第12話 正体
店内を支配していた喧騒が、嘘のように引いていく。
Sランク冒険者ガリウスが放つ覇気は、物理的な質量を伴って、その場にいる全員の動きを封じていた。
特に、第二王子ユリウスの狼狽ぶりは顕著だった。彼はガタガタと震え、信じられないものを見る目で、目の前の薄汚い大男を見上げていた。
「あ、兄上……? まさか、そんな……」
「久しぶりだな、ユリウス。少し見ない間に、随分と偉くなったものだ。王族の名を笠に着て、民の食事を邪魔するとはな」
ガリウスは低い声で言いながら、ゆっくりと一歩踏み出した。
衛兵たちが悲鳴に近い声を上げ、後ずさる。
彼らも気づいたのだ。この男から漂う、圧倒的な『王者の風格』に。
王都最強と謳われながら、王位継承権第一位の座を捨てて姿を消した、『英雄王子』ガリウス・フォン・グランツその人であると。
「な、なぜここに!? 兄上は国を出て、行方知れずに……!」
「美味い飯があるからだ」
ガリウスは即答した。あまりにも短絡的な、しかし彼にとっては真実の答えに、ユリウスは口をあんぐりと開けた。
「そ、そんな理由で……! それに、騙されています! この店の女は魔女です! 僕に汚物を食わせ、黒魔術で洗脳しようとしたのです!」
ユリウスは必死に訴えた。
兄への恐怖と、自分の正当性を主張したい焦りが入り混じっている。
「黒魔術、か」
ガリウスは鼻で笑うと、カウンターの中にいるマリーに向かって、指を一本立てた。
「マリー。証明してやれ」
「え?」
「お前の料理が、魔術なんかじゃないことをだ。……一番単純で、嘘のつけない料理を頼む」
マリーは一瞬戸惑ったが、すぐにその意図を理解した。
小細工なしの、直球勝負。
素材と腕だけで勝負する、究極の一品。
彼女は炊きたてのおひつから、熱々の白飯をボウルに取り出した。
具材はいらない。
使うのは、塩だけ。
マリーは手を水で濡らし、手のひらに粗塩をまぶした。
そこへ、湯気を立てる熱いご飯を乗せる。
「熱っ……!」
指先が赤くなるほどの熱さ。だが、マリーは怯まない。
空気を含ませるように、優しく、しかし素早く握る。
ギュッ、ギュッ、クルッ。
三回ほど回転させれば、美しい三角形が出来上がる。
「お待たせしました。『塩むすび』です」
コトッ。
カウンターに置かれたのは、具も海苔もない、真っ白なおにぎりが二つ。
米粒が光を反射して、真珠のように輝いている。
「食ってみろ、ユリウス」
ガリウスは一つを手に取り、もう一つを弟に促した。
「こ、こんなただの米の塊が……」
ユリウスは渋々、おにぎりを手に取った。
温かい。
人の体温よりも少し熱い、作り手の温もりが直接伝わってくる。
ガブリ。
ガリウスが豪快にかぶりついたのを見て、ユリウスも恐る恐る口に運んだ。
「……ッ」
咀嚼した瞬間、ユリウスの口の中に広がったのは、衝撃的なほどの「米の甘み」だった。
塩辛いのではない。
表面についた塩の角のある味が、噛むことで溢れ出す米のデンプンの甘みを、極限まで引き立てているのだ。
(なんだ、これは……)
ただの米と塩だ。
魔術の入り込む余地などない。
それなのに、どうしてこんなに美味い?
ふんわりと握られた米粒は、口の中でハラリとほどける。
絶妙な力加減。
強すぎれば餅のように固くなり、弱すぎれば崩れてしまう。
その境界線を見極めた、職人の技。
「……わかるか、ユリウス」
ガリウスはおにぎりを飲み込み、静かに言った。
「これは『保存魔法』でも『洗脳魔法』でも作れない。熱い米を我慢して握った、料理人の『手』が生み出した味だ」
「手……?」
「そうだ。誰かに美味いものを食わせたいという、純粋な想いと技術。お前が黒魔術と呼んだものの正体は、それだ」
ユリウスは、半分になったおにぎりを見つめた。
白く輝く断面。
そこには、確かにマリーの真心が詰まっていた。
モツ煮込みの時のような中毒性はない。しかし、じんわりと心に染み入るような、優しく、絶対的な説得力があった。
「そして、その料理を作ったのは……お前が『無能』と断じて捨てた女、マリアンヌだ」
「っ……!」
ユリウスは弾かれたようにマリーを見た。
割烹着姿の彼女は、かつての派手なドレス姿よりも、ずっと凛として美しく見えた。
自分の知っていた、大人しく影の薄い婚約者とは別人のようだ。
「……僕は……間違っていたのか? この味も、彼女の価値も……」
ユリウスの手から、力が抜ける。
おにぎりが皿に落ちる音が、静寂に響いた。
敗北だ。
味覚でも、理屈でも、そして人間としての器でも。
偉大な兄に諭され、否定し続けてきた元婚約者の実力を、最もシンプルな料理で証明されてしまった。
「……帰れ、ユリウス」
ガリウスが冷徹に告げた。
「お前にはまだ、この店の暖簾をくぐる資格はない。城に戻って、冷めたスープでもすすりながら頭を冷やせ」
「あ、兄上……」
ユリウスは何かを言いかけたが、ガリウスの鋭い眼光に射抜かれ、言葉を飲み込んだ。
彼はフラフラと立ち上がり、衛兵たちに支えられるようにして店を出て行った。
その背中は、来た時よりも一回り小さく見えた。
「……ふぅ」
嵐が去った店内で、ガリウスは大きく息を吐き、残ったおにぎりを一口で頬張った。
「悪かったな、マリー。騒がしくして」
いつものぶっきらぼうな口調。
だが、マリーは今までのように気安く返すことができなかった。
彼女はカウンターの中で、深々と頭を下げた。
「……ありがとうございました。ガリウス殿下」
その言葉に、ガリウスがバツの悪そうな顔をする。
「よせ。店でその呼び方は禁止だ」
「ですが……第一王子殿下に対し、今まで散々失礼な態度を……。おまけに用心棒までさせてしまって……」
マリーの声が震える。
Sランク冒険者だとは知っていたが、まさか雲の上の存在である王族だとは。
身分の差という壁が、急に目の前に立ちはだかった気がした。
ガリウスは困ったように頭を掻き、そして真剣な眼差しでマリーを見つめた。
「マリー。俺は王族である前に、この店の常連客だ。そして、お前の料理のファン第一号だ」
彼はカウンター越しに身を乗り出し、マリーの手元にある空になったボウルを指差した。
「俺にとって大事なのは、王冠よりも、お前が握ったこの塩むすびだ。……だから、今まで通りにしてくれ。頼むから」
その目は、いつか雨の日に「何か食わせてくれ」と言った時と同じ、純粋で、少し寂しがり屋な男の目だった。
マリーは瞬きをして、それからゆっくりと口元を綻ばせた。
「……はい。わかりました、ガリウスさん」
「おう。それでいい」
ガリウスは安堵の笑みを浮かべ、空になったジョッキを掲げた。
「さて、弟も追い返したことだし、飲み直すか。……塩むすびには、日本酒が合うんだろう?」
「ふふ、よくご存知で。とっておきの辛口がありますよ」
二人の間にあった見えない壁は、温かいおにぎりと酒の香りで、あっさりと溶けていった。
だが、これで全てが終わったわけではない。
王子であるガリウスの正体が露見したこと。
そして、ユリウスが持ち帰った報告により、王宮全体が『居酒屋マリー』に注目し始めることになる。
「次は……もっと偉い人が来るかもしれませんね」
マリーが冗談めかして言うと、ガリウスは苦い顔で笑った。
「ああ。親父(国王)あたりが、涎を垂らして来るかもしれん」
路地裏の小さな居酒屋は、今や国一番の重要拠点となりつつあった。
しかし、どんな客が来ようとも、マリーのやることは変わらない。
最高に美味しい料理と、冷えた酒を用意して待つだけだ。
「さあ、夜はこれからですよ!」
マリーの明るい声が、店内に響き渡る。




