
人が。
そして、声が。
怖い。
でも同時に、少しだけ――うれしい。
自分が「聖女」でなくなってから、うれしいと感じたことは少ない。
それなのに、ここでは、何でもないことが胸を温める。
「リリアさん!」
呼ばれて振り返ると、旅人の母親が、小さな女の子の手を引いて立っていた。
昨日、村長の家で休ませていた一家だ。
「この子、昨夜から熱が下がらなくて……薬もなくて……」
声が震えている。
助けを求める顔。
リリアの胸の奥が、ひくりと跳ねた。
(……だめ)
反射で手が動きかけて、止まる。
額に手を当てれば、祈れば――すぐに下がるだろう。
それがわかってしまう。
それをしてしまったら、ここはまた「必要とされる場所」になる。
自分はまた、役割に戻る。
母親は、縋るような目をしていた。
でも、その目には「聖女」への信仰はない。ただ、目の前の人間に助けを求める必死さだけがある。
リリアは喉が乾くのを感じた。
「……村長さんに。旅医さんを呼べるかもしれません」
口から出た言葉は、逃げに近かった。
でも、今できる最善でもあった。
「旅医……?」
「巡回している方が、たまに寄ると聞きました。村長さんなら、知っているかも」
母親は不安そうに頷き、女の子の手を強く握り直す。
「お願いします……」
リリアは、頷いて走った。
村長の家に駆け込むと、ちょうど外の代表者たちと話しているところだった。
リリアの様子に気づいた村長が、すぐに席を外す。
「どうした」
「子どもが、熱を……。薬がなくて」
村長は眉を寄せた。
「フィオナか」
その名前が、すぐに出た。
「旅医さんですか」
「ああ。この近辺を回っている。昨日の夕方、隣村に寄ったと聞いた。たぶん今日、こちらにも来るだろう」
村長は迷いなく指示を出した。
「レオンに迎えに行かせる。君は、母親を落ち着かせてやってくれ」
“君は”。
その言い方が、リリアの胸を少しだけ締め付けた。
聖女としての“君は”ではない。
村の一人としての“君は”。
求められている。
役割がある。
(……逃げたい)
でも、逃げたら、この子はどうなる。
リリアは深く息を吸って、母親のもとへ戻った。
小さな家の隅で、女の子は毛布にくるまり、熱で頬を赤くしている。
「……ごめんね」
母親が、泣きそうな声を出す。
「私がもっと、早く……」
「大丈夫です」
リリアは、その言葉を口にしながら、自分が何をしているのか分からなくなりそうだった。
大丈夫だと言うのは簡単だ。けれど“何もできない”自分が言っていい言葉ではない。
女の子の額に、そっと手を伸ばす。
触れる直前で、止めた。
(……祈らない)
それが、今の自分の選択だ。
手を引っ込める代わりに、毛布の端を整えた。
汗で濡れた髪を、軽く額から払ってやる。
「喉、渇いてるかもしれません。少しだけ、水を」
母親は頷き、コップを持ち上げた。
女の子はうまく飲めず、少し咳き込む。
その音が、胸を刺す。
(……私なら)
すぐ治せる。
それなのに、しない。
自分は薄情なのかもしれない、と一瞬思う。
けれど次の瞬間、別の声が頭の中で囁いた。
――必要とされるなら、また捨てられる。
王子の声。
大司教の声。
あの日の広間の空気。
リリアは、手を握りしめた。
昼過ぎ、レオンが村に戻ってきた。
後ろには、ひとりの女性がいた。
旅装の上に、薄い外套。
髪は結い上げられ、顔は日に焼けている。年齢は二十代後半だろう。
背負い袋は大きく、歩き方に迷いがない。
「村長。フィオナを連れてきた」
レオンが言う。
女性――フィオナは、周囲を一瞥してから、短く頷いた。
「話は聞いた。熱の子がいるんだって?」
声音は落ち着いていた。
祈りでも、慰めでもない。状況を処理する声。
リリアは、その声にほっとしてしまう。
自分がやらなくていい理由が、目の前に現れたからだ。
フィオナは家に入るなり、女の子の様子を見て、即座に判断した。
「水分が足りない。喉が腫れてる。薬があれば抑えられるけど……この熱、変だね」
「変……?」
母親が恐る恐る尋ねる。
「悪い意味じゃなくて、“治りが早すぎるか遅すぎるか”のバランスが変。周りの空気が落ち着いてるのに、体だけ頑張りすぎてる」
フィオナはそう言いながら、持参の粉薬を溶いた。
それを少しずつ飲ませ、額に冷やした布を当てる。
手際がいい。
迷いがない。
母親は、ようやく息を吐いた。
「……ありがとうございます。本当に」
フィオナは肩をすくめるだけだった。
「礼はいい。仕事だ」
そして、ふと周囲を見回す。
「……この村、妙に静かだね」
その言葉に、リリアの心臓が跳ねた。
フィオナは、リリアの方を見たわけではない。
ただ、空気の「質」を見ているだけだ。
「回復が早い。怪我も病も、悪化しにくい。普通の辺境じゃ、こうはならない」
村長が、軽く咳払いをした。
「偶然だろう」
「偶然で片づけられる程度ならいい。でも――」
フィオナは女の子の脈を取りながら、淡々と言った。
「過剰な安定は、歪みになる。どこかにしわ寄せが行く」
その一言が、リリアの胸に深く刺さった。
(……やっぱり)
自分が感じていた違和感が、言葉になる。
怖いほど正確に。
夕方、女の子の熱は少し下がった。
母親が泣きながら何度も頭を下げる。
「本当に……助かりました」
フィオナは「まあ」とだけ言い、道具を片づけた。
家の外に出ると、フィオナは空を見上げた。
夕暮れの光が、彼女の横顔を照らす。
「……ここ、守られてる」
独り言のように言う。
宗教的な響きはない。診断のような声。
リリアは、思わず聞いてしまった。
「……守られている、って」
フィオナはリリアを見た。
鋭い目。けれど、値踏みではない。
「そう感じるだけ。原因は知らないし、決めつける気もない」
そして、少し間を置いて付け足す。
「でもね。守られてる場所に人が集まると、そこは“砦”になる。砦は、いつか戦場になる」
リリアは息を呑んだ。
村の灯りが、遠くでぽつぽつと点る。
あたたかい光。
それが、急に危ういものに見えた。
(……留まる理由が、増えていく)
子どもがいる。
助けが必要な人がいる。
そして、優しい人たちがいる。
だからこそ――。
リリアは、胸の奥で静かに思う。
留まることが、誰かを守ることになり。
同時に、誰かを危険に晒すことにもなる。
その矛盾が、今日、はっきり形を持った。
追放された聖女は、また一つ、居場所に縛られそうになっていた。
そして同時に、そこから逃げ出したいとも強く思っていた。




