事故物犬 〜絶対に怖くない怪談〜
あれは、転勤してすぐのこと。
慣れない仕事に疲れ果て、ようやく帰宅した夜だった。
カーペットにあぐらをかいた僕は、深夜帯の笑えないバラエティ番組を眺めながら、ちっともおいしく感じないコンビニのパスタをずるずる食べていた。
「ん……?」
突然、蛍光灯がチカチカと明滅しはじめた。
追い打ちでテレビのチャンネルが勝手に切り替わる。
──心臓が、飛び跳ねた。
急に決まった転勤だった。
職場から近くて格安だからと入居を決めた家具付き物件の資料、備考欄には「心理的瑕疵あり」の但し書きがあった。
事故物件、というワードが脳裏に浮かぶ。
でも、詳しく知ると変に意識してしまいそうだから、不動産屋のお姉さんには深掘りしなかった。
一応、仕事に慣れるまで三か月だけの短期契約にしておいた。
僕には特に霊感もないし、実際なにも起きなかったから、そのまま忘れかけていた……のに。
──蛍光灯もテレビも消えて、部屋が闇に包まれる。
すぐ目の前に、気配を感じた。
そこは卓袱台があるはずの場所。
体は動かない。声も出ない。
ハァ、ハァ……と誰かの苦しげな吐息だけが聞こえた。
蛍光灯が、つく。
照らされた室内、僕の目の前にそれはいた。
「……!?」
テーブルの上に鎮座する茶色いこんもりした物体は、一斤まるごとの食パンかと思えた。
しかし明るさに目が慣れると、表面がもっふりと毛に覆われて、小刻みに揺れていて……えっ、なにこの……なに……?
「わう」
僕の疑問に答えるようにそれは吠えた。
そして右サイドから、犬の顔が生えた。
瞬間、脳にたちこめていた霧がパッと晴れるように、すべてを理解した。
目の前のこんもりもっふりが僕に向けられたキュートなお尻で、その主たるコーギー犬がいまこっちを振り向いたのだということ。
聞こえていたハァ、ハァという音も、彼が舌を出しながら発する息遣いだった。
こっちを上目遣いに見上げた口角は笑っているみたいで、苦しげというよりなんだか嬉しそう。
そのまましばらく見詰めあったあと、再び「わう」とひとつ吠えると、同時に蛍光灯が明滅して──その姿は跡形もなく消え失せていた。
テレビからハイテンションな女性タレントの商品紹介が聞こえて、我に返る。体はもう動く。
いや今の、明らかな心霊現象だよね?
えっ、動物霊ってやつ? っていうかコギ霊?
とにかく。恐怖心は、これっぽっちもなかった。
──可愛かったなあ。
僕の感情は、それ一色で塗りつぶされていた。
その日は、なんだか夢心地のまま眠りについた。
ひさびさに、朝までぐっすり眠れた。
そんなことがあってから、ふた月ほど経つ。
あれ以来、コギ霊は現れていない。
いま思えば、あの時は精神的にも肉体的にも限界に近かった。
疲れているのに寝付けず、何を見ても笑えず、パスタは味がしなかった。
もしかしたら、無意識に癒しを求めていた僕に脳が見せた幻覚だったのかもしれない。
特別に犬好きなわけでもないから、チョイスに謎は残るけれど。
何にせよ、あの日を境に少しずつ心と体が軽くなって、どうにかこうにか新しい仕事にも慣れてきた。
そしてこの部屋とも、もうすぐお別れだ。
遅く起きた休日のお昼。
契約の件で不動産屋さんから電話があった。
せっかくなので「心理的瑕疵あり」の件を聞いてみると、お姉さんは特にもったい付けることもなく、あっさりと話してくれた。
「……これ、か……」
アパートの裏手には、住宅の敷地に囲まれてぽつんと小さな空き地があった。
ブロック塀に阻まれ、ぐるっと遠回りしないと行けない場所だった。
そこに、ぼうぼうの雑草のなか、僕の胸元ぐらいの高さの石碑が鎮座している。
上部にふたつ並ぶ三角の突起はきっと、犬か猫の耳をイメージしてるのだろう。
動物供養塔。苔むした表面に、そう刻まれていた。
僕は目を閉じて、手を合わせる。
この場所にはかつて、ペット霊園があったという。
例の「心理的瑕疵あり」は当時、墓地は墓地なので、と念のため付けた但し書きがそのままになっているとのこと。
そして、霊園は手狭になって郊外に引っ越し、個別の墓碑や遺骨もすべてそちらに移したけれど、その一角にあった共同の供養塔──つまりこの猫耳石碑だけが残され、放置されていた。
石碑の位置はちょうど、僕の部屋の真裏だった。
「──あの、お部屋の件なんですが」
それから僕は、スマホを取り出して不動産屋さんに電話を掛けていた。
「このまま、長期契約に変更でお願いします」
耳元で、かすかに「わう」と聞こえた気がした。
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コギ霊ともども歓喜にうちふるえます。