第4話 エルフは野菜しか食べない?
「嫌よ。絶対に嫌」
店の前で、拒絶の声が響いた。
鈴のような美声だが、そこには明確な嫌悪感が含まれている。
「おい、フィオナ。ここまで来て帰る気か?」
「当たり前でしょう、ガリウス。人間の食事なんて、死んだ動物の肉を焼いて、ギトギトの脂を塗った野蛮なものばかりじゃない。私たち森の民の口には合わないわ」
暖簾をくぐって入ってきたのは、ガリウスと、緑色の狩衣を纏った美しいエルフの女性だった。
長い金髪、尖った耳、そして陶磁器のように白い肌。
彼女はSランクパーティ『赤き竜の牙』の天才魔法使い、フィオナだ。
彼女は店内に漂う香ばしい匂い――先ほどの客が食べていた揚げ物の残り香――を嗅ぐと、眉をひそめてハンカチで鼻を覆った。
「油の匂い……。私、帰るわ」
「まあまあ、そう言わずに。騙されたと思って座ってみろって」
ガリウスに強引に肩を押され、フィオナは不承不承といった様子でカウンターの端に座った。
その目は「絶対に何も食べない」という強い意志でガードされている。
「いらっしゃいませ」
マリーは、そんな彼女の心中を察しながらも、いつも通りの笑顔で冷たいおしぼりを出した。
フィオナはマリーをじろりと見た。
「貴女が店主? 言っておくけれど、私はお肉もお魚も食べないわ。脂っこいものも大嫌い。……どうせ、パンとサラダくらいしか出せないんでしょう?」
エルフは完全菜食主義の者が多い。
素材そのものの味を愛し、人間の「調理」という行為を「素材への冒涜」と捉えることさえある。
だが、マリーの料理人としての魂に火がついた。
野菜だけ? 上等だ。
野菜こそ、出汁の力を最大限に引き出す最高のパートナーなのだから。
「かしこまりました。それでは、お肉を使わず、油っぽさを感じさせない『野菜だけのフルコース』をご用意いたしましょう」
「……ふん、お手並み拝見ね」
フィオナは腕を組み、そっぽを向いた。
マリーはまず、巨大な白い根菜『大根』を取り出した。
皮を剥き、繊維に沿って極細の千切りにする。それを氷水に放ち、シャキシャキの食感を引き出す。
合わせるのは『ツナ』だ。
ただし、動物の肉ではない。この世界には『畑の肉』と呼ばれる、不思議な豆が存在する。それを蒸して油漬けにし、ほぐしたものは、まるで魚の身のような食感とコクを持つ。
「まずはこちら。『大根とツナのサラダ』です。ドレッシングは、森の恵みである果実酢と醤油を合わせました」
山盛りの白い千切りの上に、ほぐしたツナと、刻んだ紫蘇に似た香草が散らされている。
フィオナは疑わしそうにフォークを伸ばした。
シャクッ。
一口食べた瞬間、彼女の瞳がわずかに揺れた。
「……あら?」
みずみずしい大根の清涼感。
そこに、ツナの濃厚なコクと油分が絡むが、決してしつこくない。果実酢の酸味が全体を引き締め、香草の香りが鼻を抜ける。
ただの生野菜ではない。「料理」として完成された一体感がある。
「美味しい……。野菜の青臭さが消えて、甘みが引き立っているわ」
「でしょう? でも、ここからが本番です」
マリーは厨房の奥から、四角く切った白い塊を取り出した。
『大豆』の絞り汁を、天然のにがりで固めた『豆腐』だ。
異世界では「味のない白塊」として人気がない食材だが、マリーの手にかかれば主役に変わる。
豆腐の水気をしっかりと切り、全面に薄く『白芋の粉』をまぶす。
そして、熱した油の中へ。
「ちょ、ちょっと! 油に入れるの!? だから脂っこいのは嫌いだと……」
フィオナが抗議しようとしたが、マリーは止まらなかった。
高温の油で表面だけをサッと揚げる。
衣が固まったらすぐに引き上げる。
油切れを良くするため、網の上で数回振る。
そして、器に盛り付け、上から熱々の『琥珀色のつゆ』をたっぷりと回しかけた。
ジュッ……と、つゆが衣に染み込む音が、静かな店内に響く。
最後に、ダンジョンで採れた『大根』のすりおろしと、鮮やかな緑の小ネギを乗せる。
「お待たせいたしました。『揚げ出し豆腐』です」
湯気と共に立ち上るのは、かつお節と昆布――この世界で言う『海の枯れ木』と『深海草』から引いた、極上の出汁の香りだ。
「……良い匂い」
フィオナは抗議の言葉を飲み込んだ。
鼻をくすぐる香りは、森の奥深くで嗅ぐ腐葉土のような豊かさと、海の雄大さが混ざり合ったような、根源的な「旨味」の香り。
スプーンですくい上げる。
とろりとした餡のようなつゆを纏った豆腐は、ぷるぷると震えている。
口に入れる。
ハフッ、ハフッ。
「んんっ……!!」
フィオナの目が見開かれた。
カリッとした衣の食感を抜けると、中は絹のように滑らかな豆腐が待っていた。
淡白なはずの豆腐が、濃厚な出汁をたっぷりと吸い込んでいる。
噛むたびに、ジュワッ、ジュワッ。
口の中に、旨味の洪水が溢れ出す。
「な、なによこれ……! お肉なんて入っていないのに、どうしてこんなに『深い』味がするの!?」
「それが『出汁』の魔法です。乾燥させた海の幸と山の幸を煮出すことで、素材の魂を抽出しているんです」
「素材の……魂……」
魔法使いであるフィオナにとって、その言葉はすとんと腑に落ちた。
これは錬金術だ。
ただの水が、黄金のスープに変わる奇跡。
「油で揚げているのに、全然重くないわ。大根おろしが油を中和して、いくらでも食べられる……」
フィオナの手が止まらない。
スプーンで器の底に残ったつゆまで、綺麗にすくい取る。
「まだ入りますか? 最後は、エルフの方にこそ食べていただきたい『天ぷら』です」
マリーが出したのは、色とりどりの野菜たち。
森で採れたキノコ、紫色のサツマイモ、そして鮮やかな緑のシシトウ。
冷水で溶いた小麦粉の衣を薄く纏わせ、カラリと揚げる。
「お塩をつけて、どうぞ」
フィオナはもう、躊躇わなかった。
サツマイモの天ぷらを手に取り、少量の岩塩をつけてかじる。
サクッ。
耳に心地よい音が響く。
蒸し焼き状態になった芋の中身は、ねっとりと甘く、まるで蜜のようだ。
「……信じられない。生で食べるより、野菜の味が濃い」
「油で包むことで、野菜の水分と旨味を閉じ込めるんです。高温で一気に火を通すことで、野菜は一番美味しい状態になります」
「私の知っていた野菜料理なんて、ただの餌だったのね……」
フィオナは感服したように溜息をついた。
その横で、ガリウスが「俺の分も残しとけよ」と手を伸ばそうとしたが、フィオナはパシッとその手を叩いた。
「ダメよ。これは私のもの」
「痛っ! お前、さっきまで帰るって言ってただろうが」
「撤回するわ。……店主さん、この『天ぷら』、おかわりはあるかしら? それと、この透明なお酒も」
フィオナが指差したのは、米で作られた清酒だ。
出汁料理と日本酒。その相性は、種族の壁さえも越える。
「はい、喜んで」
マリーは揚げ鍋の前に立ち、次々と野菜を投入していく。
パチパチパチ……という油の音が、雨上がりの音楽のように店内に満ちた。
カウンターには、ジョッキを傾ける大男と、上品に(しかし猛スピードで)天ぷらを平らげるエルフの美女。
その奇妙で温かな光景を眺めながら、マリーは心の中でガッツポーズをした。
肉好きも、野菜好きも、ここではみんな平等に「食の捕虜」だ。
「ふふ、明日はどんなお客様が来るでしょうか」
『居酒屋マリー』の夜は、まだ更けない。




