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【第2章完】追放された悪役令嬢の『居酒屋マリー』へようこそ  作者: 九葉
第1章

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第1話 『居酒屋マリー』開店!

王都の裏路地に、冷たい雨が降り注いでいた。


石畳を叩く雨音だけが響く深夜、大通りから一本入った薄暗い路地の奥に、ぽつりと温かな灯りがともる。

そこは、かつて倉庫として使われていた廃屋だ。埃まみれで誰も寄り付かなかったその場所は今、真新しい木の香りと、食欲をそそる芳醇な匂いに包まれていた。


入り口には、藍色に染め抜かれた暖簾。

そこには『お食事処 マリー』という文字が、慎ましやかに記されている。


「ふぅ……。これで開店準備、完了ですね」


店主のマリーは、清潔な白い割烹着の紐をキュッと締め直した。

亜麻色の髪を三角巾でまとめ、少し汗ばんだ額を手の甲でぬぐう。その瞳は、宝石のような輝きではなく、これからの仕事への期待で満ちていた。


彼女の本名は、マリアンヌ・フォン・クロイツ。

数日前までは、公爵家の令嬢だった。


けれど今は、ただのマリーだ。


「まさか、『魔女の濁り水』を煮込んでいるなんて言いがかりをつけられるとは思いませんでしたけど」


マリーは苦笑しながら、カウンターに置かれた小鉢を愛おしそうに眺めた。

彼女が煮込んでいたのは、呪いの薬ではない。

かつお節と昆布から丁寧に引いた『出汁』であり、大豆と小麦を発酵させて作った『醤油』の試作品だった。


前世、日本の居酒屋で女将をしていた記憶を持つ彼女にとって、それらは命よりも大切なものだ。

しかし、味音痴で華やかな見た目ばかりを気にする元婚約者の第二王子ユリウスは、茶色く濁った液体を見て「おぞましい」と叫んだ。


『そのような汚らわしいものを好む女は、王族の妻にふさわしくない! 追放だ!』


そうしてマリーは、着の身着のままで王都の貧民街に近いこの場所へ放り出されたのだ。

だが、マリーにとってそれは絶望ではなく、解放だった。


「虚飾にまみれた晩餐会より、心のこもった晩酌。……さあ、私の本当の人生はここからです」


マリーは店内の空気を入れ替えるように、小さく息を吸い込んだ。

彼女には、追放されても生きていけるだけの武器がある。


それは、公爵令嬢としては「地味で役に立たない」と馬鹿にされていた『生活魔法』だ。


洗浄クリーン】でお店は一瞬にしてピカピカに。

着火イグニッション】でかまどの火加減は自由自在。

そして何より最強なのが、【保存キープ】の魔法だった。


「さて、最初のお客さまは来てくれるでしょうか」


雨脚は強まるばかりだ。

こんな夜更けに、好き好んで裏路地の怪しい店に来る物好きはいないかもしれない。

それでもマリーは、厨房の中で静かに待ち続けた。


誰かが、温かい場所を求めてやってくるのを。


   ◇


「……チッ、最悪だ」


ガリウスは、ずぶ濡れになった髪を乱暴にかき上げた。

長身の背中には、身長ほどもある巨大な大剣を背負っている。

ボサボサの黒髪、鋭い三白眼、頬には古傷。どう見てもカタギではないその風貌は、夜道ですれ違うゴロツキさえも裸足で逃げ出すほどの威圧感を放っていた。


Sランク冒険者、『剣鬼』ガリウス。

それが今の彼の通り名だ。


ダンジョンからの帰還直後、宿に戻る気力さえ失せていた。

王都の宿屋はどこも騒がしい。高い金を払っても、出てくるのは硬いパンと、泥水のようにぬるいエールだけ。

それに加えて、貴族や商人が「Sランク冒険者」という肩書きを目当てに群がってくる。


(静かに休みたい。……ただ、それだけなんだがな)


雨宿りできる場所を探して裏路地に入り込んだとき、不意に鼻をくすぐる匂いがした。

腐敗臭漂う貧民街には似つかわしくない、香ばしく、どこか懐かしさを感じる香り。


顔を上げると、薄汚れた路地の奥に、場違いなほど小奇麗な店構えがあった。

藍色の布が下がっている。


「……店、か?」


灯りに誘われる蛾のように、ガリウスはその扉に手をかけた。

どうせボッタクリ酒場か、毒のような酒を出す違法酒場だろう。

だが、この冷たい雨から逃れられるなら、多少の不味さは我慢してやる。


ガラガラッ、と引き戸を開ける。


「いらっしゃいませ!」


予想に反して、鈴を転がしたような明るい声が響いた。

店内に満ちていたのは、紫煙の煙たさでも、吐瀉物の臭いでもない。

清潔な木の香りと、温かい湯気の匂いだった。


カウンターの中には、場違いなほど清楚な女が一人。

白い布を身につけ、にこやかにこちらを見ている。


ガリウスは警戒心を剥き出しにしたまま、無言でドカドカと店に入った。

全身から滴る雨水が、綺麗な床を濡らす。


「おい、床が汚れるぞ」


ぶっきらぼうに言い捨てると、女店主――マリーは嫌な顔一つせず、ふわりと手を振った。


「お気になさらないでください。外は酷い雨でしたでしょう? まずはその濡れた外套コートをお預かりします」


彼女が指先を光らせると、ガリウスの服や床に落ちた水滴が、瞬く間に消え去った。

【洗浄】の魔法だ。

それも、これほど精密な制御は見たことがない。


(魔法使いか? いや、それにしては魔力の気配が穏やかすぎる)


ガリウスは黙ってカウンターの隅に腰を下ろした。

重い大剣を床に置くと、ズシリと重い音が響く。

普通の店員ならここで悲鳴を上げるか、媚びへつらってくるものだが、マリーは動じなかった。


「お食事になさいますか? それとも、一杯やられますか?」


「……酒だ。どうせ、ぬるいエールしか置いてないんだろうがな」


この世界の酒事情は劣悪だ。

冷蔵技術など王侯貴族の屋敷にしかない魔道具であり、平民や冒険者が飲む酒は常温が当たり前。夏場などは腐りかけのような酸っぱい酒を飲む羽目になる。


だが、マリーは悪戯っぽく微笑んだ。


「当店のエールは、少し自信がありますよ。……とりあえず、生でよろしいですか?」


「生? なんだそれは」


「ふふ、飲んでからのお楽しみです」


マリーはカウンターの下から、ガラスのジョッキを取り出した。

驚くべきことに、そのジョッキは白く曇っている。

まるで、冬の朝の窓ガラスのように。


彼女は樽のコックをひねり、黄金色の液体を注ぎ込む。

トクトクトク……という軽快な音と共に、きめ細かい純白の泡が盛り上がっていく。


「お待たせいたしました。『とりあえず生』です」


ドン、と目の前に置かれたジョッキからは、冷気すら漂っていた。

ジョッキの表面には水滴が走り、中の黄金色は見たこともないほど澄んでいる。


ガリウスは喉を鳴らした。

本能が、それを求めていた。


疑うことも忘れ、ジョッキの取っ手を掴む。

指先に伝わる冷たさに、背筋がゾクリとした。


「……いただきます」


口をつけ、一気に煽る。


その瞬間、ガリウスの目が見開かれた。


冷たい!

キンキンに冷えた液体が、乾ききった喉を奔流となって駆け抜けていく。

ただ冷たいだけではない。麦の苦味と香りが鮮烈に弾け、炭酸の刺激が食道を心地よく刺激する。


「っ……ぷはぁ!!」


思わず、豪快な息が漏れた。

なんだこれは。

王宮の晩餐会で飲んだ最高級ワインよりも、どんな聖水よりも、五臓六腑に染み渡る。


「なんだ、この黄金色の水は……! 喉が焼けるように冷たくて、それでいて衝撃的に美味い!」


「ふふ、エールを【保存魔法】で冷却保存しておいたんです。温度管理は美味しさの命ですから」


マリーは嬉しそうに目を細めると、手早く小鉢を用意し始めた。


「空きっ腹にお酒は体に毒です。まずは、こちらをどうぞ」


差し出されたのは、白く滑らかな山のような料理だった。

頂上には半熟の卵が乗せられ、荒く砕いた黒い粒が散らされている。


「これは……?」


「ポテトサラダです。ダンジョンで採れる『大地のポム』を蒸して潰し、特製の卵酢ソースで和えました」


ガリウスはスプーンを手に取った。

見た目はただの芋の泥状のものだが、漂ってくる香りが尋常ではない。

燻製肉のような香ばしい匂いと、鼻を抜けるスパイスの香り。


スプーンを差し込み、頂上の卵を割る。

とろり、と濃厚なオレンジ色の黄身が溢れ出し、白い芋肌を黄金色に染めていく。

その視覚的暴力に、ガリウスの喉が再び鳴った。


一口、口に運ぶ。


「――っ!?」


衝撃が走った。

芋は丁寧に裏ごしされており、舌の上で雪のように溶ける。

だが、ただ柔らかいだけではない。

中には薄くスライスされた『胡瓜キューリ』のシャキシャキとした食感と、カリカリに炒められた『岩猪のベーコン』の塩気が潜んでいた。


そして何より、全体をまとめる白いソースの酸味とコク。

そこに黄身のまろやかさが加わり、口の中で絶妙なハーモニーを奏でる。


「美味い……。なんだこれは、俺の知っている芋料理じゃない」


「アクセントに、南方の島で採れる『黒いスパイス』を挽いてかけてあります。ピリッとした刺激が、お酒に合うでしょう?」


言われるがまま、再びビールを煽る。

ポテトサラダの濃厚な油分と旨味で満たされた口内を、冷たいビールが洗い流していく。

その爽快感たるや。


(永遠に繰り返せる……!)


ガリウスのスプーンが止まらない。

無言で食べ進める彼の目から、険しい殺気が消え、代わりに少年のように純粋な喜びが浮かんでいるのを、マリーは見逃さなかった。


「おかわり、ありますよ」


マリーの声に、ガリウスはハッと顔を上げた。

ジョッキはいつの間にか空になっていた。


「……頼む。それと、もっと食い物を。あんたが作るもんなら、何でもいい」


それは、疑い深いSランク冒険者にあるまじき、全幅の信頼の言葉だった。


「はい、喜んで」


マリーは包丁を握る手に力を込めた。

今夜のおすすめは、これから揚げる『鶏の唐揚げ』だ。

ニンニクと生姜を効かせた特製醤油ダレに一晩漬け込んだ、とっておきのビッグバードのモモ肉。


外では雨が降り続いている。

けれど、この小さな店の中だけは、温かな湯気と、幸せな咀嚼音に満ちていた。

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