理想の恋人
「あのさ、中学の時に、大崎先輩と付き合っていたって本当?」
学校帰りに寄り道したドーナツ屋さんの一角で、智紀が真剣な眼差しを向けて訊いて来た。
「んっ、んー? どうだったかな?」
「誤魔化さないでよ。誤魔化すって事は、そうなんだね?」
私は、ちょっと溜息を吐いて、智紀の鼻をツンと突いた。
「今は智紀が好きだよ。大好き」
「子供扱いしないでよ」
憮然として鼻の頭を擦る智紀。
「隠してた訳じゃないよ。普通、そんな昔の事、一々彼氏に報告しないでしょ」
「そうなの?」
「そうだよ。常識だよ」
大人ぶって、返事をしてみた。
「僕は佳音が初恋なのに……」
拗ねたみたいに唇を尖らせる智紀を見ていたら、申し訳ない気持ちになって来た。心の中で「ごめんね」と、言ってみた。
「気になるの? 智紀」
「うん……。だってさ、大崎先輩って、生徒会長やってたし、推薦でW大に進学決まったって聞いたよ。エリートでしょ。僕、佳音より歳下だしさ……」
大崎先輩でもダメなら、僕なんてもっとダメじゃん。と、真顔で語る智紀を見ていたら、微笑みが溢れてしまった。
「私が振られたんだよ。」
「…………。それは嘘でしょ? 佳音が振ったって聞いた」
誰から?
「大崎先輩クラスだと、ファンみたいな子達が居るじゃない。その子達から言われた。大崎先輩を振って僕と付き合っているなんて、佳音は変わり者だって。」
その言葉を聞いて、胸が締め付けられた。それから猛烈に腹が立ってきた。私は何と言われても良い。でも、智紀を傷つけるなんて……。
「誰が言ったの? そんな失礼な事。私、怒って上げる」
「や、止めてよ。佳音は僕のお姉ちゃんじゃないでしょ」
それから、少し、二人は無口になって、コーヒーを一口啜った。私は思い付いて、ドーナツを一口分千切り取った。智紀は色んな味を試したがるので、いつも一口分上げるのだ。
「はい。アーン」
「い、いらないよ。子供じゃないんだから」
それなのに今日は、少し意固地になって断って来た。照れる智紀の口の中に、ドーナツを押し込んで上げるのが、楽しみだったのに……。行き場を失くしたドーナツのカケラを抱えて、私は途方に暮れた。
「やだ……」
「えっ?!」
「食べてくれなきゃイヤだ。食べて智紀」
「ええっ?! 子供みたいだよ、佳音」
周囲の目を気にしながらも、照れ臭そうに口を開けてくれる智紀。その口の中にドーナツを……。
「おいしい?」
「う、うん……」
視線を逸らしながら返事をする彼を見て、ジンワリとした幸せが胸に広がった。こんな幸せを、先輩はくれなかった……。
勉強を見て上げる。と、大崎先輩はよく言っていた。そんなに成績は悪くなかったけど、それは先輩の厚意だと思っていた。私を大切に思ってくれているからだと……。
ドーナツ屋さんを出ると、まだ夕方だというのに、真冬の空は薄らと暮れかかっていた。
「智紀はさ……。」
二人で肩を並べて、河川敷を歩きながら、何気に訊いてみた。
「智紀は、私が綺麗だから付き合いたいと思ってくれたの?」
「綺麗って、自分で言っちゃうの?」
綺麗な子だと、昔から言われて来た。傲慢に聞こえるかもしれないけど、綺麗である事は私に自然に備わっている性質で、意識した事など一度もなかった。それがいけなかったんだと思う。
「綺麗だから交際を申し込んだんじゃないよ。そうだなあ、佳音と付き合いと思ったのは……」
智紀は、沈んでいく夕陽の中に、答えが書いてあるかの如く、太陽を見詰めながら、一つ一つ言葉を発していた。
「見てるとなんかワクワクした。気分が高揚して……」
「それって狩猟本能とかじゃなくて?」
先輩は「君が寂しそうな顔をしていたから」と言った。その頃は知らなかったけど、男の子は皆んなそう言うみたいだ。世界中の女の子は皆んな寂しくて、笑顔にしてくれる王子様を待っている……。
「智紀〜!」
明るさを装って、智紀の頬っぺたを指先でツンツンしてみた。情緒不安定だと思われるかもしれないけれど、そうせずにはいられなかった。
「もお、止めてよ。」
智紀は私の指を払い除けながら、頬を膨らませる。可愛いと思う。
「ねえ、あのさ……」
智紀は何か言い掛けて、口を噤んだ。
「なあに?」
意を決した顔をしたクセに、また俯いてしまった。
「大崎先輩と……」
ああ、なんか分かってしまった。
「キスはしたよ……」
「!」
そんなにショックを受けた顔をしないで。
「あの頃はあの頃で、一生懸命先輩に恋していたの。それを過ちだって責められても、過去は消せないよ」
智紀は「そんな事分かっている」って表情で、でも心の奥深い所で何かが引っ掛かるのか、盛んに頭を振りながら、土手に腰を下ろした。
「キス……だけ?」
見上げて聞いてくる智紀に、目線を合わせる様に、私も腰を下ろした。
「中学生の時だよ。それ以上なんかないよ」
先輩は望んだけれど、私は許さなかった。いつからか、どこからか、私はあの人に一線を引き始めていた。自分の全てを委ねる気にはなれなかった。
「そっか……」
「ホッとした?」
「…………」
「それとも……がっかり?」
智紀は多分キスをした経験なんかないだろう。他の男に唇を許した女。それが十五歳の男の子にとって、どう映るのかは私には想像出来なかった。
「ごめんね、フシダラで……」
「…………」
「…………嫌になっちゃった?」
ここで涙でも落としてみせれば、マシュマロみたいに柔らかい優しい心を持った智紀は、慌てて私を慰めるだろう。この話を無かった事にしてくれるだろう。でもそれは出来ない。それは彼の私への想いに対して誠実ではないと思った。
だから私は零れ落ちそうな涙を必死に堪えた。
「私……どうしたらいい?」
「えっ、いや、なんにもしなくて良いよ」
「キス……する?」
「いやいやいや。この状況でしたら、佳音を脅迫したみたいでイヤだよ」
智紀はスッと立ち上がった。
「ごめんね。僕、頭が自分の事ばかりになっていた。佳音を追い詰めたり、傷付けたりしてたんだね。ごめんなさい」
まだ座っていた私に、智紀は手を差し伸べた。もう消え行かんばかりになっている陽の光、逆光の中に映える彼の笑顔が、とても美しく見えた。
中学校二年生の秋、幼い時からズッと友達だった飼い猫のニケが死んだ。私は勉強も手に付かなくなって、成績を随分落とした。二重のショックで気を落としていた私に、先輩は快活に言い放った。
「猫が死んだくらいで勉強が出来ないなんて、甘えているんじゃないのか。世の中には勉強したくても出来ない人達がいっぱい居る。今度はもっと頑張ろうよ。」
ポジティブな言葉で他人を傷付ける。そういう人だった。恋の魔法が解けると、私は先輩の言葉の裏が悉く分かるようになっていった。
女の子だから多少鈍臭くてもいい。でも、俺の彼女なんだから馬鹿では困る。顔とスタイルは良い自慢の……。
自慢のトロフィーなんだから。
「日が暮れちゃったね」
「…………」
「佳音?」
返事をしない私の顔を、智紀が覗き込んだ。
「私、智紀の事大好きだよ」
「う、うん」
「信じてくれてる?」
「もちろん」
そうは言っても貴方は、私の愛がどれくらい深いかは知らないでしょう。
「僕さ、もっと勉強頑張るよ」
「おっ、良い心掛けだね」
「生徒会長は無理かな……。でもW大くらいならなんとか……」
おかしい、先輩と張り合っているんだ。
「智紀、可愛い」
「もおぉぉぉ、それ止めてよ。可愛い、可愛いって」
「昔飼ってた猫に似てるかな」
「えっ、猫扱い?」
ニケは私の感情の起伏に敏感だった。実の親からさえも、表情の無い子と言われていた私。そんな私が悲しい時、辛い時、常に寄り添ってくれていた。
いつものように、互いの家に向かう分岐点まで来て、私達は名残を惜しんで、手と手を取り合った。
「じゃあ、佳音。また、明日」
手を振って行こうとする智紀。
「キスはしなくて良いの?」
「えええ、勘弁してよ」
智紀は、焦った様子で周りを見渡した。結構な人通りだ。
「うふふふ。じゃあ、また明日」
自分でも驚く程、優しい笑みが浮かんだ気がした。
「う、うん。明日ね」
智紀も微笑みながら、遠去かって行く。その後ろ姿を見えなくなるまで見送りながら、私は考えていた。
智紀とキスをして、それ以上の事をして、そして彼と結ばれるのだろうか。
そうなって欲しい。と、強く願った。
『君が大好きだよ、智紀』
でも君はお馬鹿さんだから、きっと私の君への思慕が、どのくらい色濃いものなのか、一生気付きはしないんだろうな。
智紀の姿が、下り切った夜の帳の中に消えた。私は回れ右をして、自分の家へと歩き始めた。