普通の人との違い
「人種が、性別が、年齢がどうであれ、ヒトという生物は、記念とか数字の周期がゼロに戻るときに何かをしたくなるのでしょう。」
ネットドキュメンタリーは、世界54カ国でポピュラーな配信チャネルだ。従来、視聴年齢層が高めの番組だが、ここ最近は「人類の過去1000年の進化をみる」という連続物のコンテンツが若年層の支持を得て、視聴平均年齢が中央値で50歳と、全世代が幅広く視聴する番組となっている。この番組のコメンテーターが、このコンテンツが注目された理由を私見を交えて語っているところだ。
「人類は半世紀で脳内の構成DNAがおよそ7%ずつ変異していると考えられてきました。人類は自然環境や疫病、紛争などの脅威に晒される度に、種としての選定が進み、行き止まりになった形質は淘汰され、生き残る形質がさらに先鋭化するという繰り返しをしてきました。生物の身体形質進化は緩やかですが、ヒトの脳だけは加速度的に進化したと言えます。過去、ヒトの脳の記憶容量は150テラバイトといわれていましたが、今では2ペタバイトとされています。しかも、脳の体積自体は顕著な変化なくです。」
無表情に早口でまくし立てる解説者が吐き出した声のもとを引き戻すタイミングで、向かって左側に座るショートヘアのキャスターがコメンテーターを制して、減速を行う。
「人類の、脳の進化スピードは、地球上の生物の進化と言う点からすると驚異的ということは理解できました。教授、1つ疑問なのですが、太古の猿からヒトへの進化は歴史的なエビデンスではご指摘よりも緩やかで長い期間を要していると思います。教授のお話を聞くと、急に進化が早まったように聞こえるのですが、相違ありませんか?」
具体的な限定質問に対し、教授と呼ばれたコメンテーターは口に含んだ水をひとしきり煽ったうえで答えた。
「結論からいえば、そのとおりです。人類の脳の進化は、ある時代から加速を始めたと考えられています。」
「興味深いですね。ある時代、どんなことが起こったのか、その歴史とメカニズムを紐解いていきましょうか。」
画面が変わり、CGにより作られた、空色のヒトの全身のイラストが表示され、頭部にズームする。同時に頭蓋のイラストが透け始め、脳が写し出される、さらにズームが進み、シナプスネットワークの動画へと続き、ナレーションが流れ始めた。
一瞬画角に吸い込まれるようになったところで、視界の端に溺れてもがくような手が見えて、「(しまった!)」と思った。コメンテーター横にパネルの配置をするタイミングが遅れた。立花先輩が冷たい目で肘を支点に機械的な上下運動で、置くべき位置を何度も指している。
慌てて駆け出しパネルを配置して、駆け戻る瞬間、床を踏んだ足が抵抗を失い滑らかに後方にずれた。コメンテーターの飲んた水がこぼれていたと気づいたのは、真珠色の床に倒れ込んだ後だった。
「すみませんでした!」
収録後、スタッフが慌ただしくスタジオを整理するそぞろ、立花先輩に真っ先に声をかけた。
立花先輩は、視線をキャスターに向けたまま、私がそう声をかけると眉間を狭め、ゆっくりと戻した。
「…前から思ってたけど、どうして咲は声の大きさが毎回違うの?」
ドクン、と胸が締まった。
「え?、あ…」
「急に声のトーン変えたりさ、大きな声出したり、周りの迷惑考えなよ。耳に響く、不快。」
「…すみません」
またやってしまった。立花先輩は、面倒を見てくれる人だけど、やっぱり普通の人だった。もっと気をつけるべきだった。
「ま、いいよ。結果的に問題なかったし、音も切り替わってたから拾わないし。足、やけどしてるよ、処置室行って。」
私の顔を見ない、見つめているのは私ではなく左足の膝…許して欲しい時には堪える。
「…わかりました。ありがとうございます。」
自分でも卑屈だなと感じるくらいうなだれて、さらにその角度から一礼して、処置室に向かった。
私は普通のことができない。一番感じるのは、普通の人とのコミュニケーションだ。ごめんなさいが相手に届けられないのは辛いな。明日はカウンセリングだから、今日の話をしようと決めた。