第17話 ユリウスの改心
王都の夜は、残酷なほどに静かだった。
煌びやかな貴族街の灯りも消え、街灯すらまばらな貧民街に近い路地裏。
そこを、一人の男が亡霊のように歩いていた。
かつての第二王子、ユリウス・フォン・グランツ。
しかし今の彼に、その面影はない。
上質な生地だったマントは泥にまみれ、金色の髪は脂と埃で汚れ、頬はこけて無精髭が伸びている。
「……腹が、減ったな」
乾いた唇から、力のない言葉が漏れた。
先日の騒動の後、彼は全てを失った。
兄であるガリウスへの暴言、聖女リリィとの共謀による都市計画の悪用、そして王室御用達となった店への度重なる妨害工作。
これらが父王の逆鱗に触れ、彼は王位継承権を剥奪された上で、謹慎という名の事実上の「追放」処分を受けたのだ。
『頭を冷やしてまいれ。民が何を食い、どう生きているかを知るまでは、城の敷居を跨ぐことまかりならん』
財布も持たされず、身一つで放り出されて三日が経つ。
プライドの高い彼には、物乞いなどできない。
水飲み場の水をすすり、野良犬のように裏路地を彷徨うしかなかった。
ふと、鼻をくすぐる匂いがした。
鰹節の出汁の香り。醤油の焦げる匂い。
それは、かつて彼が「下品だ」「汚物だ」と罵ったはずの香り。
なのに今の彼には、それが天上の甘露のように感じられた。
足が勝手に動く。
気づけば彼は、藍色の暖簾の前に立っていた。
『居酒屋マリー』。
一度は潰そうとし、拒絶された場所。
入る資格などない。わかっている。
だが、胃袋が悲鳴を上げ、足が地面に縫い付けられたように動かない。
ガララッ……。
引き戸を開ける音すら、今の彼には重かった。
「いらっしゃいませ!」
店内は満席に近かった。
仕事終わりの冒険者たちの笑い声、食器が触れ合う音、肉の焼ける音。
その圧倒的な「生」のエネルギーに、ユリウスは目眩を覚えた。
「……あ」
カウンターの中にいたマリーと目が合う。
彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。
軽蔑も、怒りもない。ただの「店主」の顔。
「お一人様ですか? カウンターの端が空いておりますよ」
「……金が、ない」
ユリウスは絞り出すように言った。
惨めだった。かつての婚約者に、こんな姿を晒すなんて。
死にたいほどの屈辱だった。
「水だけでいい。……水を、恵んでくれ」
マリーは数秒、沈黙した。
店内の客たちも、薄汚れた男の正体が、あの高慢だった第二王子だと気づき始め、ざわめきが広がる。
だが、カウンターの奥に座っていた大男――ガリウスが、無言でジョッキを置く音で、そのざわめきを制した。
「座りなさい」
マリーは短く言った。
「当店は、お腹を空かせた方なら、どなたでもお客様です。お代は……皿洗いでもしてくれれば結構ですから」
ユリウスは、よろめくように席についた。
木のカウンターの温もりが、冷え切った指先に染みる。
「今の貴方に、脂っこいものは毒でしょう。……胃を休め、本来の感覚を取り戻す料理を出します」
マリーが厨房から取り出したのは、真っ赤な果実だった。
『太陽のトマト(サン・トマト)』。
真夏の太陽の光を浴びて完熟したそれは、皮が張り裂けんばかりにパンパンに張り、生命力に満ちている。
マリーはそれを氷水でキンキンに冷やし、鋭い包丁で櫛形に切った。
飾り気などない。ただ切っただけ。
皿に並べ、横に少量の白い粉末を添える。
ダンジョンの深層にある岩塩層から採掘した、『結晶岩塩』だ。
「まずは、こちらを。『冷やしトマト』です」
コトッ、と置かれた皿の上で、トマトの赤と皿の白が鮮烈なコントラストを描く。
「……これが、料理か?」
ユリウスは呆然と呟いた。
焼いてもいない。煮てもいない。ソースもかかっていない。
王城の料理人なら、「手抜きだ」と処刑されるレベルだ。
「素材そのものの味です。……どうぞ、お塩を少しつけて」
ユリウスは震える手で、一切れのトマトを掴んだ。
指先に伝わる冷たさと、果肉の重み。
岩塩をちょんとつけ、口に運ぶ。
ガブリ。
薄い皮が弾ける音が、脳内に響いた。
「……ッ!!」
酸っぱい。
いや、甘い。
青臭いような植物の香りが鼻を抜けた直後、強烈な酸味と共に、濃厚な甘みが口の中に溢れ出した。
ゼリー状の種の部分が、舌の上でとろける。
「なんだこれは……。水よりも、潤う……」
乾ききった細胞の一つ一つに、トマトの水分が染み渡っていくようだ。
そして、岩塩だ。
ガリッとした塩の粒を噛むと、その塩辛さがトマトの甘みを極限まで引き立てる。
(美味い。……ただの野菜が、こんなにも美味いのか?)
今まで自分が食べてきたものは何だったのか。
濃厚なソースで塗り固め、香辛料で素材の味を消し、見た目だけを飾った料理。
それはまるで、虚栄心で塗り固めた自分自身のようではないか。
「次はこちらです。よく噛んで、音まで味わってください」
マリーが出したのは、一本の串だった。
刺さっているのは、鮮やかな緑色の『エメラルド・キューカンバー(きゅうり)』。
皮を縞模様に剥かれ、一本丸ごと、昆布出汁と塩水に漬け込まれたものだ。
割り箸に刺さったその姿は、夏祭りの屋台を思わせる庶民的なもの。
だが、その緑色は宝石のように澄んでいる。
「『きゅうりの一本漬け』です。頭の方は味が濃く、お尻の方はサッパリとしていますよ」
ユリウスは串を両手で持ち、端からかぶりついた。
ポリッ!!!
店中に響き渡るほど、小気味よい破砕音がした。
「んんっ……」
冷たい。
そして、圧倒的な歯ごたえ。
噛むたびに、ポリッ、ポリッ、シャクッ。
小気味よいリズムと共に、きゅうりの細胞が壊れ、中から昆布の旨味を含んだ水分が飛び出してくる。
(ああ……。余計な味がしない)
塩気。出汁の旨味。きゅうりの青い香り。
それだけだ。
砂糖も、油も、着色料も入っていない。
「……僕は、何をしていたんだろうな」
ユリウスの目から、一雫の涙がこぼれ落ちた。
「聖女の……リリィの作る、甘くて派手な菓子が良いと思っていた。兄上の好む、脂っこい肉料理は下品だと思っていた。……だが、一番大切なのは、こういうことだったのか」
飾らないこと。
素材の良さを信じること。
そして、食べる人の体を思いやること。
マリーの料理は、いつもそうだった。
地味な茶色い煮物も、質素な塩むすびも、この冷やしトマトも。
すべては「美味しく食べてほしい」という、マリーの純粋な心そのものだったのだ。
「僕の人生は……味付け過多だったよ」
ユリウスは自嘲気味に笑い、涙を流しながらきゅうりを齧った。
ポリッ、ポリッという音が、彼の過去の過ちを一つずつ砕いていくようだ。
涙がトマトにかかる。塩気が増して、それはより一層、人生の味がした。
「……マリアンヌ。いや、マリー店主」
完食したユリウスは、空になった皿の前で深く頭を下げた。
「すまなかった。……君を追放したことも。君の料理を冒涜したことも。全て、僕の無知と傲慢さが招いたことだ」
王族が、平民に頭を下げる。
あり得ない光景。
だが、今の彼はただの一人の人間として、心からの謝罪を口にしていた。
「顔を上げてください、ユリウス様」
マリーは静かに言った。
「私はもう、過去のことは気にしていません。……それに、貴方が素直に『美味しい』と言って食べてくれたこと。料理人として、それ以上の喜びはありませんから」
許すわけではない。
けれど、拒絶もしない。
それは、マリーが手に入れた「強さ」だった。
「……ありがとう」
ユリウスは顔を上げた。
憑き物が落ちたような、穏やかな顔つきになっていた。
「おい、坊主」
奥で飲んでいたガリウスが、のっそりと近づいてきた。
手には、飲みかけのジョッキ。
「いい食いっぷりだったな。……少しはマシな面構えになったじゃねぇか」
「兄上……。いえ、ガリウスさん」
ユリウスは兄を見上げた。
そこにはもう、嫉妬や劣等感の色はなかった。
「僕は、城には戻りません。父上から許しが出たとしても、自分自身の足で、この国を見て回ろうと思います。……民がどんなものを食べ、どんな風に笑っているのか。それを知るまでは、僕は王族を名乗る資格がない」
「ほう。……武者修行ならぬ、グルメ修行か?」
ガリウスはニヤリと笑い、弟の肩をバシッと叩いた。
「悪くねぇ。世の中には美味いもんが山ほどあるぞ。マリーの料理には敵わんがな」
「ええ。……いつかまた、胸を張ってこの店の暖簾をくぐれる男になったら、その時は」
ユリウスは立ち上がった。
そして、マリーに向かって真剣な眼差しを向けた。
「一番高い酒と、一番美味い肉料理を注文させてくれ。……金は、自分で稼いでくる」
「はい。楽しみに待っていますね」
マリーの笑顔に見送られ、ユリウスは店を出て行った。
入ってきた時の亡霊のような足取りではない。
地を踏みしめ、前を見据えた確かな足取りで、夜の街へと消えていった。
「やれやれ。手のかかる弟だ」
ガリウスが頭を掻きながら、空いた皿を片付ける。
「でも、良い顔をしていましたよ」
「ああ。……野菜の味がわかるようになりゃ、男としても一人前だ」
ガリウスは嬉しそうに目を細めた。
「さて、しんみりしちまったな。……マリー、俺にはもっとパンチの効いたやつを頼む。まだ飲み足りねぇ」
「ふふ、わかりました。じゃあ、今夜の締めは……」
かつての婚約者との因縁は、こうして静かに、しかし温かく幕を下ろした。
飾らない野菜料理が、迷える王子の目を覚まさせたのだ。




