前夜祭
エイトケン卿の邸宅の所在地はナタリーがすでに知っていたが、そこに近づく事は困難だった。ブルーは、大きなニレの木の陰から邸宅に続く門を睨む。門の前には銃で武装した衛兵が二名、睨みをきかせていた。正門のずっと奥には、くすんだ辛子色の豪奢な邸宅が見える。
「ある意味、僕らが出張る必要もないような気もしてくるな」
「リンドンに帰る?」
「まあ、僕らの保身を優先するならそれが最善だけど」
なんとなくアーネットの口調が移っていることに、ブルーは気付いていなかった。それを指摘するとブルーが怒るのを、ナタリーは解っていた。
「ブルー、ここへ来る途中、目つきの鋭いスーツの連中がいたの、わかった?」
「うん。保安局員でしょ」
「こっちの事はバレてないみたいだけど、厄介ね。行動を起こせば察知される」
レストランを出たあと、電話で魔法捜査課オフィスのジャック刑事に確認したところ、保安局はすでに一度、オフィスまで直接確認しに来た事がわかった。だがその際、ジャックから意外な事を伝えられた。オハラ警視監から、魔法捜査課は三日間の休暇を消化するように、との連絡があった、というのだ。
「オハラ警視監、僕らの動向を完全に把握してるよね。要するに、責任は取らないけど勝手に動いていいよ、っていう意味か」
「あの人は刑事時代から、けっこうな悪党だったらしいわ。食わせ者なのは間違いないけど、逆にその不気味さが頼りに思える事もある」
「だからって、保安局とかち合ったら面倒な事になるのは間違いないけどね」
「仕方ない。さっきのプランでいく」
ナタリーがブルーを指さすと、ブルーは露骨に面倒くさそうな表情を返した。
「児童の過労問題が取り上げられたのは八〇年近くも前だけど」
「あとでケーキおごってやるから」
「食べ物で釣るとか、どういう刑事だ」
ぶつくさ言いながら、ブルーはナタリーに向かって杖を振るった。
エイトケン卿の邸宅に続く正門に、黒いスーツのすらりとした亜麻色の髪の男性がやってきて、衛兵にひとつのライセンスを掲示した。
「保安局のジェームスだ。エイトケン卿は変わりないか?」
「はっ、異常ありません」
「いちおう確認しておくが、予定に変更などはないだろうな」
ジェームスが念を押すと、衛兵は直立して正面を向いたまま答えた。
「はっ、先ほどお伝えした内容と変わっておりません。本日は敷地内で過ごされる予定です。明日は午前一〇時より広場で開催される、収穫祭の挨拶に登壇される予定となっています」
「わかった。警備ご苦労」
「お勤めご苦労様です!」
衛兵に敬礼を返すと、ジェームスは来た道を戻っていった。
◇
「どうも、ああいう演技は苦手ね」
ブルーと街道を歩きながら、ナタリーはぼやいた。
「ジェームスなんて、ありきたり過ぎたかしら」
「あまり変な名前名乗っても、怪しまれるだけじゃない?」
要するにナタリーは、ブルーの魔法でジェームスという架空の保安局員に変身して、エイトケン卿を探ってきたのだ。変身魔法は特に疲れる種類の魔法で、午前中に自分を含めて五人もまとめて変身させたばかりなので、魔力の消耗が凄まじかった。
「もう、今日は僕、使い物にならないよ。まあ幸い、ここはレイラインが強めだから助かるけど」
「若いのにだらしないわね」
「疲れる疲れないの話は抜きにしても、変身魔法で人を騙すの、あまりやるなってこの間、上から言われたばっかりだよね」
オハラ警視監からの警告内容に、ナタリーは明後日の方向を向いた。
「あまりやるな、つまり、たまにやるのはOKってことでしょ」
「もうアーネットと変わらないじゃん」
魔法捜査課に規律は通用しない、と後年よその部署から言われる事を、まだ彼ら自身はさほど自覚できてはいなかった。
「とにかく、今日はエイトケン卿は、あの変な色の屋敷から出て来る心配はないんだろ」
「たぶんね。けど、明日の収穫祭には出る予定らしいわよ。登壇して挨拶するって」
ナタリーがそこまで言ったところで、ふたりは互いを指差して向かい合った。
「収穫祭!」
「それだよ!」
そんな事になぜ、もっと早い段階で気付かなかったのか、と二人は不明を恥じた。自己顕示欲の塊といわれるエイトケン卿が、自身の領地の収穫祭を、自身のアピールに利用しない筈がない。そして、エイトケン卿の命を狙おうとする者が、その機会を逃す筈もなかった。ブルーはため息をついて呆れる。
「どんだけプライドが高いんだよ」
「そうなると、アナベル・ディッキンソンは明日必ず現れるわ。わざわざ標的が、おあつらえ向きに挨拶のために登壇してくれるんだから」
「追悼式典の再現じゃないか!」
ブルーは戦慄した。あの探偵がアナベルに送っていた手紙の内容から、アナベルが動く事はまず間違いない。そうなると、危惧されるのはひとつの問題だった。
「アナベルはおそらく魔法の万年筆を所持している。そして、マクレナン大佐と同じ方法で、エイトケン卿を殺害しようと考えるかも知れない」
「つまり、魔法で銃弾を発射して?」
「そうだ。だから、収穫祭までにアナベルを見つけ出さないといけない」
すでに時刻は午後四時を過ぎている。もう、あっという間に暗くなる時刻だ。ふだんマイペースなブルーも、さすがに焦りを覚えはじめた。
「アーネットと合流しよう。まだ連絡がないっていうことは、アナベルも確保できていないはずだ」
◇
コーヒー屋台のある広場で合流したアーネットだったが、アナベル・ディッキンソンの姿はどこにも見えなかったという。
「どうやら、ここの収穫祭は思ってたより大規模で、よその土地からも見物客が大勢来ている。人がごった返している中で、一人の女性を捜し出すのは至難の業だ」
「ブルーの探知魔法で何とかならないの?」
ナタリーは、空になった紙コップのコーヒーをブルーに向けた。ブルーは試みに、やや長めの呪文を詠唱して、人混みに向けて振るってみる。だが、発動した魔法はすぐに霧散してしまった。ブルーは肩をすくめる。
「僕がアナベルの顔も知らないのが痛いね。せめて顔だけでもわかれば、大雑把にでも探知できたかも知れない」
「保安局もアナベルの顔、知らないのよね」
「当然さ。そもそも魔法犯罪の可能性から浮かび上がったんだもの」
「保安局員にも、アナベル確保の協力を要請する?」
それは現実的な考えではあったが、問題がふたつあった。ひとつは今ナタリー自身が言ったように、保安局はアナベルの容姿どころか、おそらく存在を知らないこと。そしてもうひとつは。
「それをやった瞬間、俺達は今度こそ保安局の監視下に置かれて、身動きが取れなくなる。どのみちこの事件は、俺達が何とかするしかないのさ」
「けど、なんか変じゃない?僕たちわりと大っぴらに歩いてるのに、保安局の連中は顔を確認する気配さえない」
ブルーの疑問にナタリーも頷く。だが、アーネットはもう何だか、わかっているような顔だった。
「たぶん、特に気にしなくていいと思う」
「どういう意味?」
「俺の勘だ」
「また出たよ、アーネットの勘」
ブルーは、今日はよく肩をすくめる日だと苦笑して、暮れゆく町を見渡した。通りやパブ、カフェには明かりが灯り、通りの向こうの広場では、明日エイトケン卿が挨拶をする予定の壇上で、リンドンから来たというカルテットの演奏が行われていた。さながら前夜祭の様相である。
この賑やかな光と音の波のどこかに、殺意を秘めた女が潜んでいる。そこでナタリーは、ふと思った疑問を口にした。
「アナベルは単独犯なのかしら。船を沈められたという意味では、商船グッドラック号の死亡した乗員、全員の遺族に犯行の動機がある筈よね」
「それは、アナベルに訊かないかぎりはわからない。ただ」
アーネットは、流れてくるヴァイオリンの調べに目を細めた。
「実際に話をしたアナベルは、思っていたより肚が据わっている女性だった。へたに協力者を増やしてアシがつくくらいなら、単独で動くことを考えたとしても不思議はない」
「もう、頼っていた探偵も死んだというのに。殺人の容疑者を褒めるわけにはいかないけど、大した精神力ね」
「ああ。ぱっと見は痩せ細っているんだがな」
アーネットは、事情聴取の際に見た、アナベルの気の強そうな眼を思い出していた。
「とくだん食費に困ってるような様子もなかったから、単に痩せ型なんだろう。やけにほっそりした金髪の若い女がいたら、気をつけてくれ」
アーネット達は夕食の前に、収穫祭の音楽演奏、そしてエイトケン卿はじめ地元の名士たちによる挨拶などが予定されている広場を下見しておく事にした。
「不気味だな」
ブルーは立ち見を含む客席をはさんで、舞台、演壇から反対側にある収穫祭の装飾を見た。死者の帰還を表した、ドクロや黒いローブの等身大の案山子が、手を広げて何体も立っている。収穫が終わって役目を終え、この祭りを最後に来年まで小屋の隅に仕舞われるのだ。当たり前だが生気はなく、暮れゆく景色と相まって、リンドン市内の華やかな収穫祭とはちょっと違う雰囲気だった。風が吹くたび、布でくるんで描かれたドクロの首がガクガクと揺れる。
「元々はもう少し早い時期に、秋分の日を祝うお祭りだったらしいわ。それがいつからか、収穫のお祭りとセットになっちゃったのね」
「何もなけりゃこの雰囲気もまあ楽しいかも知れんが、俺たちゃ物見遊山ってわけには行かないからな」
アーネットは財布の中身を確認すると、懐中時計を開いた。
「壇や広場の位置関係は把握した。こう暗くなっちゃ、もうアナベルの捜索は難しい。とりあえず夕食にして、あとは明日動くとしよう」
「僕らの宿はどうなるの?」
ブルーの問いに、アーネットは自信ありげに頷いた。
ブルーは羊肉のパイを口に運びながら、三回目の「あり得ない」を口にした。
「レストランの金庫番を条件に、廊下のソファーで寝ろって?」
そう、アーネットはアナベルの目撃情報を探る最中、ついでに宿を探してもいたのだ。そして、いま食事をしているレストランの金庫が盗っ人に狙われないよう、夜中中見張ることを条件に、廊下のソファーで寝てもいいと、店のオーナーに話をつけたのだった。
「刑事が見張ってるなら安心この上ない。宿代はいらないとさ」
「この夕食代は?」
「そりゃあ俺達がきちんと払うのさ。世の中甘くはない」
大人の常套句、伝家の宝刀、”世の中そんなに甘くない”。少年としては、甘くて何が悪い、と思ったが、アーネットは言った。
「重犯罪課の張り込みなんてのはな、ほとんど野宿みたいなのもざらにあるんだぞ。そのうち雨が降ってきて、カッターの奴とずぶ濡れのまま、ギャングの会合に踏み込んだんだ。ソファーで寝られるなんて、天国みたいなもんだ」
アーネットは、カットしたパイから溢れ出たグレイビーソースを、羊肉のステーキにのせた。ナタリーはリンドン市内では食べられない、素朴で美味しい田舎料理を無言で口に運び続けており、会話に入って来る気はなさそうだった。もう三人ともそれなりに疲労が溜まっていて、黙々と夕食を片付けた。
その日の夜中、メイズラントでは珍しくもない雨が降り始め、翌日の祭りがどうなるのか、住人や観光客たちは不安を抱えたまま床についた。