第19話 新しい看板
王都の並木道が、鮮やかな黄金色に染まり始めた頃。
『居酒屋マリー』の店先には、新しい看板が掲げられていた。
藍色の暖簾の横に、真新しい木の札。
そこには、王家から授与された『王室御用達』の紋章と共に、以前よりも少し太く、力強い文字でこう書き加えられている。
『夫婦で営業中。 本日も、旨い酒と肴、あります』
ガララッ……!
「いらっしゃいませ!」
「……いらっしゃい」
引き戸を開けると、二つの声が重なって響いた。
一つは、鈴を転がしたような明るいマリーの声。
もう一つは、地響きのように低く、しかし不思議と心地よい野太い声だ。
「おいおい、今日も大盛況だな!」
「ガリウスの旦那! こっちに『とりあえず生』だ!」
店内は、開店直後から満席だった。
そして、そのホールの中心に仁王立ちしているのは、かつてのSランク冒険者にして元第一王子、ガリウスだ。
今の彼は、重厚な鎧を脱ぎ捨てていた。
代わりに身につけているのは、動きやすい白いシャツと、マリーとお揃いの『紺色の前掛け(エプロン)』だ。
腰には剣の代わりに、オーダー票と布巾を下げている。
「あいよ。生一丁」
ガリウスはサーバーのコックを操り、神業的な手つきでジョッキにエールを注ぐ。
泡と液体の黄金比率は、ドワーフのガンテツ直伝だ。
巨体で狭い通路をすり抜け、客のテーブルにドンッと置く。
「お待たせ。……残すなよ」
「ひぃっ! も、もちろん残しませんよ!」
客の男が冗談半分に怯えて見せると、店内がドッと笑いに包まれた。
かつて「剣鬼」と恐れられた男は今、王都で一番「頼もしい(そして少し怖い)」ホール係として、店の人気者になっていた。
「ふふ、ガリウスさん。3番テーブルに『焼き鳥』追加ですよ」
「了解だ、女将」
厨房のマリーが指示を出すと、ガリウスは短く答えて動く。
その連携は、長年連れ添った夫婦のように阿吽の呼吸だ。
マリーは幸せそうに夫の背中を見送り、目の前の焼き台に向き直った。
「さて、今夜の主役を焼きましょうか」
マリーが取り出したのは、細長く、銀色の刀身のように輝く魚たちだ。
『紅葉刀魚』。
北の海から南下してくるこの時期、たっぷりと脂を蓄えたその魚は、異世界における『秋刀魚』そのものである。
「今日は脂が乗ってて美味しそう……!」
マリーは魚の表面に、高い位置からパラパラと『岩塩』を振る。
化粧塩だ。これにより、皮はパリッと、身はふっくらと仕上がる。
炭火の上に、網を置く。
十分に熱せられた網の上に、銀色の魚体を並べていく。
ジュゥゥゥゥ……ッ!
置いた瞬間、皮が焼ける繊細な音が響く。
だが、本番はここからだ。
魚の体温が上がり、皮の下にある脂が溶け出すと、その脂がポタポタと炭の上に落ちる。
ジュッ! ジュワワワッ!!
炭に落ちた脂が瞬時に気化し、白く芳醇な煙となって立ち上る。
その煙が魚を包み込み、燻製のような香ばしい香りを纏わせていく。
「うおぉっ……! なんだこの匂いは!」
「たまらん! 焦げた醤油と、魚の脂の匂いだ!」
換気扇だけでは吸いきれない煙が、客席へと流れていく。
それは最強の『飯テロ』爆撃。
ビールを飲んでいた客たちが、一斉に鼻をヒクつかせ、厨房を振り返る。
「マリーさん! その焼いてるやつ、俺にもくれ!」
「こっちもだ! あと、それに合う酒も頼む!」
注文の嵐が巻き起こる。
「はい、ただいま! ……ガリウスさん、日本酒の熱燗をお願いします!」
「おう。魚にはやっぱり、燗酒だな」
ガリウスが手際よく徳利を湯煎にかける。
その間に、マリーは焼き加減を見極める。
皮が狐色に焦げ、身がパンパンに膨らみ、腹の部分から脂が泡を吹いている。
今だ。
裏返す。
パリッ、という音と共に、美しい焼き目が現れる。
反対側もサッと焼き上げ、皿に盛る。
添えるのは、ダンジョン大根のすりおろしと、酸味の強い柑橘『スダチ』の半切り。
「お待たせいたしました。『紅葉刀魚の塩焼き』です。熱いうちにどうぞ!」
カウンターの特等席に陣取っていたドワーフのガンテツが、一番に箸を伸ばした。
「くぅ~っ! この季節が来たか! この細長い姿を見るだけで、酒が飲めるわい」
ガンテツは箸の先で、魚の背中をススッと押した。
パリパリの皮が割れ、中から湯気と共に、真っ白な身と、血合いの混じった黒っぽい身が現れる。
ほぐした身を、大根おろしと一緒に口へ運ぶ。
「……んんっ!」
ガンテツが目を閉じて天を仰いだ。
「脂が……脂が凄いぞ! 口に入れた瞬間、トロリと溶け出しやがる!」
強火の遠火で焼かれた皮はパリパリで香ばしく、中の身は蒸し焼き状態でふっくらと柔らかい。
溢れ出る脂は甘いが、大根おろしの辛味とスダチの酸味がそれを中和し、いくらでも食べられる。
「そして、ここだ。通はここを食うんだよ」
ガンテツは、魚の腹の部分――内臓に箸を伸ばした。
少し黒ずんだその部分を、身と一緒に口に入れる。
「苦っ! ……でも、うめぇ!!」
強烈な苦味。
だが、その奥にある濃厚なコクと旨味。
大人の味だ。
口の中に残る苦味と脂を、熱々の日本酒で流し込む。
「ッカァーーッ! たまんねぇ! 日本酒とワタの相性は、ドワーフと戦槌より完璧だ!」
その様子を見て、他の客たちも次々と魚にかぶりつく。
骨から身を外すのが苦手な騎士たちも、今日ばかりは手をベタベタにしながら、夢中で骨をしゃぶっている。
「おい、そこの席。骨を散らかすな」
ガリウスが空いた皿を下げに来た。
その手つきは驚くほど丁寧だ。
かつて大剣でドラゴンを解体していた技術は、今や魚の骨を綺麗に取り除く繊細な作業に活かされていた。
「あ、旦那。俺、骨取るの下手くそで……」
「……貸してみろ」
ガリウスは客の皿を引き寄せると、箸を二本使い、魔法のような手際で中骨を一気に引き抜いた。
スルリ、と骨だけが取れ、食べやすい身だけが残る。
「す、すげぇ! 神業だ!」
「サービスだ。冷めないうちに食え」
「ありがてぇ! さすが元王……いや、名物旦那だ!」
客たちはガリウスの正体を知りつつも、あえて触れずに「旦那」と呼んで慕っている。
彼らにとってガリウスは、雲の上の王子様ではなく、この店の頼れる用心棒兼ホールスタッフなのだ。
一段落した頃。
マリーは厨房の奥で、自分たちの分のまかないを用意した。
もちろん、焼きたての紅葉刀魚だ。
それに、新米の炊きたてご飯と、具だくさんの味噌汁。
「ガリウスさん、少し休憩しましょう」
「おう。腹が減って目が回りそうだ」
二人はカウンターの端に並んで座った。
エプロン姿のまま、並んで魚をつつく。
「ん……美味しい。今年の魚は特に脂が乗ってますね」
マリーが頬を緩める。
ガリウスは、器用に骨を外した身を、マリーのご飯の上に乗せてやった。
「ほら、一番脂の乗ってる腹身だ。食え」
「え? そんな、ガリウスさんが食べてください」
「俺は頭と骨の周りでいい。……お前が作ったもんは、お前が一番美味い状態で食うべきだ」
ガリウスのぶっきらぼうな優しさに、マリーの胸が温かくなる。
白いご飯の上に乗った、黄金色の焼き魚。
それを一緒に口に運ぶと、魚の脂とご飯の甘みが混ざり合い、言葉にならない幸福感が広がる。
「……結婚して、よかったな」
ガリウスが味噌汁をすすりながら、ぽつりと呟いた。
「昔は、食事なんてただの燃料補給だと思ってた。でも今は、こうして季節のものを、お前と並んで食うのが……何よりの贅沢だ」
「はい。私も、貴方が『美味い』って言ってくれるだけで、どんな宝石をもらうより嬉しいです」
二人が見つめ合っていると、常連客たちからヒューヒューと冷やかしの声が飛んだ。
「お熱いねぇ! 魚が焼けちまうよ!」
「ごちそうさま! 料理の味より、二人の甘さでお腹いっぱいだ!」
「う、うるさいぞ! さっさと食って帰れ!」
ガリウスが顔を赤くして怒鳴るが、その声には微塵も迫力がない。
マリーも顔を真っ赤にして、エプロンで口元を隠した。
店全体が、一つの大家族のような温かい空気に包まれている。
王宮の冷たい風にさらされていた二人にとって、ここは最高の居場所だった。
閉店後。
静まり返った店内で、マリーは新しい看板を見上げた。
『夫婦で営業中』
その文字を指でなぞりながら、彼女は幸せそうに呟いた。
「さて、明日はどんな美味しいものを作りましょうか、旦那様?」
「そうだな。……肉だ。明日はガッツリ肉が食いたい」
「ふふ、わかりました。とびきりのハンバーグでも仕込みましょうか」
夜空には満月。
二人の影が、路地裏の石畳に長く伸びて重なり合っていた。




