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苦手な方はご注意ください。

短編・ニーチジャンル

終着駅のスープ屋と、最後のリクエスト

作者: 河合ゆうじ

夜と朝の境界線が溶け合う、そんな曖昧な色の空の下に、その駅はあった。


『終着駅』。


ある者はそこを世界の終わりと呼び、またある者は、次の世界へ向かうための乗り換え駅なのだと囁いた。ひっきりなしに古びた列車が到着しては、人を降ろし、しかし誰も乗せることなく、空っぽのまま発車していく。ホームに降り立った人々は、皆、どこか遠い目をしていて、自分の影だけを連れて、改札の向こうへと消えていくのが常だった。


その改札を出てすぐ、路地裏に忘れ去られたように、一軒の店がひっそりと佇んでいた。

看板はない。煤けたレンガの壁に、ランプがひとつ吊るされているだけ。ドアの上にちいさなベルがついていなければ、そこが店であることすら誰にも分からなかっただろう。


店の名は、ない。

けれど人々は、いつしかこう呼んでいた。『忘れ物スープの店』、と。


ドアを開けると、ちりん、と涼やかな音がした。

店内はカウンターだけの、こぢんまりとした空間。磨き込まれたカウンターの向こうで、ひとりの若い女性が、大きな寸胴鍋を静かにかき混ぜていた。


彼女が、この店の主、シズク。

色素の薄い髪を無造ゆさ作に束ね、感情というものをどこかに置き忘れてきたかのような、凪いだ瞳をしている。彼女が作るものはただ一つ、スープだけだった。


「……できたわ」


ぽつりと呟かれた声は、誰に聞かせるでもない。シズクは火を止めると、お玉で丁寧にアクをすくい、純白のカップに琥珀色の液体を注いだ。湯気と共に立ち上るのは、懐かしい陽だまりと、ほんの少しのインクの香り。


彼女はそれをカウンターの隅に置いた。

そこには、客はいない。代わりに、一冊の分厚い古書が、まるで猫のように丸くなって置かれていた。


すると、古書の革張りの表紙が微かに震え、ぱらり、とひとりでにページがめくれる。何も書かれていなかったはずの真っ白なページに、インクが染み出すように、すらすらと文字が浮かび上がった。


『今回の「安堵」は上出来だ。苦味がなく、優しい甘さだけが残っている。これなら、息子もようやく安心して旅立てるだろう』


「そう。よかった」


シズクは頷き、カップには目もくれず、カウンターを布巾で拭き始めた。

彼女には、味覚がなかった。スープがどんな味なのか、彼女自身は知らない。だから、この店の味の鑑定は、いつも相棒である古書精霊・ヨミの役目だった。


この店を訪れる客は、人生で何かを失い、前に進めなくなった者たちだ。彼らは「忘れ物」――故人が遺した品――をシズクに差し出す。シズクはそれを預かり、一晩かけてスープを作る。


彼女の力は、物に宿った持ち主の最後の「感情」を、スープとして抽出すること。


客はそれを飲むことで、故人が最期に抱いていた想いを追体験する。それは、時として残酷な真実を突きつけ、時として温かい愛情で心を溶かす、最後の対話だった。そして、飲み干したとき、人々は心の整理をつけ、悲しみを「昇華」させ、明日へ向かう列車に乗る資格を得るのだ。


やがて、店のドアがゆっくりと開いた。年老いた女性が、おずおずと入ってくる。彼女は、シズクが先ほど作り終えたスープの依頼主だった。


「あの……できましたでしょうか。息子が、最期まで握っていた万年筆の……」

「ええ。こちらへ」


シズクは女性をカウンター席に促し、目の前にそっとスープカップを置いた。女性は震える手でカップを取り、こくり、と一口飲む。

その瞬間、彼女の瞳から、大粒の涙がはらはらと零れ落ちた。


「ああ……あの子……私のこと、恨んでなんか、いなかったのね……。ただ、心配して……私の体のことだけを……」


スープに溶け出したのは、病床の息子が母を想う、ただひたすらに純粋な「安堵」の感情だった。誤解は解け、母親の心は何十年もの罪悪感から解放される。


「ありがとう……ありがとう……」


何度も頭を下げ、女性は店を出ていった。彼女の背中は、来た時よりもずっと軽く見えた。きっと、今度こそ、前へ進めるだろう。


シズクは空になったカップを黙って片付ける。嬉しいわけでも、悲しいわけでもない。いつもの仕事が終わった。ただ、それだけ。窓の外を見上げると、夜空には数えきれないほどの星が瞬いていた。


(わたしは、何を忘れたんだろう)


自分自身の過去の記憶は、曖昧な霧に包まれている。なぜこの店にいるのか。なぜ味を感じないのか。その答えは、どこにもない。


その時だった。

ちりん、と、本日二度目のベルが鳴った。

こんな時間に客が来るのは珍しい。シズクが顔を上げると、そこに立っていたのは、快活そうな笑顔が印象的な、若い男性だった。夜空の色を閉じ込めたような、真っ直ぐな瞳をしている。


「こんばんは。ここが、噂のスープ屋で合ってますか?」

「……忘れ物がおありでしたら」

シズクは短く答える。


男は少し安心したように息をつくと、カウンターに歩み寄り、大切そうに抱えていた筒から、一枚の大きな紙を取り出した。

広げられたそれは、無数の星々が緻密に描き込まれた、美しい星図だった。しかし、その一部は計算式の途中で筆が止まり、空白のままになっている。未完成の星図だ。


「カイ、と申します」男は名乗った。「これは、数ヶ月前に事故で亡くなった、僕の……親友の遺品です。彼女は天文学者で、いつも僕の一歩先を行く、すごい奴だった」


カイは星図の空白部分を、愛おしむような、それでいて悔しそうな指先でなぞった。


「彼女が、この星図を完成させる直前に、何を考えていたのか。何を発見して、何を想っていたのか。どうしても、それが知りたいんです」


その声は、震えていた。無理に作った笑顔の下に隠された、深い喪失の色が、シズクの凪いだ瞳にもはっきりと見えた。


『質の良い「後悔」の匂いがするな』

カウンターの隅で、ヨミのページに文字が浮かぶ。


シズクはカイの目をじっと見つめ返した。そして、静かに、しかしはっきりと告げる。


「分かりました。そのリクエスト、お受けします。ただし……そのスープを飲めば、あなたは二度と、彼女の後悔を思い出すことはできなくなりますが、よろしいですね?」


それが、この店のたった一つのルール。

決別する覚悟を持つ者だけが、忘れ物のスープを口にできるのだ。


カイは一瞬ためらった後、覚悟を決めたように、強く頷いた。


「ええ。構いません」


シズクは星図を静かに受け取った。紙に触れた指先から、星々の囁きと共に、誰かの切実な祈りのようなものが、微かに流れ込んでくるのを感じた。



カイに店の外にあるベンチで待つよう促し、シズクは一人、厨房に戻った。ちりん、とドアのベルが鳴り、店内は再び静寂に包まれる。彼女の世界には、自分と、目の前の仕事しか存在しなくなった。


彼女は店の真ん中にある、年季の入った大きな寸胴鍋の前に立つ。普段は様々な感情が混ざり合わないよう、小さな鍋を使い分けるのだが、今回は違った。星図に込められた想いは、あまりにも大きく、深く、そして複雑な気配がしたからだ。


シズクはカイから預かった星図を、そっと鍋の中へと滑らせた。上質な紙が、まるで夜空に吸い込まれるように、鍋の底へと沈んでいく。そこに、ひしゃくで井戸から汲んだばかりの、清らかな水を静かに注ぐ。


そして、コンロに火を点けた。ごう、と低い音がして、青い炎が鍋底を舐める。


最初は、何も起こらなかった。

ただ、水がゆっくりと温められていくだけ。シズクは木べらを手に、鍋の底を焦がさないよう、一定のリズムで静かにかき混ぜ続ける。それは彼女にとって、祈りにも似た作業だった。


やがて、水面に最初の変化が訪れた。

星図のインクがゆっくりと溶け出し、水が淡い藍色に染まり始めたのだ。そして、ぷつり、と最初の泡が弾けた。


その瞬間、シズクの脳裏に、鮮やかな光景が流れ込んできた。


満天の星空の下、巨大な望遠鏡を挟んで笑い合う、若い男女の姿。

「カイ、見て! あの星雲、まるで綿菓子みたい!」

「君は何でも食べ物に例えるな、アカリ」

楽しそうな声。宇宙の謎に挑む、純粋な探求心。夜を徹して議論を交わし、小さな発見に二人で飛び上がって喜ぶ日々。


鍋の中では、溶け出したインクが金色の粒子となり、まるで星屑のようにキラキラと輝き始めた。湯気と共に立ち上るのは、心が弾むような、甘酸っぱい果実の香り。


『ほう。これは極上の「喜悦」だな。一点の曇りもない。まるで初恋の味だ』

カウンターのヨミが、感心したようにページをざわめかせた。


シズクは無言で頷き、調理を続ける。しかし、鍋の中の輝きは長くは続かなかった。

温度が上がるにつれて、スープの色が徐々に濁り始める。きらめいていた金色の粒子は輝きを失い、まるで煤のように黒ずんでいく。甘酸っぱかった香りは消え、鉄錆のような、重苦しい匂いが立ち込めてきた。


再び、シズクの脳裏にアカリの感情が流れ込む。

今度は、書斎の隅で、一人うなだれる彼女の姿だった。机の上には、カイが書いた論文の草稿が置かれている。そこに並ぶ数式は、彼女には思いもつかないほど独創的で、美しかった。


(すごい……やっぱり、カイは天才だ)

(わたしは? わたしは、彼の隣にいる資格があるんだろうか……)


焦り。嫉妬。そして、置いていかれることへの、言いようのない恐怖。

カイの才能が眩しければ眩しいほど、自分の存在が矮小に思えてくる。その苦悩が、スープを鉛のように重く、苦いものへと変えていく。


シズクは眉をひそめ、木べらを握る手に力を込めた。このままでは、ただの「劣等感」という救いのない味になってしまう。彼女は棚から小さな瓶を取り出し、中に入っていた結晶――以前、別の客が遺した「希望」のかけら――をほんのひとつまみ、鍋に加えた。


すると、どろりとしていたスープが、少しだけ透明度を取り戻した。苦味の中に、微かな光が差し込む。


『お節介だな。だが、悪くない判断だ』とヨミが呟く。


シズクはほっと息をついた。だが、その安堵はすぐに打ち破られることになる。

鍋の水位が下がり、インクが完全に溶け出した星図の紙が、鍋の底に現れた。そこに、奇妙なものが浮かび上がっているのに、シズクは気づいた。


ただの染みではない。インクで書かれたわけでもない。まるで、紙そのものが変質したかのように、そこには数列が浮かび上がっていたのだ。事故の前に、アカリが特殊な薬品か何かで隠した、不可視のメッセージ。


そして、その数列の意味をシズクの脳が理解しようとした、その瞬間――。


鍋の中が、まるで深海のように、絶対的な沈黙に包まれた。

それまでぐつぐつと煮えていたスープの音が、ぴたりと止んだのだ。香りも消え、色も消え、ただただ底なしの「無」がそこにあるだけ。


ぞくり、とシズクの背筋を悪寒が走った。

彼女の脳裏に、最後の光景が叩きつけられる。


暗い観測室。たった一人、アカリが顔面蒼白でモニターを見つめている。そこに映し出されているのは、ある小惑星の軌道計算の結果。その軌道は、この世界のどんな物理法則にも当てはまらなかった。まるで、宇宙の法則そのものを嘲笑うかのように、「ありえない」歪み方をしている。


それは、事故だったのか。それとも、人知を超えた「何か」による、明確な意志なのか。

アカリは真実にたどり着いてしまった。この世界が、自分たちが信じていたほど、穏やかで、調和のとれた場所ではないという、根源的な事実に。


(見ては、いけなかった)

(これは、私たちが触れていい領域じゃ、なかったんだ――)


その感情は、もはや「恐怖」という言葉では生ぬるい。それは、神の設計図を覗き見てしまった人間が抱く、絶対的な「畏怖」そのものだった。


ドンッ!!


突然、寸胴鍋の蓋が、内側からの圧力で激しく跳ね上がった。鍋から溢れ出したスープは、床に落ちるとジュッと音を立てて蒸発し、そこには真っ黒な焦げ跡だけが残った。


『シズク、火を止めろ!』

ヨミが、今まで聞いたこともないような、切迫した声で叫んだ。

『これはまずい!ただの感情じゃない……これは「呪い」の味だ!こんなものを飲ませたら、あの青年は魂ごと消し飛ぶぞ!』


シズクは弾かれたようにコンロの火を消した。

静まり返った店内に、自分の心臓の音だけがやけに大きく響く。

鍋の中には、ただ真っ黒で、どろりとした液体が、不気味に揺らめいていた。


こんなスープは、今まで一度も作ったことがない。

ただの後悔や悲しみではない。世界そのものへの絶望が、そこには凝縮されていた。

本当に、これをカイに飲ませるのか?


シズクは、初めて自分の仕事に、迷いを感じていた。

店のドアの向こうで、何も知らずに夜明けを待つ青年の姿を思い浮かべながら。


カイを店の外に残し、シズクは真っ黒な液体が揺らめく鍋の前に立ち尽くしていた。

こんなことは初めてだった。いつもなら、どんなに悲しい感情でも、苦い感情でも、それは必ず「誰かの想い」という形を保っていた。だが、目の前にあるこれは違う。ただ、すべてを飲み込み、無に帰すだけの、底なしの絶望。


ヨミは沈黙している。そのページの文字は凍りついたように動かない。彼でさえ、この異常事態に言葉を失っているのだ。


(どうすれば……)


このままでは、カイにスープを出すことはできない。しかし、このまま帰すことも、彼女の流儀に反する。依頼を受けた以上、答えを渡さなければならない。


シズクは心を決め、店のドアへと向かった。

何か手がかりがあるはずだ。アカリという女性が、本当にこんな「呪い」だけを遺して逝ったとは思えなかった。あのスープから最初に感じた、星屑のような「喜悦」の味。あれは、嘘ではなかったはずだ。


ちりん、とベルを鳴らして外に出ると、ひやりとした夜風が頬を撫でた。

カイは、シズクが言いつけた通り、店の前の古いベンチに座って、空を見上げていた。終着駅の空は、都会のそれとは比べ物にならないほど澄み渡り、星々の光がまるで宝石のように降り注いでいる。


「……あ、」


シズクに気づいたカイは、少し気まずそうに視線を落とした。


「すみません、なんだか落ち着かなくて。アカリと、よくこうして星を見たんです。あいつ、いつも僕より先に、新しい星や面白い現象を見つけちまう。僕は、その後ろを追いかけるので、いつも必死で」


その声には、懐かしさと、微かな諦めが滲んでいた。


「彼女は、太陽みたいな人でした。僕みたいな日陰の人間まで、その光で無理やり照らしてしまうような。だから……僕が彼女にしてやれることなんて、本当は何もなかった」


カイは自嘲気味に笑うと、再び空を見上げた。


「だから、せめて、彼女が最後に遺したこの謎だけは、僕が解き明かさないと。彼女が見つけたものを、僕がこの手で証明してやらないと、あいつに顔向けができない。それが、僕が彼女の意志を……彼女の魂を守る、唯一の方法なんです」


――守る。


その言葉が、雷のようにシズクの心を貫いた。

脳裏で、バラバラだったパズルのピースが、凄まじい勢いで組み上がっていく。


劣等感。畏怖。そして、守るという言葉。

間違っていた。最初から、すべて。


アカリが最後に抱いた、あの底なしの感情。あれは、世界に向けられた「恐怖」なんかじゃない。たった一人、カイに向けられた、強すぎる「祈り」だったのだ。


(あなたなら、この真実にたどり着いてしまう)

(でも、あなたに、この絶望を背負わせたくない)

(どうか、気づかないで。この研究のことなんて忘れて、あなた自身の幸せな人生を生きて――)


その想いが、あまりにも強く、切実すぎたために、捻じれ、歪み、「呪い」と化してしまっていたのだ。

彼女はカイの未来を「守る」ために、自らの発見を「忘れてほしい」と願った。それこそが、彼女の最後のリクエストだったのだ。


「……っ!」


シズクはカイに背を向け、店の中へと駆け戻った。

寸胴鍋の底に沈んでいた、星図の紙片。そこに浮かび上がっていた、あの数列。あれは数式なんかじゃない。


シズクはカウンターの内側から羊皮紙を取り出し、記憶を頼りに数列を書き写していく。それは、座標と、日付、そして、いくつかの物理定数を組み合わせた、暗号。


彼女の指が、答えを導き出す。

その瞬間、シズクは息を呑んだ。


そこに示されていたのは、アカリが発見した「歪み」のある小惑星の、未来の軌道。

そして、その軌道の先にあるのは――数百年後の、地球。


衝突は、避けられない。

アカリは、人類の、緩やかな終わりを、たった一人で発見してしまったのだ。


シズクは、震える手で羊皮紙を握りしめ、再びカイの元へ戻った。

彼女のただならぬ様子に、カイもベンチから立ち上がる。


「シズクさん……? 何か、分かったんですか?」


シズクは、カイの目を真っ直ぐに見つめた。もう、彼女の瞳に迷いはなかった。


「カイさん。これから、残酷な真実をお話しします」

彼女は羊皮紙をカイに差し出した。

「アカリさんがあなたに遺したかったのは、研究の続きではありません。……これです」


カイは戸惑いながらも、羊皮紙に書かれた解読結果に目を通す。その顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのが分かった。


「嘘だ……なんだよ、これ……」

「彼女は、この絶望をたった一人で見つけました。そして、同時に思ったはずです。あなたなら、いずれ必ず、同じ答えにたどり着いてしまう、と」


シズクは静かに、しかし、一言一言に力を込めて告げた。


「彼女の最後のリクエストは、研究の継承ではありません。逆です。あなたに、この研究を『忘れてほしい』と願った。あなたを、この運命から守りたかった。それが、彼女の最後の想いです」


――忘れて、幸せになって。


その言葉を口にした瞬間。

シズクの頭の中で、何かが砕ける音がした。


忘れていた光景が、奔流となって意識を飲み込む。

崩れ落ちる遺跡の天井。降り注ぐ瓦礫から彼女をかばい、背中で受け止めた、誰かの広い背中。血の匂い。そして、耳元で囁かれた、最後の言葉。


『俺のことは忘れて、君は幸せになれ』


その強すぎる願いが、呪いとなって、シズ-クの記憶と味覚を封じ込めていたのだ。

アカリの祈りが、奇しくも同じ形をしていたがために、数百年固く閉ざされていた魂の錠が、今、開かれた。


じわり。

シズクの舌の上に、一つの味が広がった。

それは、しょっぱくて、温かい、涙の味だった。


彼女の瞳から、自分でも気づかないうちに、一筋の雫が頬を伝い落ちていた。

初めて感じる、自分の感情の味だった。


カイは、シズクから差し出された羊皮紙を握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。彼の顔には、信じられないという驚きと、すべてを理解してしまったことへの深い悲しみが、複雑に浮かんでいた。


「忘れて……ほしかった……?」


絞り出すような声が、夜明け前の静かな空気に溶けていく。

彼は、アカリの死後ずっと、自分を責め続けていた。なぜ彼女の発見の重大さに気づけなかったのか。なぜ彼女の苦悩を分かち合えなかったのか。彼女の遺した研究を完成させることが、唯一の贖罪であり、彼女への弔いだと信じて疑わなかった。


しかし、真実はその真逆だったのだ。

彼女は彼を、誰よりも未来を信じていた彼を、絶望から守ろうとしていた。自分の命よりも、人類の運命よりも、たった一人、カイの心の平穏を祈っていた。


「……そっか。あいつらしいや」


カイは、ふっと力なく笑った。その目から、堪えていた涙が静かに流れ落ちる。それは後悔の涙ではなかった。ようやく、彼女の本当の心に触れることができた、あまりにも遅すぎた理解の涙だった。


「俺……あいつの想いを、全然分かってやれてなかったんだな……」


彼は空を見上げる。東の空が、ほんのりと白み始めていた。夜の闇が終わりを告げ、新しい一日が始まろうとしている。


カイはシズクに向き直り、深く、深く頭を下げた。

「ありがとう、ございます。あなたのおかげで、俺は……ようやく、彼女に会えた気がします」


彼は顔を上げ、決意を秘めた、真っ直ぐな瞳でシズクを見た。

「スープは、もう結構です」

「……よろしいのですか?」

シズクが問うと、カイは穏やかに微笑んだ。


「ええ。俺は、彼女の想いを忘れたくない。彼女が俺を守ろうとしてくれた、その馬鹿みたいに温かい想いを、ちゃんと抱きしめて……この空の下で、生きていきたいんです。それが、俺にできる、本当の弔いだと思うから」


彼はそう言うと、もう一度、「ありがとう」とだけ呟き、背を向けた。

夜明けの光の中へと、一歩一歩、確かめるように歩いていく。その背中は、来た時よりも少しだけ小さく見えたが、不思議と、もう迷いは感じられなかった。


一人残されたシズクは、自分の頬を伝う涙のしょっぱさを、ただじっと味わっていた。

店に戻ると、カウンターの隅で、ヨミのページが静かにめくれた。

『……思い出したか』

「ええ。全部」


シズクはスカートのポケットから、古びた懐中時計を取り出した。銀製のそれは、針が途中で止まり、ガラスには蜘蛛の巣のようなヒビが入っている。かつて、彼女の時間を守るために、壊れてしまった、大切な相棒の遺品。


彼女は、あの真っ黒な絶望のスープが残った寸胴鍋を洗い場に運び、その中身をすべて流した。そして、鍋を丁寧に、丁寧に磨き上げる。


きれいになった鍋に、再び清らかな水を注ぎ、彼女は、自分のために、初めて火を点けた。

鍋の中に、そっと、壊れた懐中時計を沈める。


もう、過去の感情が奔流となって流れ込んでくることはなかった。ただ、穏やかで、温かい記憶だけが、スープの中にゆっくりと溶け出していく。

瓦礫の下で聞いた、最後の言葉。

『俺のことは忘れて、君は幸せになれ』


(……ごめんなさい。あなたの最初の願いは、もう聞けません)

シズクは心の中で、遠い日の相棒に語りかける。

(でも、二つ目の願いは、今日からなら、叶えられるかもしれない)


やがて、スープは完成した。

それは、夜明けの空そのものを溶かし込んだような、透明で、ほんのりと金色を帯びた、美しいスープだった。


シズクはそれをカップに注ぎ、ゆっくりと口に運んだ。


その瞬間、彼女の口の中に、信じられないほど豊かで、優しい味が広がった。

しょっぱくて、甘くて、少しだけ切なくて、そして、どこまでも温かい。

それは、悲しみと、愛情と、感謝と、希望、そのすべてが溶け合った、生命そのものの味がした。


彼女は、生まれて初めて、泣きながら微笑んだ。


朝日が、店の窓から柔らかく差し込み、シズクの涙の跡をきらきらと照らす。

すべてを飲み干した彼女に、ヨミが静かに問いかけた。

『さて、どうする? 店をたたんで、ここを去るか? 君を縛るものは、もう何もない』


シズクは空になったカップを置き、窓の外の新しい世界を見つめた。

そして、穏やかな、しかし、揺るぎない声で答える。


「いいえ。続けますわ」

彼女は、涙で濡れた顔のまま、晴れやかに笑った。


「でも、これからは『忘れる』ためのスープじゃない。

悲しみを抱きしめたまま、それでも『明日へ進む』ための、一杯を」


それは、終着駅の小さなスープ屋が、本当の意味で生まれ変わった、最初の朝だった。

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