第5話 噂の看板娘と『とりあえず生』
「よし……完成だ。こいつは俺の最高傑作だぞ」
開店前の『居酒屋マリー』に、ドワーフのガンテツの低い声が響いた。
彼がカウンターに設置したのは、真鍮とミスリル銀で組み上げられた、重厚かつ美しい機械だった。
樽から直接管が繋がり、中央には冷却用の青い魔石が埋め込まれている。そして、注ぎ口には精密な魔導弁が取り付けられていた。
これこそが、異世界初の『魔法式ビールサーバー』だ。
「すごい……! 魔石がほんのり光って、管が冷たくなっています!」
マリーは目を輝かせて、その銀色の蛇口に触れた。
指先が痛くなるほどの冷気が伝わってくる。
「中を通るエールを、魔石の力で瞬間冷却する。さらに、この特製の注ぎ口が、液体に細かな振動を与えて『泡』を作るんだ。……おい嬢ちゃん、試運転だ。一番搾りを入れてみろ」
「はい!」
マリーは震える手で、冷やしておいたガラスのジョッキを構えた。
コックを手前に倒す。
シュワーーーッ……!
勢いよく、しかし滑らかに黄金色の液体が螺旋を描いて注がれる。
ジョッキの七分目まで来たところで、今度はコックを奥へ押し込む。
カチッ。
その瞬間、注ぎ口から出てきたのは液体ではない。
まるで雲のように真っ白で、シルクのようにきめ細かい『クリーミーな泡』だ。
黄金色の液面の上に、ふわりと白雪が積もっていく。
黄金と白、完璧な7対3の比率。
「……美しい」
マリーは思わず呟いた。
前世の記憶にある、あの光景だ。
仕事終わりのサラリーマンたちが、砂漠で水を求めるように欲した『生ビール』そのものだ。
「飲んでみろ。作った本人が味を知らなきゃ、客には出せねぇぞ」
ガンテツに促され、マリーはジョッキを持ち上げた。
ずしりと重い。表面にはすでに結露が走り、冷気の白煙が漂っている。
ゴクリ。
口をつけると、まずは冷たく滑らかな泡が上唇に触れた。
苦味を包み込むような優しさ。
その直後、泡の下から極低温のエールが飛び込んでくる。
「んんっ……!」
喉仏が上下する。
冷たさが食道を駆け抜け、胃袋に落ちた瞬間、爽快な爆発が起きる。
サーバーによって炭酸が最適化されており、喉越しが段違いに鋭い。
「ぷはぁっ……!! 美味しいっ!!」
マリーの口元に、白い泡の髭ができた。
それを見たガンテツが、ニカッと歯を見せて笑う。
「合格だな。……さあ、戦の準備をしな。今日の客は手強いぞ」
◇
午後六時。
開店と同時に、店は戦場と化した。
「おい! ここがSランクの連中が入り浸ってる店か!?」
「噂のエールをくれ! あと、なんか美味いもん!」
噂は冒険者ギルドを通じて広まっていた。
『あそこに行けば、実家より落ち着く飯と、キンキンに冷えた酒がある』
そんな魔法の言葉に釣られ、荒くれ者たちが押し寄せてきたのだ。
「いらっしゃいませ! 相席でお願いしますね!」
マリーは戦場を舞う蝶のようにホールを駆け回る。
だが、その表情は明るい。
注文の声が重なる。
「とりあえず生で!」
「俺も生だ! 大ジョッキで!」
「こっちも生! あと、そのいい匂いのする焼き物をくれ!」
店内に響き渡る「トリアエズナマ」の大合唱。
異世界にはなかったその言葉が、今夜、この店で共通言語となった。
マリーはサーバーの前に立ち、次々とジョッキを満たしていく。
シュワーッ、カチッ。シュワーッ、カチッ。
ガンテツの作ったサーバーは、数百杯注いでも温度がブレない。常に氷点下直前の最高のエールを吐き出し続ける。
「待たせたな。……乾杯!」
ガリウスが音頭を取り、店内中のジョッキが高々と掲げられた。
カチンッ! という硝子のぶつかる音が、祝砲のように響く。
「くぅううううう! なんだこの泡は! クリームみてぇだ!」
「冷てぇえええ! 昼間の疲れが消し飛ぶぞ!」
感嘆の声が上がる中、マリーは厨房でフライパンを握っていた。
この最強のビールに対抗できる料理は、一つしかない。
ジュワァアアアアア……ッ!!
水を差し、蓋をした鉄鍋の中で、激しい蒸気音が鳴り響く。
香ばしいごま油の香りと、蒸された小麦の甘い匂い。
そして、ニンニクとニラ(に似た香草『スタミナ草』)の暴力的な香りが、換気扇を越えて客席を襲撃する。
「な、なんだこの匂いは……! 腹が減って仕方ねぇ!」
客たちの視線が厨房に釘付けになる。
マリーは蓋を開けた。水分が飛び、鍋肌で油がパチパチと跳ねる音が聞こえる。
ここからが勝負だ。仕上げの油を回しかけ、底面をカリッカリに焼き上げる。
皿をかぶせ、鍋をひっくり返す。
クルッ、ダンッ!
現れたのは、皿いっぱいに広がる黄金色の円盤。
いや、それは薄い氷のような『羽』を纏った、三日月形の包み物たちだ。
「お待たせいたしました! 『羽付き餃子』です!」
マリーが客席に運ぶと、どよめきが起きた。
「なんだこりゃ? 全部繋がってるぞ?」
「この薄いパリパリはなんだ?」
ガリウスが慣れた手つきで、箸を突き入れた。
パリッ……!
繊細な音がして、黄金色の羽が割れる。一つを摘み上げると、薄皮を通して中の肉汁が透けて見えた。
タレは、酢と醤油、そして『ラー油』代わりの辛味オイルを混ぜたもの。
ちょん、とタレにつけて、口に放り込む。
カリッ、モチッ。
ジュワワワッ!!
「……ッ!!」
噛んだ瞬間、異なる食感が次々と襲いかかる。
羽の軽快なパリパリ感。
皮のモチモチとした弾力。
そして中から噴き出す、熱々の肉汁スープ。
具材は、脂の乗ったダンジョン豚のひき肉に、細かく刻んだ『球形キャベツ』と『スタミナ草』。
野菜の甘みが肉の脂を吸い込み、噛むほどに旨味が溢れ出す。ニンニクと生姜のパンチが、脳を直接揺さぶる。
「熱っ! でも……うめぇええええ!!」
「このパリパリの羽がたまらねぇ! 香ばしくて、これだけで酒が飲める!」
口の中が肉汁の脂とニンニクの香りで満たされた時、人間が欲するものは一つ。
「生ビールおかわり!!」
「はい、喜んで!」
冷たいビールが、熱々の餃子の脂を洗い流す。
口の中がリセットされると、またすぐに餃子が食べたくなる。
餃子、ビール、餃子、ビール。
この『黄金のループ』から抜け出せる者は、この店にはいない。
「マリーさん! こっちも餃子三人前追加だ!」
「俺は五人前だ!」
厨房は戦場だった。
マリーは次々と餃子を包み、焼き続ける。
前世で何千個と包んできた体が、勝手に動く。
額に汗が滲むが、不思議と疲れはない。
ふと、カウンターの隅で飲んでいたガリウスと目が合った。
彼は空になったジョッキと、綺麗に平らげた餃子の皿を前に、満足そうに目を細めていた。
「……いい店になったな」
その言葉は、喧騒にかき消されそうなほど小さかったが、マリーの耳にははっきりと届いた。
マリーは手を止めて、店内を見渡した。
Sランク冒険者も、ドワーフの職人も、エルフも、近所の商人たちも。
身分も種族も関係なく、みんなが赤ら顔で笑い合い、同じ料理を食べている。
かつて公爵家で見た、腹の探り合いばかりの冷たい晩餐会とは違う。
ここには、嘘のない「美味しい」という言葉と、温かい笑顔だけがある。
(ああ、私は……)
マリーの胸に、熱いものが込み上げてきた。
理不尽に追放され、全てを失ったと思っていた。
けれど、違った。
私は、ここに来るために追放されたのだ。
この景色を見るために、料理人になったのだ。
「……はい! 最高の店にしますよ!」
マリーは涙をこらえ、とびきりの笑顔で答えた。
そして再び、大きな声で叫ぶ。
「生ビール一丁、入りましたー!」
「「「うぇーい!!」」」
客たちの歓声が、夜の街に響き渡る。
こうして、王都の裏路地に誕生した『居酒屋マリー』は、またたく間に伝説の名店への階段を駆け上がり始めた。




