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【第2章完】追放された悪役令嬢の『居酒屋マリー』へようこそ  作者: 九葉
第1章

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第9話 嵐の夜のまかない飯

王都を叩きつけるような激しい雨音が、店の屋根を揺らしている。

聖女リリィと衛生管理官が去った後、天候は急変し、まるで世界そのものが怒っているかのような嵐の夜となっていた。


「……ふぅ。やっと片付きました」


『居酒屋マリー』の暖簾を店内にしまい、重いかんぬきをかけたマリーは、大きく息を吐き出した。

深夜一時。

すべての客が帰り、嵐の中に静寂だけが取り残された店内。

張り詰めていた気が緩んだのか、マリーはカウンターに手をつき、ぐったりと肩を落とした。


「お疲れ様でした。今日はもう、閉店で……あれ?」


誰もいないはずの客席に、一人の男が残っていた。

大剣を背負ったまま、腕を組んで座っているガリウスだ。


「ガリウスさん? もう閉店ですよ。外は嵐ですし、早く宿に戻らないと」


「……こんな嵐の中に、女一人置いて帰れるか」


ガリウスはぶっきらぼうに言った。

その視線は、マリーの顔をじっと見つめている。


「無理をして笑うな。……顔色が悪いぞ」


「え……」


マリーは慌てて自分の頬に触れた。

気丈に振る舞っていたつもりだった。聖女の嫌がらせも、管理官の視線も、笑顔で跳ね返したつもりだった。

けれど、心の奥底ではすり減っていたのだ。

かつて自分を追放した王家や貴族社会の理不尽な悪意が、再び自分を追いかけてきた恐怖に。


「あはは……。やっぱり、お腹が空くと力が出ませんね」


マリーは力なく笑ってごまかした。

ぐぅ、と小さくお腹が鳴る。

昼から何も食べていないことに気づいた。


「俺もだ。……なんか残ってないか? 残り物でいい」


ガリウスの不器用な優しさに、マリーの胸がじんわりと温かくなる。

豪華な料理を作る気力はない。

でも、冷え切った心と体を温める、とびきり優しいものが食べたい。


「じゃあ、一緒に『まかない』を食べましょうか。……ちょっと待っていてくださいね」


マリーは厨房に入り、おひつを開けた。

中には、冷たくなった白米が残っている。

炊きたてのご飯も美味しいが、この料理には、少し水分が抜けて締まった『冷やご飯』こそが至高なのだ。


「お湯を沸かして……と」


小鍋に、いつもの『黄金の出汁』を入れる。そこに、香り高い『深緑茶グリーンティー』の茶葉を煮出した濃いお茶を合わせる。

出汁の旨味と、お茶の渋みと香り。この二つが合わさることで、最強のスープが完成する。


具材はシンプルに。

朝食の残りの『紅鮭レッドサーモン』の塩焼き。

皮目をパリッと焼き直し、身を粗くほぐす。

そして、一年間塩漬けにして干した『酸味のウメ』。真っ赤な果肉を叩いてペースト状にする。


「お待たせしました。『出汁茶漬け』です」


マリーは二つの丼をカウンターに並べた。

ガリウスの隣に、自分も腰を下ろす。


どんぶりの中には、白いご飯の山。

その頂上には、鮮やかなピンク色の鮭、赤い梅肉、そして刻んだ海苔と、鼻にツンとくる『山わさび』。


「……ここへ、熱々の『出汁茶』をかけます」


マリーは急須を傾けた。


サララララ……。


静かな店内に、お茶を注ぐ涼やかな音が響く。

ご飯の山が崩れ、透き通った緑がかった黄金色のスープに浸っていく。

湯気と共に立ち上るのは、かつお節のふくよかな香りと、お茶の香ばしさ、そして海苔の磯の香り。


「いい音だ。……雨音より、ずっと心地いい」


ガリウスが喉を鳴らす。

マリーは小皿に、箸休めの『お新香』――キュウリとカブの浅漬けを添えた。


「いただきます」


「おう、いただきます」


二人は同時に箸を手に取り、丼を持ち上げた。

行儀悪く、音を立ててすするのが茶漬けの流儀だ。


ズズッ、ズズズッ……!!


「……っはぁ」


ガリウスから、深いため息が漏れた。


熱い。けれど、優しい。

出汁の旨味がたっぷり溶け出したスープが、冷えたご飯の一粒一粒をコーティングしている。

サラサラと喉を通るたびに、胃袋がじんわりと熱を持ち、冷え切っていた芯の部分が解凍されていくようだ。


「染みる……。なんだこれは、五臓六腑に染み渡るぞ」


「鮭の塩気と、出汁の相性がいいでしょう?」


マリーも一口すする。

紅鮭の強い塩気が、優しい出汁に溶け出し、絶妙な塩梅になっている。

そこへ『酸味の実』の強烈な酸っぱさが加わると、疲れで鈍っていた味覚が一気に覚醒する。


「この酸っぱい実、目が覚めるな。だが、その後ろから来る出汁の甘みがたまらん」


「ワサビを少し溶かしてみてください。香りが変わりますよ」


言われた通り、山わさびをスープに溶かす。

ツンッとした清涼感が鼻を抜け、全体の味をキリッと引き締める。

これは、大人の味だ。

深夜、疲れ果てた大人が、自分を取り戻すための味。


ズズッ、ズズズッ。

箸が止まらない。

合間に、ポリッ、ポリッとお新香を齧る。

冷たくて歯ごたえのある野菜の食感が、熱くなった口の中をリセットし、またすぐに茶漬けが恋しくなる。


「……あ、なくなっちゃった」


マリーの丼は、あっという間に空になった。

最後の一滴まで飲み干すと、体の中からポカポカと温かい。

満腹感による眠気と、安心感が同時に押し寄せてくる。


「……美味かった。王城のフルコースなんかより、この一杯のほうが千倍価値がある」


ガリウスも丼を置き、満足げに息をついた。

そして、横に座るマリーの方を向いた。


その瞳は、いつになく真剣だった。


「マリー」


「はい?」


「今日みたいなこと、これからも起きるだろう。……お前の料理は美味すぎる。光が強ければ、虫も寄ってくる」


ガリウスの大きな手が、カウンターの上にあるマリーの手に、そっと重ねられた。

ゴツゴツとした、剣だこが沢山ある、温かい手。


「俺が守る。聖女だろうが、騎士団だろうが、王族だろうが関係ない。……この店の暖簾は、俺が絶対に守り抜く」


それは、ただの常連客としての言葉ではなかった。

すべてを捨てた元王子としての、誇りと覚悟が込められた誓いだった。


「ガリウスさん……」


マリーの視界が滲んだ。

湯気のせいではない。

追放されてからずっと、一人で張っていた気が、彼の温かさに触れて決壊したのだ。


「……ありがとうございます。貴方がいてくれて、本当によかった」


マリーは涙を拭い、今日一番の、心からの笑顔を見せた。

外の嵐はまだ続いている。

けれど、この小さな店の中だけは、世界で一番安全で、温かい場所だった。


   ◇


二人が静かな時間を共有していた頃。

王都の貴族街にある屋敷の一室で、一人の男が報告書を握りつぶしていた。


「兄上が……Sランク冒険者だと? しかも、あの『毒婦』の店に入り浸っているだと?」


男の名はユリウス。

マリーを追放した元婚約者であり、第二王子。

整った顔立ちは、嫉妬と憎悪で歪んでいた。


「ありえん。あの女が作る料理など、下品な汚物だ。兄上は騙されているに違いない……!」


ユリウスは立ち上がった。

その目は、狂気じみた執着に満ちていた。


「僕が目を覚まさせてやる。あの女の化けの皮を剥ぎ、兄上を正しい道に戻すのだ!」


嵐の夜が明ければ、次なる波乱がやってくる。

だが今のマリーには、最強の『盾』がついていることを、彼はまだ知らない。

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