服務規定の重み
翌朝、カッターとジャックは非番で、魔法捜査課には顔を出さなかった。地下のオフィスはいつも通りの三人である。まだ解明されてはいないが事件の全容もだいぶ見えてきたため、あとはそれをどうやって立証するか、あるいは立証していいのかどうか、という空気になってきていた。
「捜査令状がない以上、難しいでしょうけどね」
紅茶を飲みながら、ナタリーは渋い顔をした。実際そのとおりである。
「でも複雑ね。婚約者が自国の軍人に裏切られて殺されたとしたら、殺意くらい湧くでしょうから」
「アナベルが本当にそういう境遇であるなら、同情心も確かにあるけど。だったら、もう放っておいてもいいようなもんだよね。捜査を引き継いだっていう保安局だって、まるで動いてるように見えないんだもの。国としては、このまんま有耶無耶にしたがってるんじゃないのかな」
それは少年であるブルーの、あまりにも素直な感想ではあった。もしここまでの推理が正しいのなら、アナベルは間接的、あるいは人生の一部を失ったという意味では直接的な、一人の被害者でもある。しかし、アーネットはそんなブルーを諫めた。
「ブルー。どれだけ犯人に同情できるとしても、そして被害者に同情できないとしても、俺たちは警察官だ。法は守らなければならない。悪人だから死んでもいいとか、同情できるから見逃そう、とか思うのは理解するが、言葉にはするな」
いつになく真剣なアーネットに、ブルーも押し黙った。それは刑事一〇年のアーネット自身が、何度となく抱えて来た気持ちなのだろう、とナタリーは思った。
「まあ、ブルーの気持ちもわかるけれど。例の、ウエストウッド男爵が状況的に怪しいわけでしょ。国や警察上層部がどこかの時点で、男爵が麻薬流通に関与していたと知ったとすれば」
「保安局に捜査の管轄が移ったのは、テロ対策なんかじゃなく、マクレナン大佐の容疑を隠すためでもない。貴族による犯罪をもみ消すためだ」
そう断言するアーネットの表情は苦々しげだった。実のところ、権力の不条理に最も憤っているのはアーネットであり、ブルーを諌めたのは自身を落ち着ける意味もあった。
「まあとにかく、捜査する立場としては冷静になろう。今日や明日、殺人が起こるというような事もないはずだ。希望的観測ではあるがな」
そのとき、地下の廊下に小走りの足音がして、壁の鉄製ポストに郵便物が投函される音がした。アーネットは話の気分転換とばかりに立ち上がった。
アーネットは届いた大きめの封筒にある、署の会計課の名前を確認すると、眉間にしわを寄せて睨んだ。ブルーが犯人逮捕の際に破壊した、銀行の壁や内装の請求書ではあるまいか。そんなものが課に直接送られてくる筈もないが。
「ほれ。先月もご苦労さまでした」
アーネットは、封筒に入っていたさらに細い封筒を、ナタリーとブルーに手渡した。給与明細である。いつもと変わらない額を確認すると、三人は無言でデスクにしまった。
「麻薬というわけにもいかないが、何か副業をやるべきかと、たまに思う事はあるな」
「アーネット、口から出任せ得意じゃん。小説家なんて案外いけるんじゃないの」
ブルーはケラケラと笑う。だがアーネットの、数々の事件を解決してきた経験があれば、リアルな探偵小説でも書けるのではないか、とはナタリーとブルーも時々思う事だった。
そのとき、アーネットは何やら、空になった封筒を睨んでいることにブルーは気付いた。
「何、空っぽの封筒を睨んでんの」
「…手紙」
「え?」
「きのう、例のアナベル・ディッキンソンの所を出る直前、彼女に手紙が届いていたよな」
そう言われて、ブルーは自動車で待機しているとき、郵便屋が来たのを思い出した。
「うん。配達のおじさんが来たのは覚えてる」
「あのとき彼女は、俺達に差出人の名前が見えないように手紙を握っていた。なぜだろう」
「よくそんな細かいとこ見てるね!」
どちらかと言うと呆れているブルーだったが、アーネットは真顔だった。
「その手紙、彼女が雇った探偵からの手紙という可能性はないか?もちろん差出人の名前は誤魔化していたかも知れないが、心理的には目の前の刑事に、見せたくはないだろう」
アーネットの指摘にブルーとナタリーは、まさかと一瞬思ったあとで、同時に何か薄ら寒い可能性に思い至った。アーネットは、一瞬で脳裏に浮かんだ可能性を展開する。
「カッターが海軍本部近くで会った浮浪者、おそらく変装した探偵だった男は、アナベルがカフェで会っていたという男と同一人物と見て間違いない。彼が不審死を遂げたのは、それなりの相手を調査していたため、と見るべきだろう」
「じゃあ、仮に手紙がその探偵によって送られたものだとしたら…」
ナタリーに、アーネットは即答した。
「間違いない。探偵は、独自の調査で事件の背後に、エイトケン卿がいた事を突き止めたか、真実に近いところまで迫ったんだ」
「その探偵が死の直前に、アナベルに最新のレポートを送ったものが、昨日届いたのだとすれば」
一斉に、魔法犯罪特別捜査課の三人は立ち上がった。ブルーは、青ざめた表情で二人を見た。
「彼女はエイトケン卿を生かしてはおかないかも知れない」
◇
約一名のせいで器物損壊の常習扱いされている、魔法捜査課が三人揃って署の自動車を借りにきた時の、受付担当の表情はあまり好意的ではなかった。
「壊す魔法は得意なんだけどさ。直す魔法は苦手なんだよね」
ほぼ他人事の体で、アドニス・ブルーウィンド特別捜査官は揺れる車の助手席で呟いた。ナタリーが後部座席でしかめっ面をしている。
「ねえ運転手さん、もうちょっと安全運転してくれる?」
「ピクニックに行くんじゃない、がまんしろ」
そう言いながらもアーネットは、こころもちアクセルを緩めた。万が一の事もある。車は昨日と同じ、アナベル・ディッキンソンの借家に向かっていた。
アナベルの自宅に着くや、アーネットは舌打ちした。鍵が閉まっており、ドアベルを鳴らしても出て来る気配がない。
「ブルー、追跡魔法で足取りを追えるか」
「やってみるけど、期待しないでよ」
ブルーは、人物や動物の移動した形跡を追う魔法を詠唱した。だが、これはブルー自身がアナベル・ディッキンソンという人物をよく知っていなくては効果が弱くなる、という欠点があった。ましてブルーは先日、家まで来ていながらアナベルの顔をきちんと確認もできなかったのだ。
案の定、移動の形跡を示す光のラインは、玄関を出たところで左に曲がり、その先は霧のようにぼんやりとなってしまった。ブルーは肩を落とし、魔法を解除する。
「最悪の想像が当たってなければいいが」
「アーネットの最悪の想像って、だいたい当たるからなあ」
ブルーに、アーネットは不服そうな目を向ける。だが実際アーネットは重犯罪課時代から、常識を超えた勘の鋭さで気味悪がられる事があった。ひとつ、ふたつの要素から、瞬間的に事件の核心に迫ってしまうのだ。本人に言わせると、戯曲か何かの筋書きのように、結末までが見通せるのだという。
ただし、勘が当たっていたところで、立証できなければ事件にはできない。これは、魔法捜査課の「魔法が魔法である事を立証しなくてはならない」という毎度のハードルと似ていた。
「どうするの?」
ナタリーが急かすように訊ねる。なぜかというと、近所から人がちらほらと出て来て、こっちをうかがっているからだ。完全に不審者である。だがそこはアーネット、元重犯罪課は肝の座り方が違う。
「ブルー。魔法で鍵を開けろ」
「えー!?不法侵入だよ」
「やるんだよ!」
もう無茶苦茶である。やっている事は犯罪者と変わらない。ブルーは「アーネットがやれと言った」「上司の命令で」と五回ばかり繰り返しながら、解錠魔法でいとも容易く一般市民の家宅のドアを開けた。
堂々と入れば怪しまれない、というアーネットを五パーセントくらい信じて、ナタリーとブルーも続いた。やはり、アナベルはいない。もうここまで来たら関係ない、と三人は遠慮なく、令状なしの家宅捜索を開始した。
「探すのは、例の探偵らしき男から届いているかも知れない文書だ。ナタリー、得意の魔法で探せるか」
「やってみる」
ナタリーは渋い顔をしながら、杖を取り出した。ナタリーが最も得意とするのは、情報に関する探索魔法である。同じ筆跡の文書、特定の日付や単語が含まれた文書、顔写真が添付された文書などを、魔法が及ぶ範囲の空間から探し当てるのだ。ただし、この魔法で探し当てた文書や情報は、警察上層部に提出しても信憑性を問われるケースが多い。魔法による捏造ではないか、というわけだ。
ナタリーは、いくつかのキーワードで検索をかけてみた。しかし反応がない。そこでアーネットは、”Mclennan”のアナグラムで検索してみろ、と提案した。アルファベットを解体して、別な文字列に並べ替えている文書がないか、と。
それは見事に的中した。”Malcnenn”という、北洋の国々に見られるような名前が記された手紙がいくつか、チェストの下着ボックスの底から発見されたのだ。女性の下着を掘り返す役はナタリーに一任された。
「魔法で鍵開けて侵入して下着泥棒って、家族だったら縁を切るレベルだよなあ」
とはブルーのセリフである。ナタリーは一枚の手紙を広げた。
「読むわよ。『マルクネン氏はグールダック号の船長から、うちの船に勝手に不法なものを載せるな、と抗議を受けていたそうです。マルクネン氏は積み荷について口外しないよう、お金を積んでグールダック号に頼み込んでいましたが、逆にグールダック号から、組合に自首しろ、そうでないなら自分達が告発するぞ、証拠の品はこっちが握っている。一ヶ月だけ待ってやる、と突き返されたとの事です』」
グールダック号、とは『グッドラック号』のアナグラムだろう、とアーネットもブルーも理解した。ナタリーは続きを読む。
「『この時点でマルクネン氏は、グールダック号に工作員を送り込む計画を立てていたようです。四月二二日の、ヒンデスとの定期航路が選ばれました。その航路ではマルクネン氏にとって都合のよい事に、海賊船が襲ってきました。その混乱に乗じて、マルクネン氏はグールダック号に工作員を送り込み、船倉に火を放って沈没させたのです。グールダック号を沈没させたのはマルクネン氏、間違いありません』」
それは、例の探偵からの調査報告に違いなく、衝撃的な内容だった。工作員を送り込むとは、艦砲を撃ち込むことの暗喩であると思われた。この探偵が恐ろしく有能だった事は、これで明らかになった。アーネット達が辿り着いた結論に、単独で辿り着いているのだ。
この手紙には、いくつか不明瞭だった部分を埋めるピースが含まれていた。グッドラック号はどこかの時点で、積み荷に麻薬があった事を知ってしまう。そこで国を相手取って告発しようとしており、護衛艦のマクレナン大佐には自首するための猶予を一ヶ月だけ与えていたのだ。
「だが、それが仇になった」
アーネットは、思い表情で言った。
「さっさと告発すれば良かったんだ。ひょっとしたら、長年付き合いのあった海の男どうし、情がはたらいたのかも知れんがな。結果マクレナンに、グッドラック号を沈める計画を、練る時間を与えてしまった」
「ひどい奴だね、開き直りもいいところだ」
「だが、テルコス帝国海軍が運良く現れなかったら、どうする気だったんだ?何も起こってない航路で、いきなり護衛してる商船に、大砲をぶち込むわけにも行かないだろう」
アーネットが考え込んでいると、ナタリーが肩を叩いた。
「ひとまずここを出ましょう。面倒な事になるといけない」
「そうだな。ブルー、頼む」
アーネットに言われて、ブルーは持ってきた大量の紙を広げた。下着ボックスの底にある何通かの手紙に杖を向けると、やや長い呪文を詠唱する。
「双子のごとく写せよ」
ブルーが命じると、杖の先端から手紙の束に向けて光が弾け、手紙から何も書かれていない紙に、まるで魚群のように文字が流れていった。これは文書や絵を別な物体に複製する「転写魔法」である。
「この魔法、あまり使うなって上から言われてるんだけど。文書の信憑性が損なわれるから、って」
ブルーは危惧したが、アーネットは涼しい顔だった。
「事件が終わったら燃やせばいい」
「とんでもねー刑事だ」
ナタリーは聞かなかった事にして、複製作業が終わると魔法で下着ボックスを元通りに戻し、三人は何事もなかったかのように、自動車でその場を去った。
「どうすんのさ、もしアナベルがエイトケン卿を殺しに行ったとしたら!」
ブルーは助手席で叫んだ。アーネットは険しい表情で答える。
「落ち着け。仮にそうだとして、エイトケン卿の居場所が特定できるとは限らない。いま、彼女は頼みの綱の探偵を失った状態なんだからな」
そうだといいけど、とブルーは不安そうに流れる景色を見つめた。
「どうやら、昨日届いた手紙はないみたい」
ナタリーは後部座席に手紙の複製を広げて内容を確認した。過去に送られてきていた手紙の内容は、単語をすり替えて暗号化してはいるが、もと情報局で本格的な暗号を日常的に扱っていたナタリーにとっては、原文を読んでいるのと変わらない。
「私たちや、重犯罪課の推測が正しかったことを補強する程度のものね。まあ、それはそれで重要な情報ではあるけど」
「入手方法に問題ありだけどね」
助手席のブルーは眉間にシワを寄せてぼやいた。家宅侵入、プライバシー侵害。上にバレたらまずい事になる。平然とハンドルを握るアーネットの度胸が、ブルーにはおよそ信じられなかった。
「いったんオフィスに戻りましょう。ここで考えても、話はまとまらないわ」
ナタリーの意見に、アーネットもブルーも頷いた。