第三章 -A boy meets- 記憶
ティアレお手製の鏡越しに、慣れているはずなのに、全く慣れない自分の顔をいじくり回してあれこれ確認してみる。
念の為に、腕を回してみたり、その場で軽くジャンプしてみたりもしてみた。
原因や理由はこれっぽっちも分からないけど、どうやら今の僕の肉体年齢は、大体15歳前後まで戻っているらしい事だけは分かった。
それが分かったからと言って、そこにどんな意味があるのかも、そのヒントすら見当も付かなかったけど……。
とりあえずこの事に関しても、僕はあまり深く考えるのをやめた。
ただの現実逃避とも言えるけど、そもそもこんな風に、僕が知る現実から遥か遠くかけ離れた状況で、いくら何を考えた所で正直どうする事も出来ないし、何か対処法があるとも思えなかった。
下手の考え休むに似たりってやつだ。
もしこれが例えば80歳の体になっていた、とかなら色々考えなきゃいけない事も山積みだけど、15歳に戻ってる分には、今すぐにどうこうしなきゃいけない問題があるとも思えない。
決して両手放しで喜べる状況ではないけど、当面は若返った体と、最近すっかり衰えを感じていた体力を取り戻した事を、素直に喜んでおこう。
元々僕は基本的に楽観主義なのだ。細かい事は置いておこう。(全然細かくないけど)
「それで……完全に聞くタイミングを逃しちゃいましたけど」
「はい?」
「えっと、あの……あなたの名前をまだ聞いてなかったなって」
「あ……」
完全に頭から飛んでいた。
あまりにも情報過多すぎて、色々と脳の処理が追いついてなかったみたいだ。
よく考えてみれば、滅茶苦茶失礼な事をしてしまった。
「ホント~~~にすいません。まだ色々と頭が混乱してて、大切な事を飛ばしてました」
「いえいえ、そんな謝らなくても。そこまで大袈裟な事じゃないですよ」
「いや、一方的に聞くだけ聞いといて、自分が名乗ってないとか。むしろお前が先に名乗るのが筋だろって話だし」
「いえ、何か事情があるのは分かりますから。それに、別に私もそんな筋とか気にするようなタイプじゃないので」
二人してアタフタと、謝ったり恐縮したりしている内にふと目が合う。
そこで急にお互い何をやってるんだと我に返って、思わず吹き出してしまう。
自分で思ってた以上に、僕は意外と切羽詰っていたらしい。
二人でひとしきり笑った後
「何してんだろうね」
「そうですね。私達何をしてるんでしょうね。でも名前を教えて欲しいのは本当ですよ。知らないままじゃ色々と不便じゃないですか」
そう言って彼女は、右手の人差し指を立てると、ウィンクと共に少しだけからかう様に笑った。
(天使だ……。やっぱり完全に天使だ)
「いち……」
「いち……?」
(いや、待てよ……)
こっちに来てから出会ったのは、まだティアレ一人しかいないわけだけど、(あのスライムに名前があるのかどうかは別として)『ティアレーシャ=ルスク=コドレー』って名前を聞く限り、『市原太一』なんてコテコテの日本人名が、すんなり受け入れられる世界なのかどうかが分からない。
もちろん向こうの様に、国や地域によって名前も特徴があって、この世界のどこかにも、日本人みたいな名前が普通の場所がある可能性もある。
でも、まずこの世界がどれぐらいの規模なのかが分からないし、第一実際にそういう地域があったとしても、果たしてそれぞれの地域で頻繁に交流があるような世界なのかどうかも分からない。
場合によっては絶賛鎖国ブーム中、なんて可能性も無いとは言い切れない。
「……いち……、イッチー……。僕のことは、イッチーと呼んでください」
「はい、分かりました。イッチーさんですか。……珍しい名前ですね」
笑って珍しい名前で流してくれる程度には、そこまで怪しい名前ではなかったみたいだ。
「あ、でも別にイッチーでもいいですよ。さん付けで呼ばれるの慣れてないんで」
これは本当だ。
あだ名にさん付けもどうかとは思うけど、ごく一部の仕事の後輩と、あとはせいぜい東風庵のエリちゃんぐらいだろうか。
思い返してみても、僕の人生の中で、市原さんや太一君なんて呼ばれた記憶はほとんどない。
いてもせいぜい、イッチーさんやイッチー君だ。
「じゃあ私もティアレ、でお願いします。実は私も、さん付けで呼ばれるのって慣れてないんです。あ、でも私の方はイッチーさんにしておきますね。そっちはもっと慣れてないので、ふふっ」
(そう言えば、あまりにも同じ言語体系で、意識すらしてなかったけど、敬称の感覚も一緒なんだな)
でもこれに関しても、恐らく今ゴチャゴチャ考えた所で、何も答えは出てこないだろう。
考えてもどうしようもない事は、とりあえずスルーしておくに限る。
「そっちは任せるよ。呼びやすいように呼んでくれたらいいから。それじゃあティアレ……さん、改めて助けてくれてありがとう」
「ふふっ、それはもう聞きましたよ。どういたしまして」
柔らかく微笑んで、ティアレの方も軽く頭を下げてくれる。
本当に良く出来た子だ。
「あっ、それはいいんですけど、ところでイッチーさんは、どこに向かってるんですか?」
「えっ!?」
考えてなかった、と言うより考えようがなかった。
更に言うと、その辺りを考える為に必要な情報すらなかった。
「え~~っと……。どこ? どこなんだろう??」
半ば自問自答のつもりだったけど、どうやら無意識の内に口から漏れていたらしい。
「えっ、それって……まさか、記憶が??」
「……はい?」
どうやら記憶喪失か何かだと思われたらしい。
(でも待てよ……。確かに正確に言えば、もちろん僕は記憶を無くしてるわけじゃない。ただしそれはあくまで、40年近い向こうでの記憶の話だ。それは今ここにいる僕にとっては、大して役にも立たない記憶と知識だ。それは言ってみれば、記憶喪失と状況的にはさほど変わらないんじゃないのか?)
「ん~……。何て言うか……、記憶が混乱してると言うか……。自分の名前は分かるわけだから、綺麗サッパリ全部忘れてるってわけじゃないんだけど……。でも肝心な事は思い出せないと言うか……」
命の恩人でもあるこの子に対して、隠し事をする後ろめたさは確かにあった。
けれどそれと同時に、少なくとも嘘はつきたくないっていう気持ちがあったのも事実だ。





