第7話 王都からの刺客
王都の夕暮れは早い。
石造りの街並みが茜色に染まり、家路を急ぐ人々のお腹が鳴り始める頃合い。
『居酒屋マリー』の厨房では、パチパチという小さな爆ぜる音が、静かなリズムを刻んでいた。
マリーが扱っているのは、ドワーフのガンテツから譲り受けた『赤熱木の炭』だ。
煙が少なく、それでいて強い火力を長時間維持できる最高級の炭である。
「火加減、よし。タレの具合も、よし」
マリーは壺の中で黒光りしている液体を、木べらで静かにかき混ぜた。
継ぎ足しで作っている『秘伝のタレ』だ。
魔女の濁り水と罵られた醤油をベースに、酒、砂糖(サトウキビの蜜)、そして焼いた鳥の骨から出た旨味が凝縮されている。
今夜のメインは、炭火焼き鳥。
最強の匂いテロの準備は整っていた。
ガララッ!!
その時、いつもの軽快な引き戸の音とは違う、乱暴な音が響いた。
「ここか! 元公爵令嬢マリアンヌが、市井で煮炊き事の真似事をしているというのは!」
店に入ってきたのは、全身を銀色の鎧で固めた騎士たちだった。
その数、五名。胸には公爵家の紋章である『双頭の鷲』が刻まれている。
先頭に立つ隊長格の男は、眉間に深い皺を寄せ、店内の様子を侮蔑の眼差しで見回した。
「……いらっしゃいませ。お客様、武装したままでのご来店は、他のお客様の迷惑になりますが」
マリーは焼き台の前から動かず、団扇を片手に微笑んだ。
「客ではない! 我々は公爵閣下の命により、貴様を連れ戻しに来たのだ!」
隊長が怒鳴る。
クロイツ公爵家騎士団。規律に厳しく、王都でも精鋭と謳われる騎士たちだ。
彼らはマリーが「薄汚い店で家名を汚している」という噂を聞きつけ、強制的に閉店させ、修道院へ送り込むつもりでやってきたのだ。
カウンターの隅で、ガリウスが静かにグラスを置いた。
その瞳に剣呑な光が宿る。
マリーが目配せで彼を制した。
(大丈夫です、ガリウスさん。……暴力なんて必要ありませんから)
マリーは炭火の上に、串打ちしておいた肉を並べ始めた。
使用するのは、『ロックバード』のモモ肉と皮、そしてネギに似た『ポロ』だ。
「無視をするな! 貴様のその薄汚い格好はなんだ! 直ちにその店を畳み……」
ジュッ……ジュワァアアア……ッ!!
隊長の言葉は、突如として発生した『音』にかき消された。
肉から落ちた脂が、赤熱した炭に当たり、瞬時に気化する音だ。
そして、白煙が立ち上る。
換気扇はある。だが、マリーはあえて団扇を仰ぎ、その煙の一部を客席側へと送り込んだ。
「むっ、なんだこの煙は!」
騎士たちが顔をしかめる。
だが、次の瞬間、彼らの表情が凍りついた。
(な、なんだ……この匂いは……!?)
それは、暴力的なまでの芳香だった。
醤油と砂糖が焦げる、甘く香ばしい匂い。
炭火特有の燻された香り。
そして、脂が焼ける動物的な旨味の匂い。
それらが渾然一体となって、騎士たちの鼻腔を強襲したのだ。
夕食前の空きっ腹に、この匂いは拷問に近い。
「くっ、毒ガスか!?」
「隊長、意識が……意識が肉に持っていかれます!」
「たわけ! 耐えろ! これは……ただの料理の匂いだ!」
隊長は必死に理性を保とうとした。
だが、体は正直だ。
グゥゥゥゥゥ……。
鎧の下から、情けない腹の虫の音が盛大に響き渡った。
マリーは涼しい顔で、串をひっくり返す。
タレ壺に、ジュッと肉をくぐらせる。
再び炭火の上へ。
ジュワワワワッ!!
二度焼き。
タレが炭に落ち、先ほどよりもさらに濃厚で、焦げた香りが爆発的に広がる。
飴色に輝く肉の表面で、脂がプツプツと沸騰しているのが見える。
「あの……お話は伺いますが、焼き上がってしまいました。冷めると味が落ちますので、一本いかがですか?」
マリーは皿に乗せた二本の焼き鳥――『ねぎま』と『皮』を、カウンター越しに差し出した。
「ふ、ふざけるな! 誰がそのような庶民の餌を……!」
隊長は拒絶しようとした。
だが、目の前の串から立ち上る湯気と照りが、彼の視線をロックして離さない。
黄金色に輝く皮。焦げ目のついたネギ。タレを纏って妖艶に光るモモ肉。
ゴクリ。
隊長の喉が鳴った。
「……毒味だ。そう、万が一、市民に毒を盛っていてはならんからな」
苦しい言い訳と共に、隊長は震える手で串を手に取った。
まずは『ねぎま』だ。
ガブリ、と一口で肉とネギを頬張る。
「むぐっ……!?」
カッ! と隊長の目が見開かれた。
炭火の香ばしさが鼻を抜けた直後、プリッとしたモモ肉の弾力が歯を押し返す。
噛み切った瞬間、閉じ込められていた肉汁が、甘辛いタレと混ざり合って口内になだれ込んできた。
(なんだこの弾力は! 硬いのではない、押し返してくるような生命力!)
そして、間のネギだ。
焼かれたネギはトロトロに甘く、肉の脂っこさを完璧に中和し、次の肉への食欲を倍増させる。
「う……美味い……ッ!」
隊長としての威厳が崩れ去る音がした。
手が止まらない。次は『皮』だ。
カリッ、ジュワッ、クニュッ。
「こ、これはぁぁっ!!」
表面はカリカリに焼かれているのに、噛めばコラーゲンの塊のような脂が溶け出す。
濃厚すぎる。酒だ。これは酒が必要だ!
「女将! いや、マリアンヌ嬢! これは……エールか!?」
「はい、よく冷えたビールが合いますよ」
「一杯だけだ! 毒味の一環としてな!」
ドンッ、と置かれたジョッキ。
隊長は焼き鳥を頬張り、キンキンのビールを流し込んだ。
タレの濃厚な味が、冷たい炭酸で洗い流される快感。
「ぷはぁっ!! 最高か!!」
もはや、そこには騎士団長の威厳など微塵もなかった。
それを見た部下たちが、我先にとカウンターに殺到する。
「俺も毒味します!」
「私もです! その『皮』というのを!」
「俺は全部だ! 盛り合わせでくれ!」
あっという間に、騎士団による宴会が始まった。
鎧がぶつかる音と、「美味い!」という歓声が響き渡る。
「追加で、こちらもお召し上がりください。『だし巻き卵』です」
マリーが出したのは、鮮やかな黄色の長方形。
皿を揺らすと、ふるふると震えるほど柔らかい。
「卵……? オムレツとは違うのか?」
一人の騎士が箸を入れる。
じゅわり。
切り口から、黄金色の出汁が溢れ出した。
「うおっ、スープが出てきた!」
口に入れると、それは淡雪のように解けた。
かつお出汁の優しい香りと、卵の甘み。
焼き鳥の濃厚なタレで疲れた舌を、優しく包み込むような味わい。
添えられた大根おろしと一緒に食べれば、いくらでも腹に入ってしまう。
「……負けた。我々の完敗だ」
隊長は空になったジョッキを見つめ、深いため息をついた。
「城の食事は、豪華だが冷めている。見栄えばかりで味がしない。……こんなに熱くて、こんなに生きた心地がする食事は、いつぶりだろうか」
彼は兜を脱ぎ、マリーに向かって真剣な表情を向けた。
「マリアンヌ嬢。……いや、店主殿。貴女はここで、立派な戦いをしているのだな」
「ええ。ここが私の戦場ですから」
マリーが凛と答えると、隊長は満足げに頷いた。
「報告書にはこう書いておこう。『対象は、極めて高度な錬金術(料理)の研究に従事しており、王都の食文化発展に寄与しているため、現状維持が望ましい』とな」
「……ふふ、ありがとうございます」
「その代わり、だ」
隊長はニヤリと笑った。
「来週の非番の日、また部下を連れてくる。予約はできるか?」
「はい、喜んで。とびきりの焼き鳥を焼いてお待ちしております」
騎士たちは満足げに腹をさすりながら、千鳥足で帰っていった。
店には、平和な静けさと、香ばしい香りだけが残った。
「……やるな、マリー」
一部始終を見ていたガリウスが、呆れたように、しかし誇らしげに笑った。
「剣を抜かずに騎士団を制圧するとは。お前の料理は、どんな武器よりも強力だ」
「あら、私はただ、お腹を空かせたお客様をもてなしただけですよ?」
マリーは悪戯っぽく微笑み、新たな炭をコンロにくべた。
パチッ、と赤い火の粉が舞う。




