プロローグ 早川歌凛
ほとんどの人が初めましてだと思います。小説家になろうに投稿するのは二作目になります。
あらためまして、小町翔平と申します。以後、よろしゅう。
一作目ではひとつの感想もいただけませんでした。つまらなかったってことと受け止めました。
今作ではコメントをたくさんいただけるように頑張ったつもりです。
最後まで読んでいただけて、感想をもらえたらうれしいです。
それでは、どうぞ。
プロローグ 早川 歌凛
荼毘に付されるおばあちゃん。
大人は子どもみたいに、たとえばわたしのクラスメートの誰かがそうしたように、もしくは幼児のように、声を上げては泣かない。
老眼鏡をはずしてハンカチで目を拭ったおじいちゃん。母ちゃん、ありがとな、そう最後の最後につぶやいたお父さん。
わたしは大人の男の人が泣くところを、ましてや自分の親が泣くところを見るのは、なんだかいけないように思えて、目を逸らした。
わたしは何も見てはいませんよ、だから泣きたいだけ泣いてもいいよって見た窓の向こうでは、低い雲が反時計回りに、高い雲が時計回りに流れていた。
周りを見ても、わたし以外は誰も気がついていない様子だったのだけど、たしかに見間違いなどではなかった。
弧を描いて、低い雲が反時計回りに、高い雲が時計回りに。
わたしは子どもだったのだけど、泣かなかった。
いや、子どもだったから、泣かずにいられたのかもしれない。
身内が死んだのに泣かないのは薄情なのかもしれないけれど、死んだ人を初めて見た小学四年生だったわたしには、おばあちゃんが死んだ、という事の重大さをいまひとつ飲みこめなかったのだ、と今にして思う。
あんなに優しい笑顔をくれ続けたおばあちゃんは、無表情だった。当時より今のほうが泣ける。
お葬式が終わって、いざ東京に帰るとなった段で、わたしたちを駅まで送ってくれたおじいちゃんは、もうおばあちゃんはこの世にはいないけど、いっつもかりんのこと、見てるからね、元気でね、と笑った。
なんだかおじいちゃんが小さく見えた。
それ以来、おじいちゃんには会ってない。
東京から福岡に、お父さんが転勤になって、当然、お母さんとわたしも一緒に行くことになり、福島はおいそれと行ける距離ではなくなってしまったのだ。
栄転は栄転なのだけど、やっぱり友達と離れるのは寂しかったし、おじいちゃんに会えなくなるのも重なって、わたしは栄転を憎らしく思った。
でも、結果、それでよかったのかもしれない。世の中の大多数の子どもがそうであるように、中学生や高校生のわたしも例に漏れず、せっかくの夏休みなのに友達と遊ばずに田舎に帰る、という行事を疎ましく思っただろう、きっと。
そんな態度をとったらおじいちゃんが可哀そうだ。
今、わたしは二十歳になって、東京の大学に通っている。
まだ子どもだけれど、もう子どもじゃない。
なのに電話の向こうのお母さんはいまだにスリーヒント・クイズなんかを出してくる。
少しムッとしてしまうのだけれど次の瞬間には、お母さんのそういう、幼児性、とでも言うのか、そんなところが可愛らしく思える。
素敵な歳のとり方だと思う。
「かりん、今年の夏のお父さん、出世、東京。なーんだ?」
「……こっちに戻ってくるの! え、うそ、ほんと?」
回りくどさとわたしの性格をつかみきれていないことにいまだに無頓着なお母さんの声に、わたしは破顔した。
経験した二年ばかりのひとり暮らしもそれはそれで楽しくて、辟易していたとかそんなのじゃないんだけど、やっぱり家族で暮らせることが率直にうれしかったのだ。
親離れのできていない子どもだと言う人もいるだろうけど、わたしはお父さんもお母さんも好きなのだ。
もう転勤することはなくて東京に永住できるって話みたいだけど、かりん、どうする? ひとり暮らし、続ける? そう言われてわたしは、もちろん一緒に住むよ、と即答はできなかった。
また家族で暮らせてうれしかったのに。
毎月の家賃だって馬鹿にならないしバイトで遊ぶ時間と勉強の時間が削られるのが常々悩みの種だったのに。
ちょっと考えてから決める。そう答えると、お母さんは、うん、とだけ言って、話題を変えた。
聞くからにウキウキしているお母さんはやっぱりわたしの好きなお母さんで、わたしはまた三人で暮らす日々を思いながら話をした。
あんまり長電話もいけないわね、そうお母さんが言って別れの言葉を交わしてから電話を切った。
課題を終わらせてお風呂に入って一息ついたとき、わたしの脳裏になぜだか懐かしい顔が浮かんだ。
夏休み、新幹線、福島。
これまた懐かしいスリーヒント・クイズ。
幼稚園とか小学低学年とか、そんな頃だ。
わたし、テンション・マックスになったなあ。
そして答えはもちろんおじいちゃんとおばあちゃんだ。
今は夏ではないし、おばあちゃんはもう天国だけど、もう十年も会ってないのか、そう思うと無性におじいちゃんに会いたくなった。
中学生でも高校生でもなく、わたしは大人になった。
年齢的には、だけで二十歳になってもまだ自分が大人だなんて思えないし、自分を大人だと思えるようになるタイミングというものがまったく分からないのだけど、少なくとも今、おじいちゃんに会いに行くことを疎ましくだなんて思わない。
今度の休みに彼氏を連れて行ってみようか。
それは素晴らしいアイディアに思えて、わたしはひとり、笑った。
でも、わたしはもう二十歳だ。
こんな考えが浮かばないような子どもではない。
孫が言うんだから邪険にはしないだろうしそんな人じゃないと知っているけど、もしかしたらいきなり孫に彼氏を連れてこられても、向こうにとっては迷惑かもしれないじゃないか。
さっきの電話でお母さんに探りを入れてみればよかった、と電話する時間でもなくなったから、後悔というほどでもないけど、失敗しちゃった、とつぶやいた。
つぶやいて、でもおじいちゃんは何ヶ月か前に、わたしの成人祝いだと一万円と短い手紙をくれたのだ。
お父さんの今の仕事先である広島から転送されてきたそれを、大事にとっておかない人はごく少数で、わたしはそれに属さない。
大学とバイトで遊ぶ時間もままならなかったけれど、わたしに手紙までくれたおじいちゃんに会いに行ったら喜んでもらえると、それはもうあの頃のように無条件で笑って迎え入れてくれるんじゃないかと、そう思った。
思った次には、バイトのシフトとか、福島までの移動手段とか、そんなのを計算していた。
思い立ったが吉日人間なのだ、わたしは。
だからわたしは、おじいちゃんに会いに、行こうと思う。
どうでしたか? どんな感想を持たれたのか、ぜひ、お聞かせいただければ幸いです。