第八章 かりん & エピローグ 早川孝雄
とうとう来ました、最終回。
本来なら、第八章とエピローグは別々にお届けすべきなのかも
しれませんが、どうしても続けて読んでいただきたくて一緒にしました。
そのぶん長くなってしまいましたが……。
読んでくださった皆様の心に、なにか一つでも綺麗に響くものが
あったなら、幸いです。
では、どうぞ。
第八章 かりん
お酒の利尿作用か、福島の気温が東京より低いせいか、わたしは目が覚めた。
寝ぼけ眼で見上げた見慣れない天井に、ああ、おじいちゃんちにいるんだった、と悟るまで何秒かかかった。
隣で寝ているヒロトを起こさないように、そっとふすまを開けてトイレに向かった。
まだ陽が昇る前の廊下を、なるべく音を立てないように歩き、用を足した。
さて、部屋に戻ってもうひと眠りしようか、と足を運ぶと物音がして、泥棒? ととっさに怖くなった。
怖くなったけど、ほったらかすわけにもいかない。
物音のするほうへ恐る恐る近づいていった。
茶の間の灯りがついている。
わたしは覗きこんだ。
「ああ、起こしちゃったかな?」
「おじいちゃんか。何してるの?」
「今、夢におばあちゃんが出てきてね、もともと年寄りは朝早いでしょ。眠たくもないから、写真、探してたとこ」
時計は五時になるほんの前で、わたしはなんの根拠もないんだけど、二度寝はやめて、おじいちゃんと話したほうがいいって思って、中に入って訊いた。
「写真って、なんの写真?」
「若いときのおばあちゃんの写真だよ。これこれ、見つかった。アルバム」
おじいちゃんのすぐそばに行って、覗きこんだ。
古い写真が並んでいた。
「これが高校生になる前のおばあちゃん。こっちが二十歳になったときのおばあちゃんだよ」
「可愛い」
わたしは六十代から七十歳のおばあちゃんしか知らないけれど、写真のおばあちゃんは(当たり前だけど)若くて、おしゃれも化粧もしてて、別人みたいだった。
おじいちゃんは写真を一枚とると、もっと見てみる? とわたしに訊き、わたしは頷いて、茶の間のこたつにアルバムを乗せた。
おじいちゃんの若い頃はその当時の今どきな感じがしたし、お父さんの小さい頃の写真なんかも見られて、なかなかに見ごたえがあった。
わたしを囲んだ集合写真もあって、そうだそうだ、撮った、この写真、と完全に忘れていた思い出が蘇ったりもして、少しの間、夢中になった。
おじいちゃんは途中でお茶を淹れて、こたつに置いていってくれた。
でもこたつには座らずにどこかに歩いて行ったのだけど、わたしは一瞥しただけで、またアルバムに目をやった。
そのうちに雨戸が開けられる音が聞こえてきたので、ああ、そのためか、とわたしはたいして気にも留めなかった。
アルバムを閉じておじいちゃんを探すと、縁側に座って、東の空を見ていた。
「なに見てるの?」
「こっち来てごらん、かりん。もうすぐ見られるよ。おばあちゃんが一番きれいだって言ってた空が」
おじいちゃんの隣に座って、言われるがまま、東の空を見た。薄く白んできていた。
「かりん、いいタイミングだったよ。今から空が一秒ごとに色を変えて、そりゃあもうきれいなんだ。おじいちゃんはねえ、おばあちゃんとよくこの景色を見たんだ」
三月になったけどまだ寒いから、とわたしにひざ掛けをくれた。
おばあちゃんのだよ、と微笑んだ。
わたしは確信した。
台所の棚には、おばあちゃん用だと思われるお茶碗があった。
おばあちゃん用だと思われる湯飲みもあった。
こたつのおばあちゃんが座っていたであろう場所には古びたクッションが置いてあった。
そしてこのひざ掛け。
おじいちゃんの中では、おばあちゃんはまだ生きているんだ。
逝ってから十年以上が経って、それでもまだおばあちゃんを思い、思い出を慈しみ、おばあちゃんをそばに感じ空を見るおじいちゃん。
なんて素敵なんだろう。
「ほら、空がだんだんとピンク色になってきたよ。雲も。山の縁がここから色味を増していくんだよ」
「ほんとだ。きれい」
言われるまで考えにとらわれて空を見ていなかったわたしが慌てて空を見ると、たしかに白の一部にピンク味がかかっていた。雲もピンクに色づいていた。
おじいちゃんの家の縁側はスコーンと突き抜けていて、山からの日の出を遮るもののない環境で見ることができた。
たしかにこれは早起きをしてでも見る価値のある景色だ、と思った。
「おじいちゃん何回も見てるけど、今日は特別にきれいだ。かりんのために、おばあちゃんがそうしてくれたんだな、きっと」
「ねえ、おじいちゃん、おばあちゃんて、どんな人だった?」
「可愛かったよ。村一番、可愛かった。それは贔屓かな」
「いつ好きになったの?」
「物心ついたときからかな。ほら、ここは田舎でしょ。同い年の子とは、小、中、高ってだいたいは同じ学校になるわけだからさ。時代も今とは全然違ったし。なんたって六十年以上も前の話だから。小さい頃から一緒にいる村の仲間の中で、おばあちゃんが一番好きだったんだ。だから気がついたら、好きだったんだよ」
唐突なわたしの質問を嫌がらずに、おじいちゃんはにっこりと笑って返してくれた。
「そういうのって、素敵ね。子どもの頃から一緒で、結婚して何十年も連れ添って。ドラマみたい。憧れるなあ」
「かりんは、大翔君と何十年も連れ添えばいいじゃない。仲よさそうに見えるよ」
「好きだから付き合ってるんだけど、結婚するのって、なんかまだ怖いの。怖いって言葉じゃ語弊があるかな。このまま付き合い続けたら、いつかその先には結婚っていう通過点が待ってて、そこに向かって男女が交際するっていうのは分かるんだけど、まだ妊娠もしたくないし。ねえ、おじいちゃん、『好き』が『愛』に変わる瞬間って、いつだった?」
「哲学だな。『好き』は一時的なもので、『愛』は永遠、ていうのはどう?」
「そっちのほうが哲学じゃん。愛は永遠か。わたしはこの先もずっとヒロトを好きでいられるって確信を持てたときに、結婚っていう選択をするんだね、きっと」
「おじいちゃんが生きてるうちに、かりんの花嫁姿、見たいんだけどなあ」
「そのプレッシャー、地味に重いよ」
「こうやって話してる間にも、見てごらん、空の色が変わってるよ」
「わあ」
おじいちゃんに言われて見た空は、朝焼け空だった。掛け値なしにきれいだと思った。
「きれいでしょう?」
「うん。わたし、この景色、絶対忘れない。目に焼き付ける」
宣言通り、わたしはじっと見た。
おじいちゃん。
三月の明け方のぴりっと冷たい空気。
白からピンク、ピンクから朱へ色を変える空と、それぞれの色に染まる雲。
もしもわたしが福島に来なかったら絶対に見られなかった景色、体験できなかった感動。
来てよかったと心から思った。
わたしはその気持ちを言おうとおじいちゃんを見た。
見て、おじいちゃんの、写真を見るその横顔に、何も言えなくなった。
泣いていたなら目を逸らしただろう。
怒っていたなら驚いただろう。
でもおじいちゃんは、本当に優しい顔で、笑っていたのだ。
なんだか泣きそうになったわたしは、また空を見た。
きれいな朝焼け空を。
そして、わたしの脳のどこがどう作用した結果なのか、わたしの心のどこがどう運動した結果なのか、自分でも思っていなかった、こんな言葉が口をついて出てきた。
「ねえ、おじいちゃん。わたしたちと一緒に東京で暮らさない?」
なぜそんな発言をしたのかと問われても答えられない。
自分でも分からないからだ。
「お父さんがね、今年の夏に転勤になって、東京に帰ってくるの。出世して、もう転勤の心配もないんだって。ずっと東京にいられるんだって。おじいちゃん、ここでひとりで、もしもなんかあったとき、どうするの? 今は元気だからいいけど、いつ病気になるかなんて、いつなにか悪いことが起こるかなんて、誰にも分からないじゃない。
もう車も運転できないし、シニアカーに乗らないと、長距離歩くのはしんどいんでしょ? それじゃあ買い物だって一回一回が絶対に大変だし、第一にここは町まで車で二十分はかかるんだから。もう畑仕事も引退したんだし、ここで隠居生活をするより、東京でお父さんとお母さんとわたしとの四人で暮らしたほうが、いろいろと便利だよ、絶対。ねえ、なにか起こる前に、そうしようよ。東京だって悪いところじゃないよ」
おじいちゃんは静かにわたしの目を見て話を聞いて、わたしが話し終えると、笑ったのだ、にっこりと。
「かりんは優しいねえ。おじいちゃん、本当に思うよ、よかったあって。アイドルの女の子らなんかより器量よしで、心もきれいで、優しくて」
そこでいったん話を切って、空に目をやって、また話し出した。
「おじいちゃんもね、おばあちゃんが病気になってから、いろいろ考えたんだ。正直に言うと不安にもなった。病院から帰ってくるとねえ、家はしんとしてていやに広くて。おじいちゃん、ああ、独りなんだなあって、これからどうなるんだろうって。ほら、おじいちゃんの歳になると、友達も、死んだ、入院だ、老人ホームだって、いなくなっちゃうでしょう。自分もいつそうなるか分からないって、そうなったらどうしようって」
「じゃあ」
おじいちゃんは首を振った。
山際から、太陽がすうっと現れた。
「ここには、おじいちゃんのすべてがあるの。生まれてから今日までの思い出、全部。かりんが生まれる前に死んじゃった、おじいちゃんのお父さんとお母さんもねえ、おじいちゃんが覚えている限り、いつまでも生きてるんだよ。だから、おばあちゃんも、まだ、生きてる。おじいちゃんの心の中で。若い頃は、いつか懐かしむ日が来るなんて思わなかった日々。若さって眩しいくらい輝いてるんだよ。歳をとってから気がつくんだ、みんな。
山を見たら、ああ、探検なんて言って走り回ったなあ、服を泥で汚して、なんて記憶が蘇ってくるし、今の子どもらが虫取り網持って走っていくのとすれ違うと、おじいちゃんにもあったあったって可笑しくなるし。川にも田んぼにもなんでもない道にも、そうやってそりゃあもうたっくさんの思い出がこもってるんだ。この家にいれば、いつだっておばあちゃんに逢える。この村を歩けば、どこだっておばあちゃんとの思い出が蘇る。おばあちゃんはねえ、あんなほっそい体で、駆け足が速かったんだよ。男の子に交じっても負けないくらい。孝雄君って、おじいちゃんは名前を呼ばれるたびに、胸が苦しくなったんだ。
そういう思い出は、後から後からぶくぶくと音を立てて湧いてくるんだ。この縁側で見た空、かりんのお父さんが初めて歩いた茶の間、毎年毎年、歳になっても続けた夏祭りのデート。全部、この村にある。この村にはあるけど、東京にはないんだ」
話を聞きながら、わたしはどんな顔をしていたのだろうか。
おじいちゃんは立ち上がって、笑顔で言った。
「大丈夫、大丈夫だよ、かりん。畑仕事で鍛えたおじいちゃんの体は、ちょっとやそっとじゃ壊れない。なあんにも心配なんていらないんだ。おじいちゃんはこの村で、おばあちゃんの思い出とともに生きる」
おじいちゃんは万歳をするように、握った拳を高くあげた。
顔を出した太陽がおじいちゃんを照らして、おじいちゃんは笑顔で、わたしは自然と笑顔になった。
「あ、でも、かりんがこうやって会いに来てくれなくなったら、おじいちゃんよぼよぼでそのうえ認知症になって、自分のこと鶏だと思って、コケコッコーしか喋らなくなるかもしれないな」
「駄目だよ。絶対駄目。会いに来る。来るからぼけちゃ駄目。よぼよぼも駄目」
「コケコッコー」
そう繰り返して庭先を走り回るおじいちゃんを見て、わたしは笑った。
涙が出てきた。
十年ぶりの福島、十年ぶりのおじいちゃん。
ああ、会いに行くという選択をして、わたしは間違えちゃいなかったんだ、とこのとき心から思えた。
おじいちゃんの息はすぐに切れて、でも得意げに縁側まで戻ってくると、美味しそうにお茶を飲んだ。
「かりんと見たこの朝焼け、おじいちゃんは忘れないよ。今日は特別にきれいだったよ」
何か言いたかったけど胸がいっぱいで何の返事もできなかった。
けれど、わたしは気がついた。
「おじいちゃん、今日はおばあちゃんも一緒に見てたよ」
おじいちゃんがさっきまで大切に持っていたおばあちゃんの写真が、朝日を受けて光っていたのだ。
わたしの発言の意味に気がついたおじいちゃんは、
「超能力だとか、宇宙人だとか、本当にあるのかいるのか分からないけれど、こういう不思議な偶然って、本当にあるんだね。……あ、そうだそうだ、おじいちゃん、昔おばあちゃんに教わったんだ。ねえ、かりん、知ってる? 朝焼けって、英語で『トワイライト』って言うんだよ。正確にはサンライズっていうのが一般的らしいんだけど、おじいちゃんは、サンライズより『トワイライト』のほうが朝焼けのきれいな空をイメージできるからさ、好きなんだ。おばあちゃんとの思い出だしね」
そう優しさと優しさと優しさでできた笑顔を見せてくれた。
「ハイカラな言葉、知ってるでしょ。じゃあ、中に戻ろうか」
まだ見ていたいと東の空に顔を向けると、もう朝焼け空は終わっていて、太陽が眩しかった。
素直に湯飲みをもって中に入った。
出しっぱなしのアルバムを仕舞うおじいちゃんの背中が、さっきのハイカラ発言と相まって可愛らしかった。
田んぼに出る前のマルコさんが来て、朝ご飯のおかずを一品さっと作ってくれて、昨日の残りのお味噌汁を温め直して、同じく昨日の残りのおかずをレンジで温めて、まだ眠たそうなヒロトが背伸びをして、また今日という日が始まる。
エピローグ 早川 孝雄
かりんはバスで行くと言ったんだけど、まだ切符を買う前だったし、マルコさんも運転する気満々だったから、おらはかりんに郡山の駅まで送らせてと言ったんだ。
しつこいのはするのもされるのも嫌だから、二回、送っていかせてと言って断られたら引き下がろうと思っていたんだけど、二回目でかりんは、じゃあ乗せてってもらおうかな、と翻意してくれた。
「全然迷惑じゃないヨ。むしろ孝雄さんの役に立ててうれしいくらいだヨ」
でも迷惑じゃないですか? というかりんの問いに、マルコさんは笑って答えたんだ。
「二人で寄りたいところとかが、あったのか?」
おらが、かりんが一度断った理由をそう推測して尋ねてみたのだけど、ううん、とだけ答えた。
本当に? と念を押すと、ほんとだよ、と笑ったんだ。
五時頃にはアパートに着くように、三時六分の新幹線に乗ると言うから、高速を使えば二時間とかからないから、一時過ぎに出発、だからお昼ご飯は十二時には食べようって段取りをつけた。
あと五時間弱で、かりんとはまたしばらくのお別れということだ。
でも、だからって五時間も話し続けるのは、無理だ。
無理だし、現実的じゃない。
おらはあらためてかりんの顔を見た。
前に会ったのは十歳で、今はもう二十歳だ。
もう化粧なんかもして、女の子から立派な女性になった。
彼氏と雑談なんてして、いい雰囲気だ。
足かけ四日のかりんの里帰りで、彼氏も連れていくと言われたときに、おらはどんな男か見定めてやろうと思っていたんだけど、さすがかりんの彼氏、かりんの選んだ男の子、いい子だった。
一安心だ。
かりんのこと、宜しくね、と言うのは別れ際でいいかと、じゃあ今はなにを話そうかと、おらは、考えた。
考えながら、かりんの横顔を見た。
おらには分からないけど、携帯電話を操作しながら、楽しそうに大翔君と話をしている。
だから、べつに何も話さなくていいかと、思ったんだ。
「ねえ、おじいちゃん、ご飯、わたし作って何日分か作り置きしてってもいいんだよ」
「かりんの手料理か。お昼はマルコさんが作るって張り切ってたけど、かりんの手料理、食べたいねえ」
「任せて。わたし、頑張る」
すっくと立ちあがって、おじいちゃんにいいとこ見せると笑って、台所に向かった。
大翔君と二人きりになったおらは、説教くさくならないように気をつけながら、話をしたんだ。
「大翔君、かりんのこと、宜しくね」
「はい。孝雄さんの大事なお孫さんを、これからも悲しませたりしません。約束します」
「喧嘩はもう、した?」
「いえ、まだしてません」
「じゃあ、これからだ。どんなおしどり夫婦でもねえ、喧嘩をする日は、必ずやってくるんだよ」
おらが笑うと、大翔君の表情も砕けた。
「一緒にいるのが当たり前になってくるとねえ、ちっちゃなこと、ほんのちっちゃなことが引っ掛かるの。その積み重ね。塵も積もればってね、言うでしょ」
「孝雄さんも喧嘩したんですか?」
「うん、したした。お風呂のお湯が熱いって言ってるのに直らなくてね、怒っちゃった。そんなことでも、頭に来るようになっちゃうの」
「そんなときは、どうするんですか?」
「プレゼント。花とか、ケーキとか。それで、ごめんって」
「謝るんすか」
「うん、謝るの。意地張って長引くとちょっとやそっとじゃ機嫌直らなくなるから、その前にごめんって謝っちゃうの」
そうしたら大翔君が、いやあ、前の彼女とは喧嘩して自然消滅みたいになっちゃったんですよ、仲直りする前にほかに男作られて、あのとき、僕、謝ってたらよかったんですかね、と言うから、いや、そこで謝ってたらかりんとは出会えなかったんだよ、そう返したんだ。
大翔君は二十歳の若者らしい、大人になりつつあるがあどけなさも残った顔で、そうですね、なんて言って笑ったんだ。
あとはお互いの共通の趣味だと分かった野球の話なんかをぽつりぽつりとしたりして、かりんが台所から戻ってくるまでの間、過ごした。
かりんは一時間くらいはせっせと料理してくれて、タッパーに入れて、あとは粗熱をとってから冷蔵庫に入れるから、八品作ったよ、おじちゃんの口に合うといいんだけど、と腰を下ろした。
おらはあの小さかったかりんが料理までこなすようになったのかと、うれしくなった。
うれしくなったけど、時の流れの速さになんだかショックを受けもしたんだ。
おらは心の中で小百合に話しかけた。
小百合、かりんはこんなに大きくなったよ。料理も作れるようになって、大学生になって、彼氏もできて、元気に笑って、よく気配りのできる女性になったよ。
よかったな。
もう十年も経つんだな。
遺影の小百合が、笑ったような気がした。
十一時半になる前にマルコさんが来てくれて、お昼作るヨ、ちょっと待ってネ、と足早に台所に向かったのだけど、すぐに茶の間に戻ってきて、言った。
「このタッパーの料理、美味しそうネ。これはこれから出すノ?」
「いいや、マルコさん。それはかりんが作り置きしてくれたものだから、出さないで」
「了解したヨ」
軽やかな足取りで台所に戻って、三十分後にはテーブルにお昼ご飯が並んだ。
プロの料理人のマルコさんの料理は美味しくて、
「おじいちゃん、こんな美味しいの毎日食べてたら、わたしの料理じゃ勝てないよ」
とかりんが笑った。
「ううん、かりんさん。料理でものを言うのは腕じゃなくて心。かりんさんの料理には、孝雄さんへの愛がこもってる。絶対美味しいヨ。でも、ワタシの料理のほうが、ちょっとだけ、美味しいけどネ」
得意げに話すマルコさんに、大人げない、とみんなで口々に言って、笑った。
食べ終わって料理を下げるときに大翔君が、僕、洗い物手伝います、と立ち上がった。
おらはかりんと二人になって、つけっぱなしのテレビを見て、時間を過ごした。
べこばのしょうぺいの真似をして、おじいちゃんでーす、なんてやったら、ウケた、ウケた。
戸締りを確認して、忘れ物の有無を確認して、じゃあ、行こうか、と車に乗りこんだ。
かりんの目には、この久澄村の山々は、どう映っているのだろうか。
空は、川は、田んぼは、どう映っているのだろうか。
願わくば、思い出として心の深くに残るものであってほしい。
おらはそう思った。
高速道路を使って郡山まで行って、駅に着いたのが二時四十分になる前。
大翔君が二人分の切符を買いに行っている間に、かりんはお土産を買った。
大翔君が戻ってきて、時間も迫ってきて、そろそろ、お別れだ。
「これはマルコさんに。これはおじいちゃんとおばあちゃんに」
かりんが差し出したお菓子を、おらもマルコさんも、ありがたく頂戴したんだ。
「ありがとうネ、かりんさん。じゃあ、ワタシ、先に車に行ってるから。ヒロト君も先に行って、新幹線の座席、確保したほうがいいヨ。ネ、そうしなヨ」
マルコさんの言わんとしていることを数瞬後に察した大翔君は、
「そうですね。じゃあ、かりん、俺、先に行ってるから」
と急ぎ足で改札を通った。
孝雄さん、お世話になりました、と向き直って頭を下げた。
かりんと二人になって、さて、なにを言ったものか?
月並みな挨拶になってしまうけど、それでいいか、とおらが口を開こうとしたところで、かりんが先に口を開いたんだ。
「ねえ、おじいちゃん、お母さんがね、わたしが小さい頃よくした、スリーヒント・クイズってあるの。三つキーワードを出して、それが何か当てるってゲーム。知ってる?」
「うん、知ってるよ」
「夏休み、新幹線、福島。これは」ここまで言われて、おらはピンときた。かりんと声がそろった。「おじいちゃんとおばあちゃん」
「じゃあ、福島、縁側、おばあちゃん。これは?」
「……トワイライト」
おらには見えたんだ。にっこりと笑うかりんの背中に、あの朝焼けが。
「今度はお父さんとお母さんと一緒に来るからね。ボケたりしたら、駄目だからね」
「コケコッコー」
「コケコッコー」
おらが言うとかりんも言って、おらたちは大声で笑った。
「来てくれてありがとな、かりん。また来るの、楽しみにして待ってるからな」
「うん。わたしもおじいちゃんに会えてよかった。楽しかったよ。またね」
かりんが改札を通っていく。
どんどんと離れていく。
半身のかりんに、おらは言う。
「体に気をつけろよ」
「うん」
「勉強、頑張ってな」
「うん」
「おじいちゃんが力になれることがあったら、いつでも言ってこいよ」
「え?」
「おじいちゃんに力になれることがあったら、いつでも言ってこいよ」
「うん、分かった。またね、おじいちゃん」
「またな、かりん」
おらは続けて、元気でなって言ったんだけど、かりんに届いたかどうかは怪しかったんだ。
かりんは最後に手を振って、それから見えなくなった。
いつまでもぽつんと立っているのは邪魔になるとは分かっちゃいたけど、かりんがひょっこり顔を出すんじゃないかと、しばらくそうしていたんだ。
小さく息を吐いて、マルコさんの待つ車に向けて歩き出した。
駅舎を出ると、ああ、春なんだなあって、そう思ったんだ。
なんだか家が恋しくなって、仏壇にお菓子を、さっきかりんからもらったお菓子をあげようって、一緒に食べようって、決めたんだ。
「お待たせ。マルコさん」
「全然待ってないヨ。じゃあ、どうする? 真っ直ぐ帰る?」
「うん。そうしよう」
「音楽かけてイイ?」
「もちろん、いいよ。例のあの人でしょ。マルコさんの大好きなあの人」
「そう」
ザブちゃんで、風を切ろう。
〈了〉
いかがでしたか? 帰りの車中で、孝雄さんがどんな表情でいたと思いますか?
私は……、それは言わぬが花、ですね(笑)
この話はここで終わりますが、皆様の続きを願う声があったなら、
その時はどうなるか? は、その時になってみないとわかりません(笑)
いつになるかはわかりませんが、また次回作を書き上げたなら、
ここで発表させていただくつもりです。
その時に、またお逢いできたらうれしいです。では、また。