第14話 王様、来店
「カツ丼の戦い」から数日が過ぎた。
王都の喧騒は落ち着きを取り戻しつつあったが、『居酒屋マリー』を取り巻く状況は、水面下でより大きなうねりとなっていた。
深夜、丑三つ時。
常連客たちも帰り、店内には心地よい静寂と、残り火の暖かさだけが漂っていた。
カウンターの隅では、ガリウスが一人、晩酌の残りを片付けている。
「……そろそろ来る頃か」
ガリウスが独り言のように呟き、入り口を見据えた。
「え? 誰がですか?」
マリーが洗い物をしながら尋ねると同時だった。
重厚な木の引き戸が、静かに、しかし威厳を持って開かれた。
現れたのは、深紅のマントを目深に被った初老の男だった。
護衛はいない。だが、その身から滲み出る気品と、長年国を背負ってきた者特有の重圧感。
マリーは、その顔を見た瞬間、心臓が跳ね上がった。
見間違えるはずがない。
かつて公爵令嬢だった頃、王城の舞踏会や公式行事で何度も謁見し、言葉を交わしたことさえある相手。
元婚約者であるユリウスの父であり、この国の頂点。
「……オズワルド、国王陛下」
マリーは濡れた手を拭うのも忘れ、慌ててカウンターから出て、その場に跪いた。
「元クロイツ公爵家、マリアンヌでございます。このようなむさ苦しい場所に、陛下自ら……」
「よい、面を上げよ。マリアンヌ嬢」
オズワルド国王はマントのフードを外し、深く刻まれた皺の中に、鋭いがどこか慈悲深い瞳を覗かせた。
「今は公務ではない。ただの腹を空かせた老人だ。……それに、そなたはもう『マリー』と名乗っているのだったな」
「は、はい……」
「久しいな、親父殿」
緊張するマリーの横で、ガリウスが座ったまま、ぶっきらぼうに声をかけた。
国王は息子であるガリウスを一瞥し、フンと鼻を鳴らしてその隣に腰を下ろした。
「王城を抜け出して何をしているかと思えば……こんな油臭い場所に潜伏していたとは。ガリウス、お前も物好きだな」
「油臭いとは失礼な。ここは国一番の『聖域』だぞ」
親子の間に、ピリピリとした空気が流れる。
国王はマリーに向き直ると、その顔をじっと見つめた。
「……マリアンヌよ。ユリウスが愚かな真似をして、すまなかったな」
「えっ……?」
王の口から出たのは、予想外の謝罪だった。
「あのバカ息子が『魔女の濁り水』などと騒ぎ立て、有能な婚約者を追放した件だ。止められなかった私の責任でもある。……許せとは言わぬが、達者そうで何よりだ」
国王の声には、為政者としての苦悩と、父親としての情けなさが滲んでいた。
マリーは首を横に振った。
「いいえ、陛下。私は今、とても幸せですから。……ここで料理を作ることが、私の天職だと気づけましたので」
マリーは凛と顔を上げて微笑んだ。
その笑顔を見て、国王は少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
「そうか。……ならば、その天職とやらの腕前、見せてもらおうか」
「はい。ご注文は?」
「疲れているのだ。王城の晩餐は、見た目は華やかだが、冷たくて味が薄い。……胃の腑に染み渡るような、温かくて、滋味深いものが食いたい」
マリーは、王の顔色を見た。
目の下の隈、乾燥した唇。
冷たい城で、冷たい重圧に耐え続けている身体が求めているのは、派手な料理ではない。
「かしこまりました。では、とっておきの冬の味覚をご用意します」
マリーが取り出したのは、北の海で獲れた巨大な『氷海ブリ』の頭とカマの部分だ。
極寒の海を生き抜くために蓄えられた脂は、包丁を入れるだけで白く滲み出るほど濃厚だ。
そして、合わせるのは『白聖大根』。
聖なる山脈の麓で育つこの大根は、真っ白で瑞々しく、煮込むことで出汁を無限に吸い込むスポンジとなる。
「まずは、お待ちの間にこちらを」
マリーは、魚のヒレを炙り始めた。
炭火の上で、飴色になるまでじっくりと焼く。香ばしい焦げた匂いが立ち上る。
それを、熱々の日本酒が入った湯呑みの中へ、ジュッ! と音を立てて放り込む。
すぐに蓋をして、蒸らすこと一分。
「『ブリのひれ酒』です。蓋を開けて、香りを楽しんでからお飲みください」
国王の前に湯呑みが置かれる。
怪訝そうな顔で、国王は蓋をずらした。
フワァ……ッ。
立ち上った湯気には、芳醇な日本酒の香りと、炙られた魚の香ばしさ、そして海の香りが混ざり合っていた。
「ほう……。酒に魚の焼いたものを入れるとは。……昔、戦場で兵士たちがやっていたのを思い出すな」
一口、すする。
「……ッ」
国王の目が大きく見開かれた。
熱い酒が喉を焼くのではない。魚の旨味が溶け出した酒は、驚くほどまろやかで、深いコクがある。
香ばしさが鼻を抜け、体温が一気に上昇する。
「美味い。……ただの酒ではない。これは『飲む出汁』だ」
「継ぎ酒もできますから、ゆっくり温まってくださいね」
マリーはメインディッシュに取り掛かる。
ブリのアラは、熱湯をかけて霜降りにし、血合いや臭みを丁寧に取り除く。
鍋に酒、砂糖、醤油、生姜の薄切りを入れ、煮立たせる。
そこへ、下茹でして透き通った大根と、ブリを投入する。
コトコト、コトコト……。
落とし蓋の下で、煮汁が対流する音が店内に響く。
甘辛い醤油の香り。生姜の爽やかな香り。ブリの脂が溶け出す甘い香り。
それらが渾然一体となって、疲れた王の嗅覚を優しく撫でる。
「……マリアンヌ嬢。そなたは昔から、茶会でも私の好みを察してくれていたな」
「はい。陛下は甘いお菓子よりも、塩気のあるものをお好みでしたから」
「ふっ、よく覚えている。ユリウスには過ぎた娘だったと、今更ながら痛感するよ」
国王は自嘲気味に笑い、ひれ酒を煽った。
「お待たせいたしました。『ブリ大根』です」
土鍋ごと提供されたその料理は、見るからに「味が染みている」色をしていた。
真っ白だった大根は、美しい飴色に染まり、角が取れて丸くなっている。
ブリの身は煮崩れる寸前で、脂が煮汁に溶け出してキラキラと輝いている。
天盛りされた針生姜と、ゆずの皮が彩りを添える。
「……美しい。宝石のように飾られた料理よりも、今の私にはこの茶色が、何よりも美しく見える」
国王は箸を伸ばした。
まずは大根から。
箸を入れると、抵抗なくスッと通り、ホロリと割れる。
口に運ぶ。
「……!!」
熱々の大根を噛んだ瞬間、ジュワァァァッ! と煮汁が溢れ出した。
大根自身の甘みと、吸い込んだブリの濃厚な脂、そして甘辛いタレの味が、口の中で洪水のように広がる。
「なんだ、これは……。大根が、魚以上に魚の旨味を主張している」
柔らかい。溶けるようだ。
なのに、大根の繊維の心地よい食感は残っている。
次は、ブリの身だ。
骨の周りの、一番脂が乗った部分をせせる。
トロトロになったゼラチン質の皮と、ホクホクの身。
「んんっ……!」
口の中で、脂が甘く溶ける。
生姜の風味がその後を追いかけ、濃厚なのに後味はさっぱりと消えていく。
「美味い。……本当に、美味い」
国王の目尻に、光るものが浮かんだ。
それはただの空腹を満たす食事ではない。
「自分を気遣って作られた」という温もりが、孤独な王の心を溶かしていく。
ひれ酒を煽る。
魚の脂で満たされた口を、熱い酒が洗い流し、旨味の余韻だけを残す。
そしてまた、大根が欲しくなる。
無言の時間。
ただ、ハフハフと熱いものを頬張り、ズルズルと酒をすする音だけが響く。
ガリウスも口を挟まない。
ここには王も、王子も、追放令嬢もいない。
ただの「美味しいものを囲む家族」のような時間が流れていた。
やがて、土鍋は綺麗に空になった。
国王は満足げに息を吐き、赤ら顔でマリーを見た。
「……礼を言う、マリー殿。生き返るようであった」
彼はそう呼んだ。公爵令嬢としてではなく、一人の料理人として。
「光栄です、陛下」
「それでだ。……近頃、聖女リリィとかいう娘が、都市計画だなんだと騒いでいるそうだな?」
「は、はい……。立ち退きを迫られておりまして……」
「くだらん。私の目の黒いうちは、そんな暴挙は許さん」
国王は懐から、一枚の書状を取り出した。
そこには王家の紋章が入っている。
「これは『王室御用達』の認定書だ。……本来は審査が必要だが、このブリ大根に免じて、私が直接許可を与える」
「ええっ!? よ、よろしいのですか?」
「構わん。これがあれば、この店は王家の保護下となる。役人も、聖女も、手出しはできん。……それに、ユリウスに捨てられたそなたを守ることは、せめてもの償いだ」
国王はニヤリと悪戯っぽく笑った。
「その代わり、だ。たまにこうして、忍んで来ることを許せ。……城の飯は、どうにも肩が凝ってな」
「も、もちろんです! いつでも美味しいお酒と肴を用意してお待ちしております!」
マリーは認定書を震える手で受け取り、深々と頭を下げた。
「やれやれ。これで俺の隠れ家が、親父の隠れ家にもなっちまったか」
ガリウスが頭を掻く。
国王は立ち上がり、マントを翻した。
「ガリウスよ。……マリー殿を守れ。それが、次期国王となるよりも、お前にとって重要な使命のようだからな」
「……言われなくても。俺の『実家』はここですから」
「ふっ……違いない」
国王は満足げに笑い、夜の闇へと消えていった。
かつては儀礼的な会話しかしなかった国王とマリー。
しかし今夜、一杯の酒と煮物が、二人の間に確かな信頼関係を結んだのだった。




