できないわたし
なぜ、私はこんなにできないことがあるんだろう?
認知というのは難しいもので、自分のことを自ら正しく発見して理解している人は本当はごく少数なんだろうと思う。私も正しく理解できていない側だった。
だって、できていない事を「気付かされた」から。
数学で先生に問題を問われたとき、体育のダンスで即興を求められたとき、友達だと思っていた人にかけるべき言葉、そんなことがある度に頭の中から黒いカタマリが生まれ私の体を包み沈めてきた。
美術部のデッサンのときに先生に言われたことを思い出す。「基礎は反覆練習の賜物よ」、そう思う。何度も何度も遭遇して経験すれば、自分を外側から見た基本的特徴が、記憶に着色されて鮮やかに描き出してくれる、残酷なほどに。
私は、普通の人ができていることができない人間なんだと。小さいときに感じていた得体のしれない怖さの正体は、年齢を重ねるにつれ正確な絶望へと変わったのを実感する。再確認したのは、一昨日…
ため息と同時に、ケトルからフシューと湯気が出て少し驚いた。ハッとして頬杖から顔をあげた動きがケトルに付いているランプの変化と連動していて、機械にまで自分の動きを誘導された気がして沈んだ気持ちに追い打ちをかけた。ポットのお湯を沸かしているときに意識が離れて記憶を再生していたみたい。余計な機能を脳に実装しないで欲しい。
ケトルに手を伸ばしたときに、注ぎ口の先に紙がなびいていることに気づいた。壁側のサイドテーブルに設置したケトルの取手を、持ちやすいように手前にしていたことで、壁側に付けていたカレンダーの端が生き物のようにカールしていた。先々月変えたばかりなのに、カドは年の瀬を感じる風合いに変化していた。どうでもいいことと思えた瞬間、意思に反して音のする息がまた漏れた。イベントで貰ったものとはいえ、貴重なパルプを使った新世紀カウントダウンカレンダーだったのに、と心が遅れて反応してきた。やっぱり頭が疲れているなと感じた。
潜らせたコーヒーの香りを吸い込み、意識を現実に戻したくて天井を仰ぎ、目を閉じた。
いつもどおりじゃないか、感情に任せて仕事でミスをするのも、職場の人から関心のない反応をされるのも。私が理性的でなく、周りに頼りすぎて、過剰に期待しすぎるからだ。これは性格だ。これで生きていくしかないんだから。
少しだけ恨みごとをいうなら、母に治して欲しかったな…先天性不可塑症なんて、いいこと何にもない。でも、このままでもいいから、母が治って欲しかったな。私ができることを褒めてくれたのに、最後は治療できなかった。何が再生医療だよ!再生してくれるのは結局「できる」やつじゃないか!。ただ一人偉いねと言ってくれた母に、できないことを嫌というほど叩き込んだ自分がとてつもなく許せない。
夜が長い感じがする。いつまで起きていたら意識を失うか、今日もソファで体と心の戦いを観戦することにした。
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