第3話 ドワーフの涙と塩辛
雨上がりの夜空に、二つの月が冷ややかに輝いている。
湿度を含んだ風が少し肌寒い深夜。『居酒屋マリー』の引き戸が、重々しい音を立てて開いた。
「おい、ここか。噂の店ってのは」
入ってきたのは、身の丈ほどもある巨大な戦槌を背負った、岩のように厳つい男だった。
身長はマリーの胸ほどしかないが、横幅は二倍はある。地面まで伸びた立派な髭、煤と鉄の匂い。
種族はドワーフ。この王都で一、二を争う武具職人、ガンテツだ。
彼はカウンターにドカッと腰を下ろすと、値踏みするようにマリーを睨みつけた。
「Sランクの連中が『実家だ』なんて騒ぐから来てみりゃあ……なんだ、厨房に立ってるのは貴族の嬢ちゃんじゃねぇか」
ガンテツは鼻を鳴らした。
彼は職人だ。その目は、人の手を見れば、その人間がどれだけ仕事をしてきたかを見抜く。
マリーの手は白く、まだ貴族時代の華奢さが残っている。
「遊びで料理をされるんじゃ、たまんねぇな。俺の舌は狂いのない定規みてぇに正確なんだ。不味いモンを食えば、翌日の鍛冶仕事に響く」
ピリッとした緊張感が店内に走る。
常連になりつつあるガリウスが口を挟もうとしたが、マリーはそれを笑顔で制した。
彼女は、こうした「頑固な職人客」の扱いには慣れている。前世の店でも、こういう客ほど一度心を掴めば長い付き合いになるのだ。
「いらっしゃいませ。鍛冶仕事の後でしたら、鉄の熱で体が乾いていらっしゃるでしょう。……とりあえず、体を中から温めるお酒はいかがですか?」
「ふん。エールなんぞ飲み飽きたわ」
「いいえ。エールではありません」
マリーは棚から、陶器の徳利とお猪口を取り出した。
中に入っているのは、東方の島国から輸入された『米の醸造酒』。異世界では酸味が強く敬遠されがちな安酒だが、マリーの手にかかれば化ける。
彼女は鍋に湯を沸かし、徳利をその中へ沈める。
魔法で直接加熱するのではない。お湯の熱で、優しく、じっくりと温度を上げていく『湯煎』だ。
(温度は50度……『熱燗』の領域ですね)
香りが開く瞬間を見極め、マリーは徳利を引き上げた。
湯気を立てるそれを、ガンテツの前に置く。
「熱いお酒、だと?」
「騙されたと思って。キュッとやってみてください」
ガンテツは怪訝な顔で小さなお猪口を手に取った。
指先に伝わる陶器の温かさが、冷えた指に心地よい。
口元に近づけると、ふわりと甘く、芳醇な米の香りが立ち上った。
一口、すする。
「……っ」
ガンテツの眉が動いた。
熱い液体が喉を通り、胃の腑に落ちた瞬間、カッと体が内側から熱くなる。
安酒特有の雑味が消え、温められたことで米の旨味だけが際立っていた。
「悪くねぇ……。だが、酒だけじゃ評価はできんぞ」
「もちろんです。そのお酒に最高に合う『あて』をご用意しました」
マリーが出したのは、小皿に盛られた、毒々しいほどにピンク色がかったドロリとした物体だった。
「なんだこれは。腐ってるのか?」
「いいえ、『発酵』です。北の海で獲れる魔物『クラーケン・イカ』の身を、その肝と塩で漬け込み、熟成させたものです」
『イカの塩辛』。
それは、呑兵衛のための最終兵器。
見た目のグロテスクさから、この世界では肝は捨てられるのが常識だった。
ガンテツは警戒しながらも、箸の先でほんの少しだけ舐めた。
その瞬間。
「!!!」
強烈な塩気。
その後に押し寄せる、肝の濃厚でねっとりとした旨味。
磯の香りが爆発したかと思えば、熟成されたタンパク質のコクが舌に絡みつく。
「辛っ! うおっ、なんだこの濃さは!」
舌が痺れるほどの濃厚な味。
たまらず、手元のお猪口を煽る。
すると、どうだ。
熱い酒が口の中の塩気と脂を洗い流し、米の甘みが塩辛の旨味と混ざり合って、至福の余韻へと変わっていく。
「……あぁ」
ガンテツの口から、深いため息が漏れた。
塩辛を舐める。酒を飲む。
塩辛を舐める。酒を飲む。
止まらない。
これは、ただの食事ではない。酒を美味く飲むための、完璧な儀式だ。
「嬢ちゃん……あんた、これを一人で作ったのか?」
「ええ。毎日かき混ぜて、空気に触れさせて。一ヶ月かけて育てました」
「……手間を惜しまねぇんだな」
ガンテツの目が変わった。
だが、マリーの攻撃はまだ終わらない。
「もう一品。職人様にこそ食べていただきたいお魚があります」
マリーは厨房のまな板の上に、銀色に輝く魚の半身を置いた。
『シルバーサーディン(サバに似た青魚)』だ。
彼女はそれを、あらかじめ塩と酢で締めておいた。
「【保存魔法】で鮮度を保ったまま熟成させました。……ここからが、仕上げです」
マリーは指先をパチンと鳴らす。
指先に灯った小さな炎を、魚の皮目に近づけた。
魔法によるバーナーの再現。
ジュワッ、バチバチバチッ……!
皮が焼ける音と共に、脂の焦げる香ばしい匂いが立ち上る。
皮の下にある上質な脂が熱で溶け出し、表面でパチパチと踊る。
包丁を一閃。
美しい桜色の断面を見せて、皿に盛り付ける。
「『炙りシメサバ』です。生姜醤油でどうぞ」
ガンテツは震える手でそれを口に運んだ。
炙られた皮の香ばしさ。
酢で締まった身のサッパリ感。
そして噛みしめるほどに滲み出る、濃厚な脂の甘み。
「う……」
ガンテツが天井を仰いだ。
目尻に、光るものが浮かんでいる。
「親父さん?」
「……美味い。悔しいが、文句のつけようがねぇ」
ガンテツは涙を拭うのも忘れ、しみじみと語り出した。
「俺はドワーフだ。鉄を打ち、形を作る。だから分かる。……この魚の締め加減、塩の塩梅、そして炙りの火加減。どれ一つとして妥協がねぇ。嬢ちゃん、あんた料理人ってよりは、職人だな」
「職人……私が、ですか?」
「ああ。それと、さっきから気になってたんだが」
ガンテツはマリーの手元にある包丁を指差した。
「その包丁、ちょっと見せてみな」
マリーが差し出した包丁を、ガンテツは光源にかざしてじっくりと観察する。
刃こぼれ一つない、鏡のような刃先。
毎日の手入れによって研ぎ澄まされた、妖しいほどの輝き。
「……いい研ぎだ。道具への愛着が伝わってくる。貴族の遊びなんて言って悪かった。あんたは、本物の料理人だ」
ガンテツは深々と頭を下げた。
頑固なドワーフが人間の小娘に頭を下げるなど、前代未聞の光景だ。
だが、彼にとって「良い仕事」への敬意は、種族や年齢を超えるものだった。
「頭を上げてください、ガンテツさん。美味しく食べていただければ、それが一番です」
「いや、礼をさせてくれ。……なぁ、嬢ちゃん。この店、エールの冷え具合はいいが、注ぎ口が樽のコックじゃ泡が安定しねぇだろう?」
「ええ、そうなんです。どうしても泡が荒くなってしまって」
ガンテツはニヤリと笑い、懐から羊皮紙を取り出してサラサラと図面を描き始めた。
「俺がもっといいモンを作ってやる。魔石を組み込んで、液体と泡の比率を完璧に制御する『魔法式ビールサーバー』だ。冷やす機能も強化して、いつでもキンキンのエールが飲めるようにしてやらぁ」
「本当ですか!?」
「おうよ! その代わり……この『塩辛』、瓶ごと売ってくれ。家に帰ってもチビチビやりてぇんだ」
マリーは満面の笑みで頷いた。
「ふふ、お安い御用です。……それじゃあ、今日は『商談成立』の乾杯といきましょうか」
熱々の徳利がもう一本、テーブルに追加される。
湯気の向こうで、頑固親父と元悪役令嬢が、杯を交わす。
冷たい夜風も、ここには届かない。




