20話 いらっしゃいませ!
月日は流れ、あれから三年。
王都の裏路地にある『居酒屋マリー』は、今夜も看板の文字が見えないほどの湯気と熱気に包まれていた。
店の入り口には、長蛇の列。
並んでいるのは、仕事帰りの冒険者、商会の制服を着た商人、そしてお忍びのマントを羽織った貴族たち。
身分も種族もバラバラな彼らが、「まだか」「早くあの一杯が飲みたい」と、同志のような顔で順番を待っている。
「へい、お待たせ! 4名様ご案内!」
野太い声が響き、引き戸がガラリと開く。
現れたのは、白いシャツの袖をまくり上げ、紺色の前掛けをキリリと締めた大男。
かつての『英雄王子』にしてSランク冒険者、そして今は「マリーの旦那」として定着したガリウスだ。
「旦那! 今日もいい動きだねぇ!」
「おうよ。もたもたしてると、女将に叱られるからな」
ガリウスはニカッと笑い、客を席へと誘導する。
その動きには、もはや王族の堅苦しさも、剣士の殺気もない。あるのは、繁盛店を回す熟練ホールスタッフの頼もしさだけだ。
「いらっしゃいませ! 今夜は少し冷えますから、温かいお通しからどうぞ」
カウンターの中では、マリーが司令塔として厨房を支配していた。
三年経ち、少し髪が伸びた彼女は、以前よりも増して生き生きとした美しさを放っている。
「さあ、皆さん! グラスの準備はいいですか? 今夜は特別な夜ですよ!」
マリーが声を張り上げると、客たちが一斉にジョッキを構えた。
黄金色のエール、透明な冷酒、果実のサングリア。
それぞれの「一日の疲れを癒やす薬」が、照明を受けて輝く。
「それでは、今日も一日お疲れ様でした! 乾杯!」
「「「かんぱーい!!」」」
王都の夜を揺らすような大合唱。
ガラスが触れ合う軽快な音が、宴の始まりを告げる。
◇
「ふぅ……。やはり、城の極上ワインより、ここの生ビールの方が喉に効くな」
カウンターの奥、いつもの特等席でジョッキを空にしたのは、隠居して譲位した元国王、オズワルドだ。
その横には、相棒のように並んで座るドワーフのガンテツがいる。
「違ぇねぇ。この泡のキメ細かさは、俺のサーバーと女将の管理があってこそだ。……ほら爺さん、次は『塩辛』いくぞ」
「うむ。あの濃厚な肝の味が、熱燗を呼ぶのだ」
元国王とドワーフの職人が、肩を並べて塩辛をつつく。
平和そのものの光景だ。
その少し離れたテーブル席では、かつて敵対していた聖女リリィが、女性冒険者たちと女子会を開いていた。
「見て見て! 今日の『季節のカルパッチョ』、すごくない?」
リリィが指差した皿には、透き通るような白身魚『クリスタル・タイ』の薄造りが、花びらのように並べられている。
かかっているのは、オリーブオイルと岩塩、そして『柚子』の果汁だ。
「昔は甘いものばかり食べてたけど、今はこういうサッパリしたのが一番よね~」
「リリィちゃん、すっかり酒飲みになったわね」
彼女はもう、映えだけを気にする聖女ではない。
美味しい料理を食べて、心から笑う一人の女性客だ。
そして。
カウンターの端、かつてガリウスが座っていた場所に、一人の男が座っていた。
日に焼けた肌、鍛え上げられた腕。
数年前のひ弱な姿はどこにもない。
各地を旅して回り、一回りも二回りも大きくなって帰ってきた、元第二王子ユリウスだ。
「……マリーさん。約束のもの、頼めるかい?」
ユリウスは、革袋から一枚の硬貨を取り出し、カウンターに置いた。
それは、彼が自分の力で魔物を狩り、稼ぎ出した『金貨』だった。
「はい、お待ちしておりました。ユリウスさん」
マリーは嬉しそうに頷き、オーブンから巨大な塊肉を取り出した。
『ダンジョン・バイソン』のロース肉。
低温で三時間じっくりと火を通し、肉汁を閉じ込めたローストビーフだ。
マリーは包丁をスッと入れる。
抵抗なく刃が通り、美しい薔薇色の断面が現れる。
溢れ出る肉汁が、まな板の上で輝く。
厚切りにした肉を皿に盛り、赤ワインと醤油、玉ねぎを煮詰めた『ジャポネソース』をたっぷりと回しかける。
仕上げに、鼻にツンと抜ける『西洋わさび(ホースラディッシュ)』を添えて。
「お待たせいたしました。『特製・厚切りローストビーフ』です」
ドンッ、と置かれた肉の迫力に、ユリウスが息を呑む。
ソースの焦げた香りと、肉の野生的な香りが、旅で疲れた胃袋を直撃する。
「……いただきます」
ナイフを入れる。柔らかい。
大きく切り分け、口いっぱいに頬張る。
「……んっ!!」
噛んだ瞬間、肉の繊維がほどけ、凝縮されていた赤身の旨味が奔流となって溢れ出した。
甘辛い玉ねぎソースが肉の味を引き立て、西洋わさびの辛味が鼻を突き抜け、脂の重さを消し去る。
「美味い……。これが、自分の金で食う肉の味か」
噛み締めるたびに、旅の苦労が報われていく。
泥水をすすった日も、野宿した夜も、すべてはこの一口のためにあったのだと思える。
「おかえり、ユリウス」
ガリウスが通りがかりに、弟の背中をバシッと叩いた。
「いい面構えになったな。……食ったら、皿洗い手伝っていけよ? 今日は人手が足りねぇんだ」
「ははっ、人使いが荒いな、兄貴は。……ああ、喜んでやるよ」
ユリウスは涙を滲ませながら、最高の笑顔で肉を飲み込んだ。
◇
宴は深夜まで続いた。
誰もが笑顔で、誰もが満腹で。
店内の空気そのものが、黄金色の出汁のように温かく、濃厚になっていく。
「さーて、ラストオーダーだ! 最後に食い残しはねぇか!?」
ガリウスの声に、「もう食えねぇ!」「幸せだー!」という返事が返ってくる。
マリーは厨房から、その光景を眺めていた。
追放されたあの日、絶望の中で辿り着いたこの廃屋。
それが今、こんなにも多くの人の「居場所」になっている。
「……幸せですね、ガリウスさん」
隣に立った夫に、マリーが小声で話しかける。
ガリウスは汗を拭い、愛おしそうにマリーを見下ろした。
「ああ。……城の玉座より、ここのカウンターの中の方が、俺にはお似合いだ」
「ふふ、そうですね。貴方は世界一の『給仕長』ですから」
二人が微笑み合っていると、入り口の引き戸が、遠慮がちに少しだけ開いた。
「あの……まだ、やってますか?」
隙間から覗いたのは、疲れ果てた様子の若い旅人だった。
雨に濡れ、お腹をさすり、不安そうに中を見ている。
かつてのガリウスのように。
かつてのユリウスのように。
そして、かつてのマリーのように、温かい場所を探している人。
マリーとガリウスは顔を見合わせ、頷き合った。
閉店時間は過ぎている。
でも、そんなことは関係ない。
ここはお腹を空かせた人のための、深夜食堂なのだから。
二人は声を揃え、とびきりの笑顔で迎え入れた。
「「いらっしゃいませ!」」
「どうぞ、中へ! 冷えたビールと、熱々の美味しいご飯がありますよ!」
温かい湯気が、旅人を包み込む。
『居酒屋マリー』の夜は、まだ終わらない。
明日を生きるための活力が、ここからまた、生まれていくのだ。
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