第16話 マリーの演説
聖女との料理対決から数日後。
『居酒屋マリー』の周辺は、異常な事態に陥っていた。
「おいおい、店に入れねぇぞ!」
「馬車が邪魔だ! どけ!」
かつては閑古鳥が鳴いていた裏路地が、煌びやかな紋章入りの馬車で埋め尽くされている。
『王室御用達』の看板と、聖女を打ち負かしたという噂を聞きつけた貴族たちが、こぞって押し寄せてきたのだ。
常連の冒険者たちは店の隅に追いやられ、肩身の狭い思いをしている。
「……困りましたね」
マリーは暖簾の隙間から外を覗き、ため息をついた。
商売繁盛は嬉しい。だが、これでは本来のお客さん――仕事帰りで疲れた人々――が癒やされる場所ではなくなってしまう。
その時、一際豪華な馬車から、恰幅の良い男が降り立った。
王国の宰相であり、貴族院の重鎮である侯爵だ。彼は護衛を引き連れ、ズカズカと店内に入ってきた。
「元公爵令嬢マリアンヌよ! 迎えに来たぞ!」
侯爵の声が店内に響く。
「国王陛下より『王室御用達』の認可を受けたそうだな。その腕前、見事である。……よって、貴族院は全会一致で貴女の『復籍』を認めることにした!」
店内がざわめく。
一度追放された令嬢が、実家に戻れるなど異例中の異例だ。
「さらに! 王宮料理長としての地位も用意しよう。さあ、直ちにこんな煤けた店は畳んで、我々と共に城へ戻るのだ。貴女の料理は、選ばれし高貴な者だけが口にすべき芸術品なのだからな!」
侯爵は勝ち誇ったように言った。
彼らにとって、これは「慈悲」であり、断るはずのない最高の提案だと思っているのだ。
カウンターの隅で飲んでいたガリウスが、ピクリと眉を動かした。
彼は無言でマリーの方を見る。
マリーの決断を、待っているのだ。
マリーはゆっくりと厨房から出てきた。
その手には、お玉が握られている。
「……宰相閣下。それに、お集まりの貴族の皆様」
マリーの澄んだ声が通る。
「過分なご提案、光栄に存じます。……ですが、お断りいたします」
「な、なんだと!?」
侯爵が目を剥いた。
「正気か!? 公爵令嬢に戻れるのだぞ? 泥にまみれた冒険者相手に商売をするのと、王宮で絹のドレスを着て料理をするのとは、雲泥の差ではないか!」
「ええ、雲泥の差ですね」
マリーはニッコリと微笑んだ。
そして、くるりと振り返り、店の入り口を指差した。
「皆様、外へ出ていただけますか? ちょうど今から、『まかない』の時間なんです。……せっかくですから、皆様にも振る舞わせていただきます」
◇
店の前の広場(というか、ただの路地裏の空き地)に、巨大な寸胴鍋が運び出された。
マリーが魔法で作り出した竈の上で、鍋からは猛烈な湯気が立ち上っている。
「なんだ、あの鍋は?」
「野戦料理か? 下品な……」
貴族たちが鼻をつまむ中、冒険者や近所の住民たちは「おおっ!」「いい匂いだ!」と目を輝かせて集まってきた。
マリーは踏み台の上に立ち、集まった人々を見渡した。
冷たい風が吹く中、彼女の白い割烹着がはためく。
「私が作りたいのは、飾られた芸術品ではありません。……凍えた体を温め、明日への活力を生む、日常の食事です」
マリーは鍋の蓋を取った。
フワァアアアアッ……!!
白い蒸気と共に、芳醇な香りが爆発的に広がった。
焦がした味噌の香り。
炒めたゴボウの土の香り。
そして、脂の乗った豚肉の甘い香り。
「本日は、私の故郷の味……『とん汁』です!」
マリーはお玉で鍋の中身をすくい上げた。
具材は盛りだくさんだ。
脂身が美味しい『ダンジョン豚』のバラ肉。
乱切りにした『大根』と『人参』。
ささがきにした『アース・ゴボウ(土の根)』。
手でちぎった『スライム・ゼリー(コンニャク)』。
そして、ホクホクの『里芋』。
それらを、ごま油でしっかりと炒めてから出汁で煮込み、最後に二種類の味噌――コクの赤と、甘みの白――を溶き入れたものだ。
「さあ、お椀を持って! 誰でも食べていいですよ!」
マリーがよそった熱々のとん汁が、次々と手渡されていく。
冒険者たちは「あちちっ!」と言いながら、嬉しそうに汁をすする。
「うめぇえええ! 身体の芯まで染みるぞ!」
「このゴボウの香りがたまらねぇ! 肉の脂が溶け出した味噌スープが最高だ!」
その様子を見ていた貴族たちも、寒さと香りの誘惑に勝てず、従者に命じて椀を受け取らせた。
侯爵も、嫌々ながら口をつける。
「ふん、ただの煮込み汁ではないか。こんなものが……ズズッ……む!?」
侯爵の目が丸くなった。
まず、強烈な「熱」が喉を通る。
表面に浮いた豚の脂が蓋の役割をして、スープを熱々のまま保っているのだ。
その熱さと共に、野菜の甘みと肉の旨味が溶け込んだ味噌味が、冷え切った身体を一瞬で解凍する。
「……なんだ、この安心感は」
具を食べる。
里芋はねっとりとろけ、大根はジュワッと汁を吸っている。
ゴボウの野性味あふれる風味が、全体の味を引き締めている。
「これが……下民の味だというのか? 王宮のコンソメスープよりも、ずっと……力が湧いてくる」
侯爵の手が止まらない。
気づけば、他の貴族たちも夢中で汁をすすっていた。
ドレスや礼服を着た貴族と、薄汚れた鎧を着た冒険者が、同じ鍋を囲み、同じ料理で白い息を吐いている。
マリーはその光景を見て、静かに語りかけた。
「私は、公爵令嬢として、誰もいない広いテーブルで冷めた食事をしていました。それはとても寂しい時間でした」
彼女の視線は、ガリウスに向けられた。
彼は柱にもたれ、満足そうに頷いている。
「でも、今は違います。……私は、このカウンターから見える景色が好きなんです」
マリーの声に、力がこもる。
「『美味い!』と笑ってくれる顔。仕事の愚痴を言い合う声。熱々の料理をフーフーと冷ます音。……身分も種族も関係なく、みんなが同じ釜の飯を食べて、肩を並べて笑い合う。ここには、私が求めていた『本当の食卓』があります」
マリーは侯爵に向き直り、深々と頭を下げた。
「ですから、私は戻りません。私は『公爵令嬢マリアンヌ』ではなく、『居酒屋マリーの女将』として、ここで生きていきます」
一瞬の静寂。
その後、ワァァァァァッ!! と割れんばかりの歓声が上がった。
「よく言った女将ー!!」
「俺たちは一生ついていくぞー!」
「とん汁おかわりー!!」
冒険者たちが帽子を投げて喜ぶ。
侯爵は、空になったお椀を見つめ、苦笑交じりに首を振った。
「……完敗だ。この温かさには、どんな爵位も敵わんよ」
侯爵は部下たちに撤収を命じた。
「ただし」と彼は付け加えた。
「またプライベートで来させてもらう。……この汁は、城での激務に効きそうだ」
「はい! いつでもお待ちしております!」
マリーの笑顔が弾けた。
騒ぎが収まり、貴族たちが帰っていく中、ガリウスが鍋の前にやってきた。
「見事な演説だったな、女将殿」
「ふふ、口下手な私にしては上出来でしたか?」
「ああ。……で、俺の分は残ってるんだろうな? 貴族共に食い尽くされたんじゃないか?」
「大丈夫ですよ。ガリウスさんの分は、一番具が多い底の方をとってありますから」
マリーは特大の丼に、山盛りのとん汁をよそった。
仕上げに、刻んだネギと七味唐辛子をたっぷりとかける。
さらに、炊きたての『おにぎり』を二つ添える。
「とん汁定食、お待ちどうさま」
「ありがてぇ……」
ガリウスは丼を受け取り、幸せそうに汁をすすった。
「……マリー。お前がここを選んでくれて、本当によかった」
「私もです。貴方や、みんながいる、この場所が大好きですから」
寒空の下、湯気を挟んで微笑み合う二人。
その距離は、以前よりもずっと近づいていた。




