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【第2章完】追放された悪役令嬢の『居酒屋マリー』へようこそ  作者: 九葉
第1章

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19/25

第19話 新しい看板

王都の並木道が、鮮やかな黄金色に染まり始めた頃。

『居酒屋マリー』の店先には、新しい看板が掲げられていた。


藍色の暖簾のれんの横に、真新しい木の札。

そこには、王家から授与された『王室御用達』の紋章と共に、以前よりも少し太く、力強い文字でこう書き加えられている。


夫婦めおとで営業中。 本日も、旨い酒と肴、あります』


ガララッ……!


「いらっしゃいませ!」

「……いらっしゃい」


引き戸を開けると、二つの声が重なって響いた。

一つは、鈴を転がしたような明るいマリーの声。

もう一つは、地響きのように低く、しかし不思議と心地よい野太い声だ。


「おいおい、今日も大盛況だな!」

「ガリウスの旦那! こっちに『とりあえず生』だ!」


店内は、開店直後から満席だった。

そして、そのホールの中心に仁王立ちしているのは、かつてのSランク冒険者にして元第一王子、ガリウスだ。


今の彼は、重厚な鎧を脱ぎ捨てていた。

代わりに身につけているのは、動きやすい白いシャツと、マリーとお揃いの『紺色の前掛け(エプロン)』だ。

腰には剣の代わりに、オーダー票と布巾を下げている。


「あいよ。生一丁」


ガリウスはサーバーのコックを操り、神業的な手つきでジョッキにエールを注ぐ。

泡と液体の黄金比率は、ドワーフのガンテツ直伝だ。

巨体で狭い通路をすり抜け、客のテーブルにドンッと置く。


「お待たせ。……残すなよ」


「ひぃっ! も、もちろん残しませんよ!」


客の男が冗談半分に怯えて見せると、店内がドッと笑いに包まれた。

かつて「剣鬼」と恐れられた男は今、王都で一番「頼もしい(そして少し怖い)」ホール係として、店の人気者になっていた。


「ふふ、ガリウスさん。3番テーブルに『焼き鳥』追加ですよ」


「了解だ、女将」


厨房のマリーが指示を出すと、ガリウスは短く答えて動く。

その連携は、長年連れ添った夫婦のように阿吽の呼吸だ。

マリーは幸せそうに夫の背中を見送り、目の前の焼き台に向き直った。


「さて、今夜の主役を焼きましょうか」


マリーが取り出したのは、細長く、銀色の刀身のように輝く魚たちだ。

紅葉刀魚オータム・サーベル』。

北の海から南下してくるこの時期、たっぷりと脂を蓄えたその魚は、異世界における『秋刀魚サンマ』そのものである。


「今日は脂が乗ってて美味しそう……!」


マリーは魚の表面に、高い位置からパラパラと『岩塩』を振る。

化粧塩だ。これにより、皮はパリッと、身はふっくらと仕上がる。


炭火の上に、網を置く。

十分に熱せられた網の上に、銀色の魚体を並べていく。


ジュゥゥゥゥ……ッ!


置いた瞬間、皮が焼ける繊細な音が響く。

だが、本番はここからだ。

魚の体温が上がり、皮の下にある脂が溶け出すと、その脂がポタポタと炭の上に落ちる。


ジュッ! ジュワワワッ!!


炭に落ちた脂が瞬時に気化し、白く芳醇な煙となって立ち上る。

その煙が魚を包み込み、燻製のような香ばしい香りを纏わせていく。


「うおぉっ……! なんだこの匂いは!」

「たまらん! 焦げた醤油と、魚の脂の匂いだ!」


換気扇だけでは吸いきれない煙が、客席へと流れていく。

それは最強の『飯テロ』爆撃。

ビールを飲んでいた客たちが、一斉に鼻をヒクつかせ、厨房を振り返る。


「マリーさん! その焼いてるやつ、俺にもくれ!」

「こっちもだ! あと、それに合う酒も頼む!」


注文の嵐が巻き起こる。


「はい、ただいま! ……ガリウスさん、日本酒の熱燗をお願いします!」


「おう。魚にはやっぱり、燗酒かんざけだな」


ガリウスが手際よく徳利とっくりを湯煎にかける。

その間に、マリーは焼き加減を見極める。

皮が狐色に焦げ、身がパンパンに膨らみ、腹の部分から脂が泡を吹いている。

今だ。


裏返す。

パリッ、という音と共に、美しい焼き目が現れる。

反対側もサッと焼き上げ、皿に盛る。

添えるのは、ダンジョン大根のすりおろしと、酸味の強い柑橘『スダチ』の半切り。


「お待たせいたしました。『紅葉刀魚の塩焼き』です。熱いうちにどうぞ!」


カウンターの特等席に陣取っていたドワーフのガンテツが、一番に箸を伸ばした。


「くぅ~っ! この季節が来たか! この細長い姿を見るだけで、酒が飲めるわい」


ガンテツは箸の先で、魚の背中をススッと押した。

パリパリの皮が割れ、中から湯気と共に、真っ白な身と、血合いの混じった黒っぽい身が現れる。


ほぐした身を、大根おろしと一緒に口へ運ぶ。


「……んんっ!」


ガンテツが目を閉じて天を仰いだ。


「脂が……脂が凄いぞ! 口に入れた瞬間、トロリと溶け出しやがる!」


強火の遠火で焼かれた皮はパリパリで香ばしく、中の身は蒸し焼き状態でふっくらと柔らかい。

溢れ出る脂は甘いが、大根おろしの辛味とスダチの酸味がそれを中和し、いくらでも食べられる。


「そして、ここだ。ツウはここを食うんだよ」


ガンテツは、魚の腹の部分――内臓ワタに箸を伸ばした。

少し黒ずんだその部分を、身と一緒に口に入れる。


にがっ! ……でも、うめぇ!!」


強烈な苦味。

だが、その奥にある濃厚なコクと旨味。

大人の味だ。

口の中に残る苦味と脂を、熱々の日本酒で流し込む。


「ッカァーーッ! たまんねぇ! 日本酒とワタの相性は、ドワーフと戦槌より完璧だ!」


その様子を見て、他の客たちも次々と魚にかぶりつく。

骨から身を外すのが苦手な騎士たちも、今日ばかりは手をベタベタにしながら、夢中で骨をしゃぶっている。


「おい、そこの席。骨を散らかすな」


ガリウスが空いた皿を下げに来た。

その手つきは驚くほど丁寧だ。

かつて大剣でドラゴンを解体していた技術は、今や魚の骨を綺麗に取り除く繊細な作業に活かされていた。


「あ、旦那。俺、骨取るの下手くそで……」


「……貸してみろ」


ガリウスは客の皿を引き寄せると、箸を二本使い、魔法のような手際で中骨を一気に引き抜いた。

スルリ、と骨だけが取れ、食べやすい身だけが残る。


「す、すげぇ! 神業だ!」

「サービスだ。冷めないうちに食え」


「ありがてぇ! さすが元王……いや、名物旦那だ!」


客たちはガリウスの正体を知りつつも、あえて触れずに「旦那」と呼んで慕っている。

彼らにとってガリウスは、雲の上の王子様ではなく、この店の頼れる用心棒兼ホールスタッフなのだ。


一段落した頃。

マリーは厨房の奥で、自分たちの分のまかないを用意した。

もちろん、焼きたての紅葉刀魚だ。

それに、新米の炊きたてご飯と、具だくさんの味噌汁。


「ガリウスさん、少し休憩しましょう」


「おう。腹が減って目が回りそうだ」


二人はカウンターの端に並んで座った。

エプロン姿のまま、並んで魚をつつく。


「ん……美味しい。今年の魚は特に脂が乗ってますね」


マリーが頬を緩める。

ガリウスは、器用に骨を外した身を、マリーのご飯の上に乗せてやった。


「ほら、一番脂の乗ってる腹身だ。食え」


「え? そんな、ガリウスさんが食べてください」


「俺は頭と骨の周りでいい。……お前が作ったもんは、お前が一番美味い状態で食うべきだ」


ガリウスのぶっきらぼうな優しさに、マリーの胸が温かくなる。

白いご飯の上に乗った、黄金色の焼き魚。

それを一緒に口に運ぶと、魚の脂とご飯の甘みが混ざり合い、言葉にならない幸福感が広がる。


「……結婚して、よかったな」


ガリウスが味噌汁をすすりながら、ぽつりと呟いた。


「昔は、食事なんてただの燃料補給だと思ってた。でも今は、こうして季節のものを、お前と並んで食うのが……何よりの贅沢だ」


「はい。私も、貴方が『美味い』って言ってくれるだけで、どんな宝石をもらうより嬉しいです」


二人が見つめ合っていると、常連客たちからヒューヒューと冷やかしの声が飛んだ。


「お熱いねぇ! 魚が焼けちまうよ!」

「ごちそうさま! 料理の味より、二人の甘さでお腹いっぱいだ!」


「う、うるさいぞ! さっさと食って帰れ!」


ガリウスが顔を赤くして怒鳴るが、その声には微塵も迫力がない。

マリーも顔を真っ赤にして、エプロンで口元を隠した。


店全体が、一つの大家族のような温かい空気に包まれている。

王宮の冷たい風にさらされていた二人にとって、ここは最高の居場所だった。


閉店後。

静まり返った店内で、マリーは新しい看板を見上げた。


『夫婦で営業中』


その文字を指でなぞりながら、彼女は幸せそうに呟いた。


「さて、明日はどんな美味しいものを作りましょうか、旦那様?」


「そうだな。……肉だ。明日はガッツリ肉が食いたい」


「ふふ、わかりました。とびきりのハンバーグでも仕込みましょうか」


夜空には満月。

二人の影が、路地裏の石畳に長く伸びて重なり合っていた。

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