第22話 狼少年とメンチカツ
「はふっ、ずるっ、んぐっ……!」
深夜の『居酒屋マリー』に、猛獣が獲物に食らいつくような音が響いていた。
つい先ほど、裏口で拾われた獣人の少年、ロロだ。
彼はカウンター席にちょこんと座り(足が届いていない)、マリーが出した『豚骨ラーメン』を、まさに飲まんばかりの勢いで胃袋に収めていた。
「ぷはぁっ……!」
ドンッ、と空になった丼が置かれる。
一滴のスープも残っていない。
「足りないか?」
隣で腕を組んで見ていたガリウスが問うと、ロロはビクリと肩を震わせ、しかし正直にコクコクと頷いた。
「……うん。美味かった。すげぇ美味かったけど、スープだけじゃ腹の虫が鳴き止まないんだ」
成長期の獣人にとって、ラーメン一杯など前菜にもならないらしい。
彼の瞳は、厨房の奥にある冷蔵庫をギラギラと見つめている。
肉だ。
彼の本能が、もっと噛みごたえのある、血肉となる固形物を求めている。
「ふふ、育ち盛りですね。いいでしょう、とびきりジューシーなお肉料理を作りましょうか」
マリーは微笑み、冷蔵庫からボウルを取り出した。
中には、明日のランチ用に仕込んでおいた『合い挽き肉』が入っている。
ダンジョンの暴れん坊『オーク・キング(豚)』と、赤身の旨味が強い『バッファロー・ブル(牛)』の黄金比率ブレンドだ。
「え? 生のまま食うのか?」
ロロが身を乗り出す。彼は今まで、狩った獲物をそのままかじる生活しかしてこなかったようだ。
「いいえ。もっと美味しく変身させますよ」
マリーはボウルに、飴色になるまで炒めて冷やしておいた玉ねぎのみじん切り、卵、パン粉、そしてナツメグと塩胡椒を加えた。
手を氷水で冷やしてから、一気に混ぜ合わせる。
手の体温で脂が溶け出さないよう、素早く、力強く。
粘り気が出てきたら、手のひら大の大きさに分割する。
ここからが、この料理の肝だ。
パンッ! パンッ! パンッ!
静かな店内に、軽快な破裂音が響き渡った。
マリーが肉のタネを両手でキャッチボールするように投げつけ、中の空気を抜いているのだ。
「な、なんだ!? 肉を叩いてるのか?」
「こうして空気を抜かないと、焼いた時に割れて肉汁が逃げてしまうんです。……美味しくな~れ、美味しくな~れ」
パンッ、パンッ。
マリーのリズムに合わせて、ロロの尻尾がパタパタと揺れる。
空気を抜いた肉ダネに、小麦粉を薄くまぶし、溶き卵にくぐらせ、最後に粗めの生パン粉をたっぷりと押し付ける。
雪のようなパン粉を纏った、巨大な小判型の物体ができあがった。
「さあ、行きますよ」
熱した揚げ油の中へ、静かに滑り込ませる。
シュワァァァァァァ……ッ。
最初は静かな音だ。
だが、次第に油の泡が細かくなり、パチパチパチッ! と高い音に変わっていく。
換気扇からは、揚げ物特有の香ばしい匂いと、肉の脂が熱される甘い香りが溢れ出す。
「うぅ……鼻がおかしくなりそうだ……」
ロロはカウンターに突っ伏し、鼻をヒクつかせた。
ただの生肉の血の匂いとは違う。
「料理」された肉の、理性を破壊する香り。
きつね色に揚がったところで、マリーは網ですくい上げた。
余熱で中まで火を通すため、少し休ませる。
この数分が、肉汁を全体に行き渡らせる重要な時間だ。
その間に、マリーは山盛りの千切りキャベツを皿に盛り、特製の『黒ソース』を用意した。
野菜と果実を煮詰め、スパイスを効かせた濃厚なソースだ。
ザクッ、ザクッ。
包丁を入れると、その音だけで衣のサクサク感が伝わってくる。
「お待たせしました。『特製メンチカツ』です。熱いから気をつけて」
ドンッ!
皿の上には、大人の拳二つ分はあろうかという巨大な揚げ物が鎮座していた。
断面からは、透明な肉汁が滝のように溢れ出している。
「……いただきますッ!」
ロロはもう我慢できなかった。
手掴みで行こうとしたが、ガリウスに「箸を使え」と頭を小突かれ、不器用にフォークを握りしめた。
ザクッ!
フォークを突き刺し、そのままかぶりつく。
「はふっ、あちちっ! ……んんんーッ!!!」
ロロの獣耳がピーンと立った。
サクサクの衣を突破した瞬間、口の中が火傷しそうなほどの熱いジュースで満たされた。
肉だ。圧倒的な肉の暴力。
だが、ただ脂っこいだけではない。たっぷり入った玉ねぎの甘みが、肉の旨味を優しく包み込み、ナツメグの香りが鼻を抜ける。
「なんだこれ、なんだこれ! 外側はカリカリなのに、中は飲み物みたいだ!」
「ソースをかけると、また味が変わりますよ」
マリーが黒ソースを回しかける。
酸味の効いたソースが、脂っこいメンチカツに染み込み、最強の「ご飯のお供」へと進化する。
「うわぁぁぁ! この酸っぱいタレ、すげぇ合う!」
「はい、ご飯もどうぞ」
マリーが出した炊きたての白飯。
ロロはメンチカツを口に入れ、すぐさま白飯をかき込んだ。
肉汁とソースと脂が混ざり合った口内を、白いご飯が受け止める。
これぞ、定食の極意。
「うめぇ……うめぇよぉ……」
ガツガツと食べていたロロの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
路地裏で腐った残飯を漁り、人に石を投げられながら生きてきた。
こんなに温かくて、こんなに手間ひまかけられた「ご馳走」を食べるのは、生まれて初めてだった。
「……泣きながら食うな。味が薄くなるぞ」
ガリウスが、ぶっきらぼうに布巾を投げ渡した。
「だって……あったけぇんだもん……」
ロロは鼻水をすすりながら、最後の一切れまで綺麗に平らげた。
皿についたソースもキャベツで拭って食べ、米粒一つ残さなかった。
「ごちそうさまでした……」
満足げに膨れたお腹をさすりながら、ロロは居住まいを正した。
そして、カウンターの中にいる二人に、地面に頭を擦りつけるように土下座をした。
「おいら、金は持ってねぇ! ……だから、ここで働かせてくれ!」
ロロは顔を上げ、必死な瞳で訴えた。
「おいら、鼻が利くんだ! 腐った肉と食える肉の区別なら誰にも負けねぇ! それに、足も速い! 何でもするから、置いてくれ!」
マリーはガリウスを見た。
ガリウスは腕を組んだまま、鋭い眼光でロロを見下ろした。
「……ガキの遊び場じゃねぇぞ。ここは戦場だ」
ガリウスの放つ覇気が、空気をビリビリと震わせる。
Sランク冒険者の威圧。普通の人間なら気絶するレベルだ。
だが、ロロは震えながらも、目を逸らさなかった。
「知ってる! こんなすげぇ飯を作る場所だ、生半可なわけがねぇ! ……おいら、もっとこの飯のことが知りたいんだ!」
「……ふん」
ガリウスは威圧を解き、ニヤリと口角を上げた。
「いい度胸だ。鼻が利くなら、仕入れの役には立つかもしれん」
彼は顎で厨房の隅にある洗い場をしゃくった。
「だが、まずは下っ端からだ。そこに山ほど溜まった鍋と皿がある。……一枚でも割ったら、今日のメンチカツ代として体で払ってもらうぞ」
「!! やる! やります!!」
ロロは跳ね起きた。
「マリー、いいな?」
「ええ、もちろん。……新しい家族が増えて、賑やかになりそうですね」
マリーは優しく微笑み、ロロに子供用の小さなエプロンを渡した。
「よろしくね、ロロちゃん。……まずは、この油で汚れたボウルをピカピカにすることから始めましょうか」
「はいっ! 女将さん、旦那さん!」
こうして、深夜の居酒屋に、元気な新入りが加わった。




