天使の話をしよう
精神科の開放病棟で、入院患者の女子中学生が「天使が横切ったの」という話を始めた。
これは、昼食後に一列に並ばされて投薬を受けていた時の出来事。
看護婦はカップに入れた錠剤とカプセルを、患者の口に詰め嚥下させた後、舌を上下させた。1日3度、囚人食のような食事をした後にこのような屈辱的な行為が行われていた。
開口および舌の上下運動は、服薬拒否者をあぶり出すためである。
同じく心を病んだ入院患者のぼくは「天使だとよ」と嫌味に笑って見せた。
列の横に立ち、無気力な牛のような我々を監視していた看護婦は、カッと眼を見開き「そんな言い方は良くないですよ」とぼくを怒鳴った。
「あなたは天使なのですか?」とぼくは看護婦に歯向かってみせた。
彼女は一寸怯んだ後に「人間です!」と返答した。
ふふ、とぼくは鼻で笑ったが、それ以上言葉は謹んだ。
入院期間が伸びた上に必要以上に人間関係をこじらせることは避けたいと思ったからだ。
しかし、天使だの神様だの言われると居てもたってもいられなかったのだ。
牛歩戦術のように、一歩一歩すすみ、ぼくが薬を飲み込む番になった。
そこにさきほどの看護婦が割り込んできて、ぼくの錠剤とカプセルの入ったカップを新人の看護婦から取り上げてこう言った。
「良いですか?さっきのようなことは言わないでくださいね!」
口調はヒステリックだった。
「はい、はい」と適当な相槌をうち、ぼくは嚥下したふりをして、錠剤ふたつを前歯の裏側にはめ込んだ。ヒステリックな看護婦の死角に入った錠剤は、厳しい監視の眼を逃れた。(ぼくはこうやってオーヴァードーズのための錠剤を貯めこんでいる)
列から離れたぼくは先程の女子中学生と手洗い場で出会った。
間が悪い気がしたので、ぼくは前歯の裏から2錠をポケットに落とした後、彼女に
「本当に天使なんて居ると思う?」と訊いた。
おかっぱ頭の、こけしのような直毛の彼女はふとぼくから視線をそらした。
2,3秒の沈黙の後。
「馬鹿かよ、じじい。嘘に決まっているだろう」と彼女は、口角をぐにゃりと上げて嫌味な口調で言い放った。
ぼくは窓ガラスの外側で体当たりを繰り返すスズメバチの警戒色が目に入ったのと、彼女の意外な返答に動揺し、即答できなかった。
そして、ついに吹き出してしまった。
「…だよねぇ」とぼくらは、一緒になって盛大に笑った。
ヒステリックな看護婦は、その様子を遠くから睨みつけ、パタパタとナースシューズを鳴らしながら手洗い場に近づいてきた。
「今度、天使の話をしよう。」とぼくは彼女に手を振り、その場を立ち去った。彼女は小悪魔のようにほほえみ手を振り返した。