第9話 嵐の夜のまかない飯
王都を叩きつけるような激しい雨音が、店の屋根を揺らしている。
聖女リリィと衛生管理官が去った後、天候は急変し、まるで世界そのものが怒っているかのような嵐の夜となっていた。
「……ふぅ。やっと片付きました」
『居酒屋マリー』の暖簾を店内にしまい、重い閂をかけたマリーは、大きく息を吐き出した。
深夜一時。
すべての客が帰り、嵐の中に静寂だけが取り残された店内。
張り詰めていた気が緩んだのか、マリーはカウンターに手をつき、ぐったりと肩を落とした。
「お疲れ様でした。今日はもう、閉店で……あれ?」
誰もいないはずの客席に、一人の男が残っていた。
大剣を背負ったまま、腕を組んで座っているガリウスだ。
「ガリウスさん? もう閉店ですよ。外は嵐ですし、早く宿に戻らないと」
「……こんな嵐の中に、女一人置いて帰れるか」
ガリウスはぶっきらぼうに言った。
その視線は、マリーの顔をじっと見つめている。
「無理をして笑うな。……顔色が悪いぞ」
「え……」
マリーは慌てて自分の頬に触れた。
気丈に振る舞っていたつもりだった。聖女の嫌がらせも、管理官の視線も、笑顔で跳ね返したつもりだった。
けれど、心の奥底ではすり減っていたのだ。
かつて自分を追放した王家や貴族社会の理不尽な悪意が、再び自分を追いかけてきた恐怖に。
「あはは……。やっぱり、お腹が空くと力が出ませんね」
マリーは力なく笑ってごまかした。
ぐぅ、と小さくお腹が鳴る。
昼から何も食べていないことに気づいた。
「俺もだ。……なんか残ってないか? 残り物でいい」
ガリウスの不器用な優しさに、マリーの胸がじんわりと温かくなる。
豪華な料理を作る気力はない。
でも、冷え切った心と体を温める、とびきり優しいものが食べたい。
「じゃあ、一緒に『まかない』を食べましょうか。……ちょっと待っていてくださいね」
マリーは厨房に入り、おひつを開けた。
中には、冷たくなった白米が残っている。
炊きたてのご飯も美味しいが、この料理には、少し水分が抜けて締まった『冷やご飯』こそが至高なのだ。
「お湯を沸かして……と」
小鍋に、いつもの『黄金の出汁』を入れる。そこに、香り高い『深緑茶』の茶葉を煮出した濃いお茶を合わせる。
出汁の旨味と、お茶の渋みと香り。この二つが合わさることで、最強のスープが完成する。
具材はシンプルに。
朝食の残りの『紅鮭』の塩焼き。
皮目をパリッと焼き直し、身を粗くほぐす。
そして、一年間塩漬けにして干した『酸味の実』。真っ赤な果肉を叩いてペースト状にする。
「お待たせしました。『出汁茶漬け』です」
マリーは二つの丼をカウンターに並べた。
ガリウスの隣に、自分も腰を下ろす。
どんぶりの中には、白いご飯の山。
その頂上には、鮮やかなピンク色の鮭、赤い梅肉、そして刻んだ海苔と、鼻にツンとくる『山わさび』。
「……ここへ、熱々の『出汁茶』をかけます」
マリーは急須を傾けた。
サララララ……。
静かな店内に、お茶を注ぐ涼やかな音が響く。
ご飯の山が崩れ、透き通った緑がかった黄金色のスープに浸っていく。
湯気と共に立ち上るのは、かつお節のふくよかな香りと、お茶の香ばしさ、そして海苔の磯の香り。
「いい音だ。……雨音より、ずっと心地いい」
ガリウスが喉を鳴らす。
マリーは小皿に、箸休めの『お新香』――キュウリとカブの浅漬けを添えた。
「いただきます」
「おう、いただきます」
二人は同時に箸を手に取り、丼を持ち上げた。
行儀悪く、音を立ててすするのが茶漬けの流儀だ。
ズズッ、ズズズッ……!!
「……っはぁ」
ガリウスから、深いため息が漏れた。
熱い。けれど、優しい。
出汁の旨味がたっぷり溶け出したスープが、冷えたご飯の一粒一粒をコーティングしている。
サラサラと喉を通るたびに、胃袋がじんわりと熱を持ち、冷え切っていた芯の部分が解凍されていくようだ。
「染みる……。なんだこれは、五臓六腑に染み渡るぞ」
「鮭の塩気と、出汁の相性がいいでしょう?」
マリーも一口すする。
紅鮭の強い塩気が、優しい出汁に溶け出し、絶妙な塩梅になっている。
そこへ『酸味の実』の強烈な酸っぱさが加わると、疲れで鈍っていた味覚が一気に覚醒する。
「この酸っぱい実、目が覚めるな。だが、その後ろから来る出汁の甘みがたまらん」
「ワサビを少し溶かしてみてください。香りが変わりますよ」
言われた通り、山わさびをスープに溶かす。
ツンッとした清涼感が鼻を抜け、全体の味をキリッと引き締める。
これは、大人の味だ。
深夜、疲れ果てた大人が、自分を取り戻すための味。
ズズッ、ズズズッ。
箸が止まらない。
合間に、ポリッ、ポリッとお新香を齧る。
冷たくて歯ごたえのある野菜の食感が、熱くなった口の中をリセットし、またすぐに茶漬けが恋しくなる。
「……あ、なくなっちゃった」
マリーの丼は、あっという間に空になった。
最後の一滴まで飲み干すと、体の中からポカポカと温かい。
満腹感による眠気と、安心感が同時に押し寄せてくる。
「……美味かった。王城のフルコースなんかより、この一杯のほうが千倍価値がある」
ガリウスも丼を置き、満足げに息をついた。
そして、横に座るマリーの方を向いた。
その瞳は、いつになく真剣だった。
「マリー」
「はい?」
「今日みたいなこと、これからも起きるだろう。……お前の料理は美味すぎる。光が強ければ、虫も寄ってくる」
ガリウスの大きな手が、カウンターの上にあるマリーの手に、そっと重ねられた。
ゴツゴツとした、剣だこが沢山ある、温かい手。
「俺が守る。聖女だろうが、騎士団だろうが、王族だろうが関係ない。……この店の暖簾は、俺が絶対に守り抜く」
それは、ただの常連客としての言葉ではなかった。
すべてを捨てた元王子としての、誇りと覚悟が込められた誓いだった。
「ガリウスさん……」
マリーの視界が滲んだ。
湯気のせいではない。
追放されてからずっと、一人で張っていた気が、彼の温かさに触れて決壊したのだ。
「……ありがとうございます。貴方がいてくれて、本当によかった」
マリーは涙を拭い、今日一番の、心からの笑顔を見せた。
外の嵐はまだ続いている。
けれど、この小さな店の中だけは、世界で一番安全で、温かい場所だった。
◇
二人が静かな時間を共有していた頃。
王都の貴族街にある屋敷の一室で、一人の男が報告書を握りつぶしていた。
「兄上が……Sランク冒険者だと? しかも、あの『毒婦』の店に入り浸っているだと?」
男の名はユリウス。
マリーを追放した元婚約者であり、第二王子。
整った顔立ちは、嫉妬と憎悪で歪んでいた。
「ありえん。あの女が作る料理など、下品な汚物だ。兄上は騙されているに違いない……!」
ユリウスは立ち上がった。
その目は、狂気じみた執着に満ちていた。
「僕が目を覚まさせてやる。あの女の化けの皮を剥ぎ、兄上を正しい道に戻すのだ!」
嵐の夜が明ければ、次なる波乱がやってくる。
だが今のマリーには、最強の『盾』がついていることを、彼はまだ知らない。




