第21話 真夜中の誘惑、豚骨ラーメン
第2章開始です!!
ぜひ楽しんでいってください!
王都の喧騒が眠りにつく、丑三つ時。
『居酒屋マリー』の暖簾が店内に仕舞われ、重厚な木の引き戸には『準備中』の木札がかけられていた。
今日の営業も、怒涛のような忙しさだった。
王室御用達の看板を掲げて以来、客足は途絶えることを知らない。
山のように積まれた皿を洗い終え、床をモップで磨き上げた頃には、日付はとうに変わっていた。
「……ふぅ。終わったな」
ガリウスが、白いシャツの袖で額の汗をぬぐった。
かつては大剣を振るっていた太い腕も、今ではジョッキと皿を運ぶ筋肉として躍動している。
「お疲れ様です、あなた。……今日は特に忙しかったですね」
マリーが冷たい麦茶を差し出すと、ガリウスはそれを一息に飲み干した。
ぷはぁ、と息をつく夫の姿を見て、マリーは愛おしそうに目を細める。
結婚して、季節が一つ巡った。
二人の生活は、忙しくも充実していた。
ただ、一つだけ問題があるとすれば。
「……マリー」
「はい?」
「腹が、減った」
ガリウスが真剣な顔で腹をさすった。
営業中は客への給仕に追われ、自分たちはつまみ食い程度しかしていない。
深夜二時。
人間が最も理性を失い、カロリーを欲する魔の時間帯だ。
「ふふ、そう来ると思っていました」
マリーは悪戯っぽく微笑むと、厨房の奥にある寸胴鍋を指差した。
その鍋からは、営業中には出していなかった、独特で濃厚な香りが漏れ出している。
「実は……明日の新メニューのために、三日前から煮込んでいたスープがあるんです。味見、してみますか?」
「三日前!? なんだその魔女の秘薬みたいな煮込み時間は」
「秘薬よりも中毒性がありますよ。……『豚骨』ですから」
マリーは鍋の蓋に手をかけた。
パカッ。
モワァァァァ……ッ!!
立ち上る蒸気は、ただの湯気ではない。
獣の脂と骨の髄が溶け合った、白濁した濃厚な香りの塊だ。
強烈な豚の匂い。しかし、丁寧に下処理されているため臭みはなく、脳髄を直接揺さぶるような甘い香りが鼻腔を占拠する。
「白い……? いや、黄金色か?」
ガリウスが鍋を覗き込む。
中でグツグツと泡立っているのは、白濁したトロトロのスープだ。
材料は、ダンジョンに生息する『オーク・ジェネラル』のゲンコツ(大腿骨)。
ハンマーで粉砕した骨を、強火で砕けるまで煮込み続け、骨髄の旨味とコラーゲンを乳化させた、コッテリ界の王様だ。
「麺も、このスープに負けないように特製のものを用意しました」
マリーが取り出したのは、黄色味がかった縮れ麺。
『カンスイ』代わりの魔法薬草を練り込み、強いコシと独特の風味を持たせている。
マリーは別の大鍋で湯を沸騰させ、麺を投入した。
菜箸で泳がせること、数分。
「ここからが勝負ですよ」
マリーは丼に、醤油ベースの『かえしダレ』と、すりおろした『グレート・ガーリック』を入れた。
そこへ、白濁した豚骨スープを注ぐ。
ジャーッ!!
スープとタレが混ざり合い、茶褐色の魅惑的な色へと変化する。
そして、茹で上がった麺を湯切りする。
チャッ、チャッ、チャッ!
リズミカルな音が静かな店内に響く。
しっかり湯を切った麺をスープの中へ。
箸で整え、具材を乗せていく。
トロトロに煮込んだ『豚バラ肉のチャーシュー』。
黄身がゼリー状の『半熟煮玉子』。
コリコリとした食感の『キクラゲ』。
そして、山盛りの『刻みネギ』。
「仕上げです。……これがないと始まりません」
マリーは小鍋で温めておいた『白い塊』を、網の上に乗せた。
『スノー・ボア』の背脂だ。
それを、お玉の背でグリグリと押し潰す。
チャッチャッチャッ……!
丼の上に、真っ白な雪が降り注ぐ。
それは脂の雪。
スープの熱で半透明に溶け出し、キラキラと輝く『背脂』の粒たち。
「お待たせしました。『特製・背脂豚骨ラーメン』です」
ドンッ、と置かれた丼からは、暴力的なまでの食欲をそそる香りが漂っていた。
深夜二時に、脂と炭水化物の塊。
これはもはや、背徳という名の罪だ。
「……ゴクリ」
ガリウスの喉が鳴った。
夫婦二人、カウンターに並んで座る。
「いただきます」
「いただきます!」
ガリウスはレンゲでスープをすくい、口に運んだ。
「……ッ!!」
目が見開かれる。
口に入れた瞬間、トロリとした粘度を感じる。
濃厚だ。圧倒的に濃厚だ。
豚の骨の髄まで溶け出した旨味が、口内をコーティングしていく。
けれど、臭みはない。醤油ダレの塩気とニンニクのパンチが、脂の甘みを引き締め、次の一口を強烈に誘ってくる。
「濃い! ドロドロだ! なのに……なんでこんなに後を引くんだ!?」
「背脂の甘みですね。見た目よりくどくないでしょう?」
次は麺だ。
黄色い縮れ麺を箸で持ち上げると、スープと背脂がこれでもかと絡みついてくる。
ズズッ、ズズズズッ!!
異世界にはない「すする」という文化も、ガリウスは完全にマスターしていた。
勢いよく吸い込むことで、スープの香りが鼻に抜け、麺のモチモチとした食感が楽しめる。
「うめぇえええ!! 麺がスープを運んでくる! 噛むたびに小麦の香りと豚の脂が混ざり合って……たまらん!」
チャーシューにかぶりつく。
箸で持つだけで崩れるほど柔らかい。
口に入れると、脂身が体温で溶け、赤身はホロホロと解ける。
スープを吸った肉は、それだけで最強の料理だ。
「マリー、これ……ヤバいぞ。こんな夜中に食ったら……」
「ふふ、明日のお肌はプルプルですよ。コラーゲンの塊ですから」
マリーも、髪を耳にかけながら、ズルズルと麺をすする。
深夜のラーメンデート。
上品な貴族社会では気絶されそうな光景だが、今の二人には最高の贅沢だ。
「煮玉子も割ってみてください」
言われるがまま、茶色く染まった玉子を割る。
中から、オレンジ色の黄身がトロリと溢れ出す。
それをレンゲに乗せ、スープと一緒にパックン。
「……幸せだ」
ガリウスは天井を仰いだ。
濃厚なスープ、コシのある麺、とろける肉と玉子。
それらが胃袋に落ちるたびに、身体の底から熱い力が湧いてくる。
一日の労働の疲れが、脂と塩分によって癒やされていく快感。
「替え玉、ありますよ?」
「頼む! 硬めで!」
ガリウスの食欲は止まらない。
マリーは微笑みながら、再び麺を湯に投入した。
その時だった。
カサッ……コトッ。
店の裏口あたりで、小さな物音がした。
ガリウスの手がピタリと止まる。
その瞳から「夫」の優しさが消え、鋭い「Sランク冒険者」の光が宿る。
「……マリー、下がってろ」
「え? 魔物ですか?」
「いや……気配は小さい。だが、獣の臭いがする」
ガリウスは無音で立ち上がり、足音を消して裏口へと近づいた。
換気扇からは、強烈な豚骨スープの匂いが外へ流れ出ている。
この匂いに釣られた野良犬だろうか?
ガリウスは、勢いよく扉を開け放った。
「そこだッ!」
「ひゃうっ!?」
闇の中にうずくまっていた「何か」が、驚いて飛び跳ねた。
月明かりに照らされたのは、ボロボロの布を纏った、小さな影。
頭にはフサフサした獣の耳、お尻からは落ち着きなく震える尻尾。
薄汚れているが、その瞳だけはギラギラと輝き、店の方を――正確には厨房の寸胴鍋を凝視していた。
「……獣人のガキ?」
ガリウスが構えを解く。
そこにいたのは、狼の特徴を持つ獣人の少年だった。
痩せこけて肋骨が浮いているが、鼻をヒクヒクさせ、よだれを垂らしている。
「お、おいら……悪いことしてないぞ! ただ……匂いが……」
少年のお腹が、グゥゥゥゥ~キュルルル……と、雷のような音を立てた。
その音は、あまりにも切実で、そして正直だった。
マリーがガリウスの後ろから顔を出した。
少年の痩せた体と、必死な目つきを見て、彼女の「料理人魂」に火がついた。
「……お腹、空いてるの?」
マリーの問いかけに、少年はコクコクと激しく頷いた。
「死にそうなんだ。……その、いい匂いのやつ。一口でいいから……」
マリーとガリウスは顔を見合わせた。
ガリウスは苦笑して、肩をすくめた。
妻が何を言うか、もう分かっているからだ。
「入れ。……ただし、食い逃げは許さんぞ。体で払ってもらうからな」
ガリウスが脅すような口調で言うが、手招きをしている。
少年は警戒しながらも、背脂の香りの誘惑に勝てず、フラフラと店内に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ。……さあ、座って。とびきりコッテリしたのを作るから」
マリーは新しい丼を取り出した。
深夜のラーメン屋に、新たな珍客――後に店の看板息子となる少年ロロ――が来店した瞬間だった。




