第10話 兄と弟、カウンターでの再会
その夜、『居酒屋マリー』はいつになく穏やかな空気に包まれていた。
Sランク冒険者たちの馬鹿騒ぎも一段落し、カウンターには仕事帰りの商人や、夜番明けの衛兵たちが静かに杯を傾けている。
店内に漂うのは、どこか懐かしく、そして心を芯から解きほぐすような甘辛い醤油の香りだ。
「……いらっしゃいませ」
引き戸が開き、一人の男が入ってきた瞬間、マリーの背筋がわずかに強張った。
深々とフードを被った灰色のマント姿。
顔はよく見えないが、その歩き方には隠しきれない優雅さと、周囲を威圧するような傲慢さが滲み出ている。
(この魔力の気配……間違いありません)
マリーは調理の手を止めず、冷静に客席を見渡した。
空いている席は、カウンターの奥。
ちょうど、いつもの定位置で晩酌をしているガリウスの隣だけだった。
「……ここしか空いていないのか。狭苦しい店だ」
男は吐き捨てるように呟くと、ガリウスの隣にドカッと腰を下ろした。
フードの隙間から、金色の髪と、神経質そうな青い瞳が覗く。
ユリウス・フォン・グランツ。
この国の第二王子であり、マリーを追放した元婚約者その人だ。
彼は隣に座る大男――ガリウスを一瞥した。
ボサボサの黒髪、無精髭、着古した革鎧。どう見ても、街のゴロツキか落ちぶれた冒険者だ。
ユリウスは露骨に顔をしかめ、少し椅子を引いて距離を取った。
(まさか、隣にいるのが自分の兄だとは気づいていませんね)
マリーは内心で苦笑した。
ガリウスは今、完全に気配を消して「ただの酔っ払い」になりきっている。王城でのきらびやかな『英雄王子』の姿しか知らないユリウスには、この野生味溢れる男が兄だとは想像もつかないだろう。
「ご注文はいかがなさいますか?」
マリーがおしぼりを出すと、ユリウスはそれを指先で摘み、汚いものを見るように端へ追いやった。
「……酒だ。それと、この店で一番『マシ』なものを出せ。どうせ、残飯のようなものしかないのだろうが」
挑発的な言葉。
だが、マリーは微笑みを崩さなかった。
彼女は知っている。空腹と偏見に凝り固まった人間を黙らせるには、言葉よりも雄弁な「味」が必要だと。
「かしこまりました。では、当店一番の『おふくろの味』をご用意いたします」
マリーは厨房の大鍋の蓋を開けた。
モワァァァ……ッ。
立ち上る湯気と共に、甘く濃厚な香りがカウンターを直撃する。
醤油と砂糖、そして肉と野菜の旨味が溶け合った、最強の家庭料理の香り。
「お待たせいたしました。『肉じゃが』です」
小鉢に盛られたのは、ゴロゴロとした野菜の煮込みだ。
主役は、ダンジョン深層で採れる『コバルト・ポテト』。加熱すると美しい黄色に変わり、ホクホクとした甘みが特徴の芋だ。
それを、豚肉の薄切り、玉ねぎ、人参と共に、出汁と甘辛いタレで煮含めてある。
「……なんだこれは。茶色い。泥でも煮込んだのか?」
ユリウスは鼻で笑った。
王城の料理は、見た目が全てだ。彩り鮮やかなソースや、繊細な盛り付けこそが正義であり、このような茶色一色の料理は「下民の餌」と教えられてきた。
「まずは一口、どうぞ。煮崩れする直前まで煮込んだお芋は、口の中で溶けますよ」
ユリウスは疑わしそうにスプーンを手に取った。
隣でガリウスが、同じ料理を黙々と食べているのが視界に入る。
(こんなむさ苦しい男と同じものを食べるなど……屈辱だ)
だが、香りの誘惑には勝てない。
彼はスプーンで芋をすくい、口に運んだ。
「……ッ」
瞬間、ユリウスの動きが止まった。
角が取れて丸くなった芋が、舌の上でほろりと崩れる。
中まで染み込んだ出汁の風味と、砂糖の優しい甘み。
そして、クタクタに煮込まれた玉ねぎの甘みが、豚肉の脂と絡み合って口いっぱいに広がる。
(な、なんだこの味は……?)
懐かしい。
どうしようもなく、懐かしい。
王城の冷たい晩餐会では決して味わえない、温もり。
厳しかった乳母が、幼い頃にこっそり作ってくれたスープのような、無条件の愛情を感じる味。
「……ふん、甘ったるい。子供騙しの味付けだ」
ユリウスは強がったが、スプーンを置くことができない。
次は人参を、次は肉を。
無意識のうちに、口が次を求めてしまう。
「それと、こちらもお酒によく合います。本日のおすすめ、『北海縞魚の開き』です」
マリーが次に出したのは、焼き立ての干物だった。
北の冷たい海で脂を蓄えた巨大な魚を開き、一夜干しにして旨味を凝縮させたものだ。
ジュウウウウウウッ……!
皿の上でも、まだ魚の脂がパチパチと音を立てている。
焦げた皮の香ばしさと、磯の香り。
隣のガリウスが、慣れた手つきで箸を入れ、身をほぐした。
パリッという皮の音と共に、中からふっくらとした純白の身が現れる。湯気が立ち上るその身からは、透明な脂が滴り落ちていた。
ガリウスはそれを口に運び、熱燗をキュッと煽る。
「くぅぅ……」という至福の吐息。
それを見たユリウスの喉が、ゴクリと鳴った。
「……骨ばかりで食べにくそうな魚だ」
文句を言いながらも、ユリウスも箸を伸ばす。
身を剥がす。
驚くほど身離れが良い。骨からペロリと身が外れる快感。
口に入れる。
「っ!?」
塩気が効いている。
だが、しょっぱくはない。
干すことで熟成された魚の旨味が、塩味の角を取り、まろやかになっているのだ。
そして何より、脂の乗りが尋常ではない。
口の中でジュワッと溶ける脂は甘く、噛めば噛むほど味わい深い。
「これは……酒だ。酒を持ってこい!」
たまらず、ユリウスは目の前のジョッキを掴んだ。
マリーが出しておいた、冷えたエールだ。
脂っこくなった口内を、冷たい炭酸が洗い流す。
そしてまた、魚の塩気が欲しくなる。
(馬鹿な。こんな下品な料理が、なぜこんなに美味いのだ?)
ユリウスのプライドが悲鳴を上げていた。
マリーは「魔女」だ。汚らわしい女だ。
なのに、彼女が作る料理は、王城のシェフたちが作るどんな料理よりも、心に直接訴えかけてくる。
それが許せなかった。
自分の判断が間違いだったと、突きつけられているようで。
苛立ちを紛らわせるように、ユリウスは隣のガリウスに話しかけた。
「おい、そこの男。貴様もそう思うだろう?」
ガリウスは箸を止め、ゆっくりと顔を向けた。
虚ろな瞳(演技)で、弟を見つめる。
「……あん?」
「この料理だ。味付けが濃くて下品だ。こんなものを有難がって食っているのは、舌の腐った貧乏人だけだとな」
店内の空気が、ピリッと凍りついた。
マリーが息を呑む。
他の客たちも、聞き捨てならない言葉に色めき立つが、ガリウスが発する異様なプレッシャーに押されて声を上げられない。
ユリウスは、自分の失言に気づいていない。
アルコールが回り、普段の鬱憤が口をついて出る。
「だいたい、ここの店主は元貴族でね。男をたぶらかすのが得意な『毒婦』なんだよ。こんな料理には、依存性のある薬でも入っているに違いない」
「……薬、だと?」
ガリウスの声が、地を這うように低くなった。
「そうだ。兄上も……いや、ある高貴なお方も、この女の毒にやられて姿を消した。僕はそれを救ってやらねばならんのだ。こんな薄汚い店を潰してな」
ユリウスは正義に酔っていた。
自分の嫉妬心を、兄への忠義だとすり替えて。
ガリウスが、静かに箸を置いた。
カタン、という小さな音が、やけに大きく響いた。
彼はゆっくりと、持っていたジョッキをカウンターに置く。
その手は震えていた。
恐怖ではない。
煮えたぎるような、怒りによって。
「……なぁ、坊主」
ガリウスが口を開いた。
先ほどまでの酔っ払いの呂律ではない。
戦場で数千の魔物を屠ってきた、Sランク冒険者としての覇気が、言葉の端々に宿っていた。
「お前、今食った料理の味がしなかったのか?」
「は? 何を……」
「肉じゃがの芋の甘さも、干物の脂の旨さも。作った人間がどれだけ手間暇かけて、どれだけ食う人間のことを考えて作ったか。……その舌じゃ、分からなかったのかと聞いている」
ガリウスの鋭い眼光が、フードの奥にあるユリウスの瞳を射抜いた。
「っ……!」
ユリウスは蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
目の前の男から漂う気配。
ただの冒険者ではない。
この威圧感は、自分がコンプレックスを抱き続けてきた、あの「兄」と同じもの――いや、それ以上の何かだ。
「俺はな、不味い飯と、飯を不味くする奴が大嫌いなんだ」
ガリウスが立ち上がる。
その巨躯が、ユリウスの視界を覆い尽くす。
「食い終わったなら出て行け。……二度と、その減らず口でこの店の空気を汚すな」
「き、貴様っ、無礼だぞ! 僕を誰だと……!」
ユリウスが立ち上がり、正体を明かそうとしたその時。
「お客様」
マリーの澄んだ声が響いた。
彼女はカウンター越しに、とびきりの笑顔を浮かべていた。
だが、その目は笑っていない。
「当店は、美味しくご飯を食べていただくための場所です。お口に合わないようでしたら、代金は結構ですのでお引き取りください。……他のお客様の『美味しい時間』の邪魔になりますので」
それは、明確な拒絶だった。
追放された令嬢が、初めて王子に対して「NO」を突きつけた瞬間だった。
ユリウスは顔を真っ赤にし、わなわなと震えた。
料理の味に負け、見知らぬ冒険者に威圧され、かつての婚約者に見下された。
屈辱が、彼の理性を焼き切った。
「……いいだろう。そこまで言うなら、思い知らせてやる」
ユリウスはマントを翻し、懐から一枚の羊皮紙を取り出してカウンターに叩きつけた。
「これは『衛生局による強制調査命令書』だ! 明日、再検査を行う! そこで一つでも不備があれば、この店は即刻取り壊しだ!」
捨て台詞を残し、ユリウスは逃げるように店を飛び出していった。
バタンッ! と扉が閉まる音が、嵐の余韻のように響く。
「……やれやれ。手のかかる弟を持ったもんだ」
ガリウスが、深いため息と共にドカッと椅子に座り直した。
いつもの気だるげな雰囲気に戻っているが、その横顔には隠しきれない憂いがあった。
「ガリウスさん……」
「気にするな、マリー。あいつは味音痴だが、舌まで死んじゃいない。……完食してたからな」
見ると、ユリウスの席にあった皿は、綺麗に空になっていた。
肉じゃがの汁一滴、魚の皮一枚残っていない。
「ふふ、そうですね。口ではあんなことを言っていても、胃袋は正直だったみたいです」
マリーは空になった皿を愛おしそうに片付けた。
だが、問題は解決していない。
明日の強制調査。そして、その先にあるユリウスの執着。
「さて、どうしたもんかな。あの様子じゃ、普通の料理を出しても『不味い』と言い張って難癖をつけてくるぞ」
ガリウスが焼き魚の骨をつつきながら言う。
マリーは、決意を込めて厨房の奥を見つめた。
「ええ。ですから、次は逃げも隠れもできない、本能に訴えかける料理で勝負します」
「本能?」
「はい。貴族様が絶対に口にしない、けれど一度知ってしまえば二度と戻れない……『禁断の味』です」
マリーの脳裏には、明日仕込むべき食材が浮かんでいた。
それは、美しさを重んじる王都では捨てられてしまう「内臓」。
見た目は最悪、だが味は至高。
「兄上である貴方なら、きっと気に入ってくれるはずです」
「……ほう? 俺への挑戦状か?」
ガリウスはニヤリと笑い、残った酒を飲み干した。
嵐の予感は去っていない。
だが、美味しい匂いがある限り、この店は負けない。




