第18話 ガリウスのプロポーズ
弟王子ユリウスが去り、王都に本当の意味での平穏が戻ってきた頃。
季節は冬から春へと移り変わり、路地裏の風にも少しずつ温かさが混じり始めていた。
『居酒屋マリー』の閉店後。
洗い物を終えたマリーは、カウンターの隅で一人、ジョッキを傾けるガリウスに視線を送った。
彼はいつものように飲み続けているが、今日はどこか様子が違う。
貧乏揺すりをしたり、何度も天井を見上げたりと、落ち着きがない。
「ガリウスさん? もうお酒、ラストオーダーですよ?」
「……あ、ああ。悪い」
ガリウスは空になったジョッキを置き、深いため息をついた。
その表情は、凶暴なドラゴンと対峙した時よりも真剣で、強張っている。
「マリー。……腹が減った」
「ふふ、いつも通りですね。締めの一品、何にしますか?」
「……子供っぽいのがいい。甘くて、酸っぱくて、卵で包まれてるやつだ」
マリーは少し考え、ポンと手を打った。
彼が求めているのは、あの料理だ。
冒険者や貴族という肩書きを脱ぎ捨て、童心に帰れる魔法の洋食。
「わかりました。とびきりフワフワの『オムライス』を作りましょう」
マリーは厨房に入り、フライパンを熱した。
まずは『チキンライス』作りからだ。
具材は、弾力のある『コカトリス』のモモ肉と、甘みの強い『新玉ねぎ』。これをバターで炒め、香りを立たせる。
そこへ、炊きたての『黄金米』を投入。
パラパラになるまで炒めたら、味の決め手となる調味料を加える。
完熟した『ルビートマト』を煮詰めて作った、特製の濃厚ケチャップだ。
ジュワァァァッ!!
ケチャップが焦げる甘酸っぱい香りが、店内に充満する。
米の一粒一粒が赤く染まり、バターのコクとトマトの酸味を吸い込んでいく。
「いい匂いだ……」
ガリウスが鼻をヒクつかせた。
炒め上がったライスを、アーモンド型に整えて皿に盛る。
ここからが勝負だ。
マリーはボウルに『コカトリスの双子卵』を三個割り入れた。
黄身が濃く、箸でつまめるほど新鮮な卵だ。
牛乳と少量のマヨネーズを加え、空気を含ませるように手早く混ぜる。
熱したフライパンにバターを溶かし、卵液を一気に流し込む。
ジュウウウ……。
菜箸で大きくかき混ぜ、半熟のスクランブルエッグ状にする。
そして、フライパンの柄をトントンと叩き、卵を奥に寄せていく。
外側はツルッとした薄焼き、中身はトロトロの半熟。
職人技の見せ所だ。
「よしっ!」
マリーはフライパンを返し、チキンライスの上に黄色いラグビーボールのような卵を乗せた。
包丁で真ん中にスッと切れ込みを入れる。
パカッ……トロォ……。
卵が左右に開き、半熟の中身がチキンライスを覆い尽くす。
黄金色のドレスを纏ったような、完璧なオムライスの完成だ。
「お待たせいたしました。『特製・タンポポオムライス』です」
湯気を立てる皿を、ガリウスの前に置く。
鮮やかな黄色と、デミグラスソースの代わりに添えられた赤いケチャップ。
「……すげぇ。卵が、生きてるみたいに震えてやがる」
「スプーンで豪快に食べてくださいね」
ガリウスはスプーンを握りしめた。
しかし、食べる前に、彼はマリーに向かって手を差し出した。
「その、赤いソースの瓶。……貸してくれ」
「え? ケチャップですか? 味が足りないならかけますけど……」
「いいから。俺にやらせてくれ」
ガリウスはマリーからケチャップの容器を受け取った。
Sランク冒険者として大剣を軽々と振るうその手が、小刻みに震えている。
彼は真剣な眼差しで、オムライスの黄色いキャンバスに向かった。
ブチュッ。
「あ……」
力が入りすぎて、最初の一文字が太い塊になってしまった。
それでも彼は諦めない。
額に汗を滲ませながら、不器用に、しかし一筆一筆魂を込めて、文字を書いていく。
マリーはその様子を、息を呑んで見守っていた。
やがて、彼は容器を置き、顔を真っ赤にして皿を差し出した。
そこには、歪な、しかし力強い文字でこう書かれていた。
『オレノ ヨメニ』
マリーの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
オムライスの上の、ケチャップ文字。
それはどんな吟遊詩人の歌よりも、不器用で、愛おしい求婚の言葉。
「……ガリウス、さん」
「……口で言うのは、柄じゃねぇからな」
ガリウスは視線を逸らし、ボサボサの髪をガシガシとかいた。
だが、すぐにマリーの方に向き直り、その蒼穹の瞳で彼女を真っ直ぐに見据えた。
「マリー。俺はもう、ただの客じゃ満足できなくなった」
彼は言葉を探すように、少し間を置いた。
「毎日、お前の料理を食いたい。……いや、違うな。俺は、お前が笑って料理を作る姿を、一番近くで守り続けたいんだ」
店内の静寂に、冷蔵庫のモーター音だけが響く。
「俺は不器用だ。王位も捨てたし、持ってるのは剣と、この身体だけだ。だが、お前とこの店を守る盾にはなれる」
ガリウスは椅子から立ち上がり、カウンター越しにマリーの手を取った。
熱くて、硬くて、大きな手。
「俺の専属シェフになってくれ。……いや、俺を夫にしてくれ、マリー」
マリーの視界が滲んだ。
公爵家を追放され、全てを失ったあの日。
雨の中で震えていた自分を、最初に「美味い」と言って救ってくれたのは、この男だった。
彼がいたから、店を続けられた。
彼がいたから、また人を信じることができた。
「……ずるいです、ガリウスさん」
マリーは涙を拭い、精一杯の笑顔を見せた。
「こんな美味しいオムライスの前で言われたら……『はい』っておかわりするしかないじゃないですか」
「……っ! そりゃあ、どっちの意味だ?」
「両方です! 貴方の奥さんになります。だから……一生、私の料理を食べてくださいね」
「おう! 死ぬまで食い続けてやる!」
ガリウスは子供のような満面の笑みを浮かべ、マリーの手を強く握り返した。
「さあ、冷めないうちに食べてください。せっかくの文字が消えちゃいますよ」
「もったいなくて食えねぇよ……」
「食べてくれないと、お皿が洗えません」
ガリウスは幸せそうに悩みながら、ケチャップ文字の端っこ――『ニ』の部分から、スプーンを入れた。
パクッ。
「……うんめぇ」
口いっぱいに頬張る。
ふわふわの卵の優しさ。
バターと鶏肉の旨味を吸ったライスの濃厚さ。
そして、ケチャップの甘酸っぱさが、胸いっぱいの幸福感と混ざり合う。
「甘いな。……今まで食ったどんな料理より、甘くて美味い」
「ふふ、私の気持ちも入ってますから」
マリーはカウンターの中から、愛する人が一番美味しそうに食べる顔を見つめていた。
これからは、これが日常になる。
王族とか、元悪役令嬢とか、そんな肩書きはもう関係ない。
ただの『食いしん坊な夫』と、『料理好きの妻』。
二人の新しい人生のレシピが、ここから始まるのだ。
「あ、そうだガリウスさん」
「ん? なんだ?」
「結婚式のケーキ入刀の代わりに……『巨大マグロの解体ショー』とかどうですか? ガンテツさんが良い包丁を作ってくれるって」
「……お前らしいな。最高だ、採用!」
幸せな笑い声が、春の夜に溶けていく。
皿の上には、綺麗に平らげられたオムライスの跡だけが、二人の愛の証として残っていた。




