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追放された悪役令嬢の『居酒屋マリー』へようこそ  作者: 九葉
第1章

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第8話 聖女の悪意と甘い罠

王都に『居酒屋マリー』の名が広まるにつれ、客層にも変化が現れ始めていた。

最初は冒険者や職人といった荒くれ男ばかりだったが、最近では噂を聞きつけた近所の奥様方や、仕事帰りの女性冒険者たちも暖簾のれんをくぐるようになっていた。


そんなある日の夕暮れ時。

平和な店内に、場違いなほど甘ったるい香水の匂いが漂ってきた。


「……うわぁ、何この匂い。油とオジサンの臭いが染み付いてるんじゃない?」


入り口に立っていたのは、フリルのついた純白のドレスに身を包んだ少女だった。

ピンク色の髪をふわふわと巻き、愛らしい顔立ちをしているが、その瞳には隠しきれない侮蔑の色が浮かんでいる。


彼女こそ、異世界から召喚された『聖女』リリィ。

そして、マリーの元婚約者であるユリウス王子が選んだ「新しい相手」だった。


彼女の後ろには、神経質そうな眼鏡の男が控えている。王都の衛生管理官だ。


「いらっしゃいませ。……何名様でしょうか?」


マリーはカウンターの中から静かに声をかけた。

リリィはハンカチで鼻を覆いながら、大げさに顔をしかめる。


「客じゃないわよ。今日は衛生局の人を連れてきたの。貴女の店、不潔だって通報があったから」


「不潔、ですか?」


「ええ。こんな裏路地の廃屋で、茶色い煮汁だの、生魚だのを扱ってるんでしょう? そんなの病気の元よ。即刻、営業停止にするべきだわ」


リリィは勝ち誇ったように笑った。

彼女の狙いは明らかだ。権力を使って店を潰し、マリーを完全に王都から追い出すこと。

店内にいた女性客たちが、不安そうに顔を見合わせる。


「……おい、俺たちの楽しみを邪魔するなよ」


奥の席にいたガリウスが低い声で唸り、立ち上がろうとする。

しかし、マリーは手で彼を制した。


「衛生管理官様。当店の厨房を確認されますか?」


「あ、ああ。通報があった以上、確認せざるを得ない」


管理官が厨房に入ってくる。

彼は粗探しをするつもり満々だった。油汚れ、ゴキブリ、カビ……何かしらあるはずだ。


しかし。


「……なっ!?」


管理官は絶句した。

厨房は、恐ろしいほどに磨き上げられていた。

ステンレス代わりの銀板は鏡のように輝き、床には塵一つ落ちていない。まな板は漂白され、包丁は整然と並んでいる。

洗浄クリーン】の魔法を極めたマリーの厨房は、王城の調理場よりも清潔だったのだ。


「ど、どういうことだ……。油を大量に使っているはずなのに、ベタつき一つない……」


「当然です。料理人にとって清潔さは命ですから」


マリーは微笑んだが、リリィは面白くない。


「ふん、綺麗にしてるだけじゃないの? 問題なのは料理よ! 揚げ物とか塩辛いものばかりで、お肌にも健康にも悪いものばかり出してるんでしょう? 女性の敵だわ!」


リリィは店内の女性客たちに向かって声を張り上げた。


「皆様もそう思うでしょう? こんな茶色い料理より、私がプロデュースしたカフェの『キラキラパンケーキ』のほうが、ずっと素敵で健康的ですわ!」


女性客たちがざわめく。

確かに、居酒屋メニューは男性的だ。

リリィはそこを突いて、女性客を味方につけようとしている。


マリーは静かにため息をついた。

(……なるほど。そういう戦い方ですか)


マリーは冷蔵庫(氷室)を開けた。

取り出したのは、白カビに覆われた丸いチーズ。『ホワイトムーン・チーズ』だ。

カマンベールによく似た、クリーミーなチーズである。


「女性の敵、ですか。……では、ご判断ください。当店が本当に女性を楽しませられない店なのかどうか」


マリーはチーズを八等分に切り分け、小麦粉、溶き卵、そして細かいパン粉をまとわせた。

それを、高温の油の中へ静かに滑り込ませる。


シュワシュワシュワ……。


優しい音が響く。

揚げ時間は短い。表面が色づけば十分だ。

マリーは手早く油を切り、皿に盛り付ける。

そして、その横に添えたのは、鮮やかなルビー色の『宝石ベリー』のソースだった。


「お待たせいたしました。『カマンベールチーズフライ』です。熱いうちに、こちらのベリーソースをつけて召し上がりください」


「はぁ? チーズを揚げるなんて、カロリーの塊じゃない! しかもジャムをつけるなんて正気?」


リリィは馬鹿にしたように笑う。

だが、その香りは強烈だった。

揚げたての香ばしい衣の匂いと、熱で溶け出したチーズの濃厚なミルクの香り。


マリーはさらに、ガラスのピッチャーを取り出した。

中には、赤ワインにたっぷりの果実――オレンジ、リンゴ、ベリー類――が一晩漬け込まれている。


「お飲み物は、自家製の『サングリア』をどうぞ。果実のビタミンがたっぷりと溶け出していますよ」


グラスに注ぐと、赤い液体の中で果実が宝石のようにきらめいた。

その美しさに、女性客たちから「わぁ……」と感嘆の声が漏れる。


「さあ、管理官様も、聖女様も。まずは一口」


リリィは拒否しようとしたが、周りの視線がある手前、毒味程度ならとフォークを手に取った。

狐色に揚がったチーズフライ。

赤いソースをたっぷりとつけて、口に運ぶ。


サクッ……。


軽快な衣の音が響いた。

その直後。


「んんっ!?」


リリィの目が大きく見開かれた。

サクサクの衣を破ると、中から熱々のチーズがトロリと溶け出してきたのだ。

濃厚な塩気とミルクのコク。

それが、甘酸っぱいベリーソースと口の中で混ざり合う。


「甘い……しょっぱい……甘い……!」


チーズの塩気をジャムの甘みが引き立て、ジャムの甘みをチーズが包み込む。

禁断の『甘じょっぱい』ハーモニー。

それは、女性の脳髄を直接刺激する、悪魔的な美味しさだった。


(な、なによこれ! 止まらないじゃない!)


揚げ物なのに、チーズの滑らかさとフルーツソースの酸味で、驚くほど軽い。

口の中が濃厚になったところで、サングリアを一口。


「……はぁっ」


甘くフルーティーなワインが、口の中を爽やかに洗い流す。

漬け込まれた果実を齧ると、ジュワッと果汁が溢れ出す。


「お洒落……! なんてお洒落な味なの!」


近くにいた女性冒険者が叫んだ。


「揚げ物なのに可愛い! チーズが伸びるのが楽しい!」

「このお酒、すごく飲みやすいわ! いくらでもいけちゃう!」


店内の女性たちが次々と注文を入れる。

「私もチーズフライ!」「こっちはサングリアおかわり!」


先ほどまでの「不潔」という空気は消え失せ、店内は女子会のような華やぎに包まれた。


管理官もまた、チーズフライの虜になっていた。

「こ、これは……酒が進む。いや、実に衛生的で素晴らしい料理だ」

彼は皿まで舐める勢いで完食し、完全にマリー側に寝返っていた。


「くっ……!」


リリィは顔を真っ赤にして立ち上がった。

自分の「見た目だけのスイーツ」が、マリーの「味と計算尽くされた料理」に負けたことを、本能で悟ったのだ。


「お、覚えてなさい! こんな店、すぐに飽きられるわよ!」


捨て台詞を残し、リリィは逃げるように店を出て行った。


「……ふぅ。嵐が去りましたね」


マリーは安堵の息をついた。


「おいマリー、俺にもそのチーズのやつくれ。甘いのは苦手だが、匂いがたまらん」


ガリウスが不満げに催促する。

マリーは微笑んで、彼には黒胡椒をたっぷり振った特別バージョンを出した。


「どうぞ。お酒のつまみには、こっちのほうが合いますよ」


「……うむ。外はサクサク、中はトロトロか。たまらん」


ガリウスはチーズを糸のように伸ばしながら、満足げにワインを煽った。


女性客たちの笑い声と、甘いチーズの香り。

聖女の悪意すらも、マリーの店では最高のスパイスにしかならなかったようだ。

『居酒屋マリー』は今夜も、全ての人を笑顔にする。

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