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【第2章完】追放された悪役令嬢の『居酒屋マリー』へようこそ  作者: 九葉
第1章

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第17話 ユリウスの改心

王都の夜は、残酷なほどに静かだった。


煌びやかな貴族街の灯りも消え、街灯すらまばらな貧民街に近い路地裏。

そこを、一人の男が亡霊のように歩いていた。


かつての第二王子、ユリウス・フォン・グランツ。

しかし今の彼に、その面影はない。

上質な生地だったマントは泥にまみれ、金色の髪は脂と埃で汚れ、頬はこけて無精髭が伸びている。


「……腹が、減ったな」


乾いた唇から、力のない言葉が漏れた。


先日の騒動の後、彼は全てを失った。

兄であるガリウスへの暴言、聖女リリィとの共謀による都市計画の悪用、そして王室御用達となった店への度重なる妨害工作。

これらが父王の逆鱗に触れ、彼は王位継承権を剥奪された上で、謹慎という名の事実上の「追放」処分を受けたのだ。


『頭を冷やしてまいれ。民が何を食い、どう生きているかを知るまでは、城の敷居を跨ぐことまかりならん』


財布も持たされず、身一つで放り出されて三日が経つ。

プライドの高い彼には、物乞いなどできない。

水飲み場の水をすすり、野良犬のように裏路地を彷徨うしかなかった。


ふと、鼻をくすぐる匂いがした。


鰹節の出汁の香り。醤油の焦げる匂い。

それは、かつて彼が「下品だ」「汚物だ」と罵ったはずの香り。

なのに今の彼には、それが天上の甘露のように感じられた。


足が勝手に動く。

気づけば彼は、藍色の暖簾のれんの前に立っていた。


『居酒屋マリー』。


一度は潰そうとし、拒絶された場所。

入る資格などない。わかっている。

だが、胃袋が悲鳴を上げ、足が地面に縫い付けられたように動かない。


ガララッ……。


引き戸を開ける音すら、今の彼には重かった。


「いらっしゃいませ!」


店内は満席に近かった。

仕事終わりの冒険者たちの笑い声、食器が触れ合う音、肉の焼ける音。

その圧倒的な「生」のエネルギーに、ユリウスは目眩を覚えた。


「……あ」


カウンターの中にいたマリーと目が合う。

彼女は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。

軽蔑も、怒りもない。ただの「店主」の顔。


「お一人様ですか? カウンターの端が空いておりますよ」


「……金が、ない」


ユリウスは絞り出すように言った。

惨めだった。かつての婚約者に、こんな姿を晒すなんて。

死にたいほどの屈辱だった。


「水だけでいい。……水を、恵んでくれ」


マリーは数秒、沈黙した。

店内の客たちも、薄汚れた男の正体が、あの高慢だった第二王子だと気づき始め、ざわめきが広がる。

だが、カウンターの奥に座っていた大男――ガリウスが、無言でジョッキを置く音で、そのざわめきを制した。


「座りなさい」


マリーは短く言った。


「当店は、お腹を空かせた方なら、どなたでもお客様です。お代は……皿洗いでもしてくれれば結構ですから」


ユリウスは、よろめくように席についた。

木のカウンターの温もりが、冷え切った指先に染みる。


「今の貴方に、脂っこいものは毒でしょう。……胃を休め、本来の感覚を取り戻す料理を出します」


マリーが厨房から取り出したのは、真っ赤な果実だった。

『太陽のトマト(サン・トマト)』。

真夏の太陽の光を浴びて完熟したそれは、皮が張り裂けんばかりにパンパンに張り、生命力に満ちている。


マリーはそれを氷水でキンキンに冷やし、鋭い包丁で櫛形に切った。

飾り気などない。ただ切っただけ。

皿に並べ、横に少量の白い粉末を添える。

ダンジョンの深層にある岩塩層から採掘した、『結晶岩塩』だ。


「まずは、こちらを。『冷やしトマト』です」


コトッ、と置かれた皿の上で、トマトの赤と皿の白が鮮烈なコントラストを描く。


「……これが、料理か?」


ユリウスは呆然と呟いた。

焼いてもいない。煮てもいない。ソースもかかっていない。

王城の料理人なら、「手抜きだ」と処刑されるレベルだ。


「素材そのものの味です。……どうぞ、お塩を少しつけて」


ユリウスは震える手で、一切れのトマトを掴んだ。

指先に伝わる冷たさと、果肉の重み。

岩塩をちょんとつけ、口に運ぶ。


ガブリ。


薄い皮が弾ける音が、脳内に響いた。


「……ッ!!」


酸っぱい。

いや、甘い。

青臭いような植物の香りが鼻を抜けた直後、強烈な酸味と共に、濃厚な甘みが口の中に溢れ出した。

ゼリー状の種の部分が、舌の上でとろける。


「なんだこれは……。水よりも、潤う……」


乾ききった細胞の一つ一つに、トマトの水分が染み渡っていくようだ。

そして、岩塩だ。

ガリッとした塩の粒を噛むと、その塩辛さがトマトの甘みを極限まで引き立てる。


(美味い。……ただの野菜が、こんなにも美味いのか?)


今まで自分が食べてきたものは何だったのか。

濃厚なソースで塗り固め、香辛料で素材の味を消し、見た目だけを飾った料理。

それはまるで、虚栄心で塗り固めた自分自身のようではないか。


「次はこちらです。よく噛んで、音まで味わってください」


マリーが出したのは、一本の串だった。

刺さっているのは、鮮やかな緑色の『エメラルド・キューカンバー(きゅうり)』。

皮を縞模様に剥かれ、一本丸ごと、昆布出汁と塩水に漬け込まれたものだ。


割り箸に刺さったその姿は、夏祭りの屋台を思わせる庶民的なもの。

だが、その緑色は宝石のように澄んでいる。


「『きゅうりの一本漬け』です。頭の方は味が濃く、お尻の方はサッパリとしていますよ」


ユリウスは串を両手で持ち、端からかぶりついた。


ポリッ!!!


店中に響き渡るほど、小気味よい破砕音がした。


「んんっ……」


冷たい。

そして、圧倒的な歯ごたえ。

噛むたびに、ポリッ、ポリッ、シャクッ。

小気味よいリズムと共に、きゅうりの細胞が壊れ、中から昆布の旨味を含んだ水分が飛び出してくる。


(ああ……。余計な味がしない)


塩気。出汁の旨味。きゅうりの青い香り。

それだけだ。

砂糖も、油も、着色料も入っていない。


「……僕は、何をしていたんだろうな」


ユリウスの目から、一雫の涙がこぼれ落ちた。


「聖女の……リリィの作る、甘くて派手な菓子が良いと思っていた。兄上の好む、脂っこい肉料理は下品だと思っていた。……だが、一番大切なのは、こういうことだったのか」


飾らないこと。

素材の良さを信じること。

そして、食べる人の体を思いやること。


マリーの料理は、いつもそうだった。

地味な茶色い煮物も、質素な塩むすびも、この冷やしトマトも。

すべては「美味しく食べてほしい」という、マリーの純粋な心そのものだったのだ。


「僕の人生は……味付け過多オーバー・シーズニングだったよ」


ユリウスは自嘲気味に笑い、涙を流しながらきゅうりを齧った。

ポリッ、ポリッという音が、彼の過去の過ちを一つずつ砕いていくようだ。


涙がトマトにかかる。塩気が増して、それはより一層、人生の味がした。


「……マリアンヌ。いや、マリー店主」


完食したユリウスは、空になった皿の前で深く頭を下げた。


「すまなかった。……君を追放したことも。君の料理を冒涜したことも。全て、僕の無知と傲慢さが招いたことだ」


王族が、平民に頭を下げる。

あり得ない光景。

だが、今の彼はただの一人の人間として、心からの謝罪を口にしていた。


「顔を上げてください、ユリウス様」


マリーは静かに言った。


「私はもう、過去のことは気にしていません。……それに、貴方が素直に『美味しい』と言って食べてくれたこと。料理人として、それ以上の喜びはありませんから」


許すわけではない。

けれど、拒絶もしない。

それは、マリーが手に入れた「強さ」だった。


「……ありがとう」


ユリウスは顔を上げた。

憑き物が落ちたような、穏やかな顔つきになっていた。


「おい、坊主」


奥で飲んでいたガリウスが、のっそりと近づいてきた。

手には、飲みかけのジョッキ。


「いい食いっぷりだったな。……少しはマシな面構えになったじゃねぇか」


「兄上……。いえ、ガリウスさん」


ユリウスは兄を見上げた。

そこにはもう、嫉妬や劣等感の色はなかった。


「僕は、城には戻りません。父上から許しが出たとしても、自分自身の足で、この国を見て回ろうと思います。……民がどんなものを食べ、どんな風に笑っているのか。それを知るまでは、僕は王族を名乗る資格がない」


「ほう。……武者修行ならぬ、グルメ修行か?」


ガリウスはニヤリと笑い、弟の肩をバシッと叩いた。


「悪くねぇ。世の中には美味いもんが山ほどあるぞ。マリーの料理には敵わんがな」


「ええ。……いつかまた、胸を張ってこの店の暖簾をくぐれる男になったら、その時は」


ユリウスは立ち上がった。

そして、マリーに向かって真剣な眼差しを向けた。


「一番高い酒と、一番美味い肉料理を注文させてくれ。……金は、自分で稼いでくる」


「はい。楽しみに待っていますね」


マリーの笑顔に見送られ、ユリウスは店を出て行った。

入ってきた時の亡霊のような足取りではない。

地を踏みしめ、前を見据えた確かな足取りで、夜の街へと消えていった。


「やれやれ。手のかかる弟だ」


ガリウスが頭を掻きながら、空いた皿を片付ける。


「でも、良い顔をしていましたよ」


「ああ。……野菜の味がわかるようになりゃ、男としても一人前だ」


ガリウスは嬉しそうに目を細めた。


「さて、しんみりしちまったな。……マリー、俺にはもっとパンチの効いたやつを頼む。まだ飲み足りねぇ」


「ふふ、わかりました。じゃあ、今夜の締めは……」


かつての婚約者との因縁は、こうして静かに、しかし温かく幕を下ろした。

飾らない野菜料理が、迷える王子の目を覚まさせたのだ。

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