ただいま!
幼稚園の頃にテレビで、『サンタクロースは煙突から家に入ります』とお姉さんが解説をしていた。
家に煙突ないじゃん。ミカちゃん家だってトモコちゃん家だって煙突なんかないよ。
そう思っていたら、ふさふさのサンタクロースみたいな髭を生やしたおじいさんが画面に映ってこう付け加える。
『日本の家は煙突のある家はあまりないので、ベランダからも入れるんですよ』
私は隣でみかんを食べていた母に聞く。
『ねえ、うちには、ベランダないよね? サンタさんはどうやって入ってくるの?』
母はみかんを食べながら、あっさりとこう答える。
『玄関から入ってくればいいでしょ。鍵かかってないんだから』
それはそうだ、と納得したと同時に、どうも腑に落ちなかった。
なぜなら、我が家は築七十年の木造二階建てという、ゴリゴリの日本家屋だったからだ。
日本家屋とサンタクロースは不釣り合いだ。
そんな十年以上も前のことをなんとなく思い出し、私は目の前を見る。
眼前にあるのは、白っぽい石が積まれてできた門。
門をくぐれば、庭から玄関まで細い石の小道のように続いていた。
家の外観は、門と同じく白っぽい石に明るめのオレンジの屋根。
木製の玄関ドアは温かみがあって、上のほうにはスズランの花のような形のライトがある。
全体的にオシャレで、カフェでも開けそうだ。
「あーあ。こんな家に住みたいな」
私はぽつりと呟き、左手に持ったカバンからチラシを取り出し、その家のポストに入れる。
表札には佐藤さん(ローマ字表記だから漢字は違うかも)と書かれてあるのがちらりと見えた。
きっと佐藤さんは、幸せな暮らしを送っているんだろうなあ。
私はため息をつきながら、家から離れ、そのまま隣の家に移動。
見とれてしまうほどの家が立ち並ぶ新興住宅地。
私はここに、ため息をつきにきたわけでも、家を建てる下見をしているわけもない。
チラシを入れるポスティングのバイトをしているだけだ。
儲かるバイトでもないし、交通費出ないし、住宅街とかマンションがないと時間だけかかるしで正直割りの良いバイトではない。
それでも私がポスティングのバイトをしているのは、無料で新築のオシャレな家が眺め放題だからだ。おまけにお小遣い稼ぎにもなる!
……そう思ったんだけど、始めて一週間するとため息しか出ない。
しかも、春の風は思ったよりも冷たかった。
バイトを終え、家に戻り、車を庭の柿の木の隣に止めて、それから改めて我が家を眺めた。
ガラスのはめ込まれた引き戸の玄関、やたらと大きな窓がある縁側、二階はあるもののベランダなぞない。
屋根はもちろん屋根瓦だし、引き戸や窓枠の木は、雨風にさらされて色あせて変な色になっている。
築八十年を超えた我が家は、いつ見てもオンボロ。
私は何度目かわからないため息をついてから、玄関を開ける。鍵などない。とっくの昔に壊れて今はノーガードである。
「ただいまー」
私は言いながらスニーカーを脱いで、居間に入って腰を下ろす。
和室には不似合いな大型テレビは誰もいないのにつけっぱなし。
カバンからスマホを取り出し、操作するものの、メッセージも着信もなかった。
いいのか、十九歳。
まだまだ青春真っ最中だっていうのに、彼氏どころか友人もいない。
「友だちはいないわけじゃないけど」
そう自己フォローをしてから、友人の顔を思い浮かべて打ち消す。
「結婚したい」
晩ご飯の最中、私がそう言うと、両親も弟も驚くどころかこちらを見もしない。
「お母さん、なんかさー、いないのー? 友だちの息子とかー」
無視されたことでムキになって、母に話を振る。
「はあ?! いないわよ! あんたまだ十九歳でしょ? まだ先でいいじゃないの」
母はなぜかケンカ腰でそして他人事のように言うと、肉じゃがに箸を伸ばした。
「雛子は、結婚したいんじゃなくて、新築の家を持っている人の家に住みたいだけだろう」
父が呆れたように言う。
味噌汁をすすっていた弟が口を開く。
「そうそう。大体さあ、専門学校二年目で辞めてフリーターの姉ちゃんを誰が好き好んで嫁にもらうんだよ」
「え、だから専業主婦になるし」
「あんた、じゃあ家事しなさいよ」
母がそう言って私を見る。
ああ、話が変な方向にそれてしまった。
私は何も答えず、たくあんを口に入れた。
私の結婚したい熱は、新築の家に住みたい願望だけではない。
そう自分に言い聞かせながら、蛇口をひねる。
狭いシンクには、茶椀やら皿が溢れそうだ。
食器洗いをしながら、私は先週、友人から告白された話を思い出す。
高校時代から頻繁に連絡を取っているのは、綾乃だけだ。
綾乃は高校時代から結婚願望が強くて、二十歳で結婚したいと口ぐせのように言っていた。
それが、叶いそうだと先週、告白されたのだ。
『彼氏にね、私が二十歳になったら結婚しようって言われたんだ』
嬉しそうに報告してくれたのだ。彼氏は七歳年上の社会人。
聞けば大企業勤めらしい。
なんだか、綾乃がどんどん遠くへいってしまうような気がした。
だから私も結婚をしたいと言い出したのだが、これはこれで友だちの持ってるおもちゃが欲しいとねだる子どものようだ。
ようやく自覚して、ちょっと反省。
でも新築には住みたい。
「あんた、結婚したいなら」
食器洗いがあと少しで終わるというところで、母が話しかけてきた。
「え?」
振り返ると、母が「ほら、あの子、利口そうな顔の」と何かを必死で思い出そうとしている。
「何の話?」
「あんたと小学生の時によく遊んでた子。名前なんだったかしら」
「え? ミカちゃん?」
「男の子。女の子みたいな名前の子」
母の言葉に、私は「ああ」と呟く、懐かしい顔がぽんと思い浮かんだ。
「楠木碧でしょ」
「あーあ。その子!」
「楠木がなに?」
「楠木君、結婚相手にいいじゃない? 独身みたいだし」
母がニヤリと笑うので、私は聞いてみる。
「なに? 会ったの?」
「今日、スーパーで買い物してたのよ。わざわざ向こうから挨拶してきてねえ。礼儀正しくていい子じゃないの」
「そうかもしれないけど」
私はそこまで言うと、食器洗いを再開する。
母は「あ! やだもうこんな時間! 『相某』始まってる!」と慌ただしく居間に戻った。
皿についた泡を水で流しながら、私はぽつりと呟く。
「楠木、随分と会ってないなあ。まあ、合わせる顔がないけど」
狭い湯船に膝を折って浸かりながら、ふうと息を吐いて顔を上げると腐りかけの天井が見える。
天井の隅には、大きな蜘蛛が巣を張っていた。もう最近では天井の一部と化してしまっているようだ。
私の体のすぐ横は青いタイル張りで、あちこちが剥がれて、その隙間から蟻が入ってくることも多々ある。
テレビとかネットで『古民家カフェ』とか特集されてるし『古民家住みたい』って言ってる人もいるけど、実際に子どもの頃から住んでる私からしてみれば、じゃあお前の家と交換してくれ、と思う。
家、築八十年だから古民家じゃないけど。
和がいい。古いものがいい。
気持ちはわかるけど、そういうのは、外から眺めているだけで十分だ。
私は現代の技術をふんだんに使った便利な家に住みたい。
せめて鍵がかかって、お風呂とトイレは家の中にあって、エアコンがついている家がいいなあ。
不便だし、友だちを呼びにくいんだよね。まあ、今、友だち一人だしその友人は結婚しそうだけど。
『お前んちトイレと風呂が外にあるのー? 変なのー!』
小学生の時に、そうやって男子にからかわれたことをふと思い出した。
『お前は今も母ちゃんと一緒じゃなきゃ寝られないんだろ。そのほうが変だろ』
そう言って庇ってくれたのは、楠木碧だった。
楠木とは、それなりに家が近い。
車で十分もかからない距離だけど、学区内に住んでいるというだけでご近所さんと言えるほど近くもない。
私と楠木は、小学一年生の頃からよく遊んだ。ブランコでどれだけ高くこげるか競ったり、ジャングルジムの早登りとかやった。
楠木は、いわゆる、アイドル系の顔で女子にモテていたっけ。
だから、楠木と仲の良い私は、女子にちょっと嫌がらせなんかもされたけど、無視をした。
そんなことは、私の中で些末なことだったのだ。
だけど、小学五年生の終わり頃に、楠木とブランコをこいでいたら彼がこう言った。
『俺の家、建て替えしてるんだ』
私がブランコを止めたので、楠木は慌ててこう付け加えた。
『いや、だからさ、すげー不便で。俺は別に古い家のままでいいと思うんだけど』
その言葉にカチンときたのだ。
余裕ぶってんじゃねーよ! 新築とか羨ましいじゃねーか! 自慢するなよ!
色々な感情がわきあがって、私はそれを楠木にぶつけた。
『あんたなんか大嫌い!』
自分が悪いことなんて重々承知だけど、謝る機会をずるずると逃し、そのまま中学では余計に話しかけずらくなって、そのまま高校は別々で。
今の今まで、会ったことがない。
町内に住んでたって、偶然に会うって機会が少なくて、ホッとしている自分がいる。
噂をすれば影、というけれど、昨夜の噂にも適用するのか。
母が昨日行ったスーパーに来たら週末の人の多さにも関わらず、そして昼前という微妙な時間にも関わらず、遭遇するものなのか。
私はそんなことを考えつつも、目の前に立っている男性を見る。
身長は随分と高くなったし、手足も長いし、全体的にすらっとしてるから一瞬、誰だかわからなかった。
「おお、藤咲、久しぶり」
そう言って、驚いたような顔をしたまま、挨拶をしてきたのは、楠木だった。
顔は、昔と変わらず、くりっとした目に通った鼻筋、大きめの口で、小学生女子たちが黄色い声を上げた面影はバッチリと残っている。
ついでに夏休み明けの小学生男子みたいに日に焼けた肌も健在。
変わらない姿に、ホッとしたような、嫌な思い出がよみがえってくるような。
私はもやっとした気持ちを抱えたまま、とりあえず挨拶。
「ああ、うん。久しぶり」
それだけ言って、視線は棚のほう、牛乳パックへ向けた。
「昨日さ、藤咲のおばさんに会ったけど、まさか今日は雛ちゃ――藤咲娘に会えるとは思ってなかった」
楠木がさらりと訂正したが、なんだか藤咲娘って林檎の品種の名前っぽいな。
そんなツッコミはできないまま、私は「そうだね、偶然だね、じゃあ」と話を切り上げる。
そこまで仲良くない親戚と正月にばあちゃん家で隣同士の席になったくらいの気まずさに耐えきれず、私は踵を返す。
私が一歩、足を踏み出したところで。
「あのさ、藤咲」
背中にぶつけられた楠木の言葉に無意識のうちに立ち止まって、振り返る。
楠木は、視線を足元に落としてから、こちらを見て勢いをつけるかのように言う。
「ライソとか、やってる?」
「うん、まあ」
「あの、IDとか、教えてほしいんだけど……」
なんのために。
そう思ったけれど、断る理由もないのでIDを交換した。
家に帰ると、私は自室へ引きこもった。
自室と言っても、もともと二階にあった物置きで、窓もなけりゃドアもない。
おまけに部屋の右脇が階段なので、二階に上がってくる家族から丸見えになる。
でも、六畳の和室を弟とつかうなら、物置きのほうがマシだ。
そんなわけで、元物置のプライバシーもへったくれもない自室で、私はスマホを眺める。
「どうしろっちゅーねん」
私はスマホを座布団の上に置いて、それから再び画面を見た。
楠木にライソのIDを教えて二時間。
世間話をしていたと思ったら、突然、『来週末、ひま?』→『ひまだけど』→『じゃあ映画に行かない?』と誘われたのだ。
これはデートのお誘いというやつなのか。
もし、そうだとしたら、楠木と付き合うことになるのかな。
ああ、でもそうしたら楠木の家にも行くことができるのか。年数的には新築ではないけれど。
でも家よりも新しい。
何度か車で彼の家の前を通ったことがあるけれど、カフェかと思うくらいにオシャレな家だったなあ。
それは是非、行ってみたい。
私は拳をぐっと握り、それから楠木に返事をする。
いいよ、とOKの返事。
ハートマークなんかもつけておいた。
もう四月だというのに、我が家は朝と夜は冷え込む。
隙間風が入り放題だから、こたつは必須アイテムだ。
こたつに入りながら、私はスマホを握りしめていた。
あれから――楠木とラインのIDを交換した日から三日が経過し、楠木と頻繁にメッセージを交換している。
楠木とのメッセージのやりとりは純粋に楽しい。
彼は、昔のケンカなど忘れているようで、お互いに色々な話をした。
楠木とのメッセージは、私にとって欠かせないものとなっていた。
たった三日のやりとりだけだけど、子どもの頃は友だちだったんだし。
それに、楠木は、どうも私のことを好きっぽいし。
そんなことを考えていると、頬が自然と緩んでいく。
一人で居間でニヤニヤしていると、聞き慣れた電子音。
がばっと顔を起こしてスマホを掴んで操作すると、メッセージの相手は綾乃だった。
ちょっとしょんぼりつつも、内容を見る。
最近、再会した人の家は見れた?
最近、再会した人というのは、楠木のことだ。
彼女には全部、話してある。
私はすぐに返事を返す。
ううん。まだ。早く楠木の家を見たいよ。そのために映画OKしたようなもんだからさー。
そんな暴露話を綾乃に返信した、はずだった。
送信した相手が、楠木だということに気づいたのは、メッセージを送った直後。
「え?! 間違えた! えっと、削除、削除」
私がもたもたしている間に、既読の文字がつく。
ダメだ。楠木が読んだあとじゃあ消しても意味がない。
私は大きな大きなため息をつき、楠木からの返事を待つ。
金曜日の昼過ぎ。
私は、見知らぬ住宅街に来ていた。
左手にバッグを下げて歩き始めると、両サイドには、新築でおまけにオシャレな家ばかりが立ち並でいる。
でも、ポスティングのバイトでオシャレな家に囲まれても、気持ちは盛り上がらない。
だって、あれからずっと楠木からのメッセージが来ないんだから。
色々な言い訳を送信しようと思ったけれど、とにかく楠木の返事を待とうと思っていたのに。
それなのに、もう金曜日。
明日は、映画に行く日。
「もう、映画もなくなったよね……」
そう呟くと、胸が痛い。胸が痛くなると間違えて送ってしまったメッセージのことや、返事がこないことを考えてしまい、スマホを地面に叩きつけたくなる。
そんなふうにため息をつきつつ、ポストにチラシを入れようとすると、すぐそばで声が聞こえた。
「なに入れる気?」
顔を上げると、門の前で中年の女性がこちらを睨みつけている。
「え?! あの、この、チラシを」
私がそう言って怪しいものではないということを示すために、チラシを見せると、女性はそれを受け取る。
そして、中身を読みもせずに女性はチラシをぐしゃぐしゃに丸めた。
「ゴミ」
それだけ言うと女性はこちらに丸めたチラシを投げつけて、さっさと家に入った。
ぽかん、としてから私は地面に落ちたチラシを拾う。
そして、レンガ風の造りのかわいらしい家を睨みつけた。
こんないい家に住んでるくせに、心が汚い!
私は「いいよーだ! もう来ない!」と家に向かって行って、そのまま走り出す。
気を取り直して隣の家のポストにチラシを入れようとしたら、大きな犬にものすごく吠えられた。
驚いて私はそのまま逃げ出す。
なんだか、ここの住宅街の人がみんな、さっきの人みたいに思えてきた。
やけに閑静な住宅街だからこそ、怖い。
しかも、どこからか視線を感じる気がする。
私は、たまらずその場から逃げ出した。
真っ直ぐずっと走ったところで、行き止まりになる。
はあはあ、と肩で息をしながら、目の前の家を見て思わずため息がもれた。
まるで絵本から飛び出してきたような、かわいい外観の家があったからだ。
いや、住宅街だけど、ここはカフェなのかもしれない。
看板などは何もないし、表札はちゃんと『鈴木』とローマ字で書かれてある。
「じゃあ、民家か」
私はポツリと呟き、鈴木さんの家を眺める。
今まで、色々な家を見てきた。
その中に、オシャレな家は沢山あったけれど、今まで見た家の中で、どの家よりもセンスがいい。
絵本から飛び出してきたような雰囲気があるけれど、屋根も壁も窓もドアも、色はかなり地味だ。
それでも、丸枠の窓とか壁の下の方だけが明るめのレンガ風の造りになっているとか、庭にある小物の北欧っぽい感じとか、そういう細かい部分のセンスが光っている。
きっと、この家にはすごくセンスが良くておしゃれで、幸せの塊のような家族が住んでいるのだろう。
そうであってほしい。さっきのゴミおばさんみたいな人だとは思いたくない。
すると、玄関のドアが開いた。
男性が姿を現したので、慌てて立ち去ろうとしたら、声をかけられる。
「もしかして、家を見てた?」
「ごめんなさい!」
「うれしいよ」
予想外の優しい声に、私は男性の方をゆっくりと振り返る。
男性は穏やかな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
歳は、三十代後半……いや、四十代かもしれない。
ぱっとしない雰囲気の人だけど、穏やかな笑顔と優しい口調が、神様のように思えた。
「ねえ、中もついでに見ていかない?」
「え?! それは、その、ちょっと、お邪魔ですし」
「そんなことないよ。家族も喜ぶよ」
男性は、うれしそうに微笑んで、玄関のドアを開ける。
家族がいるなら、大丈夫かな。だって、こんな素敵な外観の家の内装、見られる機会はそうそうないもん。
「じゃあ、少しだけ、お邪魔してもよろしいでしょうか?」
私の言葉に「どうぞ」と男性が頷く。
家の中に入れてもらうと、そこはもう別世界。
落ち着いたカフェっぽいインテリアで統一されているのに、ソファや椅子にぬいぐるみが置いてあるのが気になってしまう。
インテリアというには、随分と浮いた色とデザインのぬいぐるみ。
子どもが遊んだ後かな。それにしては、子どもの姿も、それどころか人の気配がない家だ。
「あの、ご家族は」
私がそう聞くと、男性は驚いたように言う。
「いるじゃないか」
男性はそう言うと、ぬいぐるみをさす。
「え、ああ、お子さんのものですか?」
「いや、あれは妻だよ」
男性はそう言うとペンギンのぬいぐるみに向かって、優しく話しかける。
「ほら、お客さんが来たよ」
何の冗談だろう。おもしろくない。
私が苦笑いをしていると、男性はソファーの上のうさぎのぬいぐるみに向かって言う。
「この子が、息子です。やんちゃ盛りなんですよ」
「あの……」
「妻の隣にいるのが、娘です。反抗期で参ってるんですが、妻とは仲良しなんですよ。これだから男親ってのは寂しいもんですね」
男性が、うれしそうに言う。
娘だと男性が言い張っているのは、ブタのぬいぐるみだ。
冗談だよね、冗談だと言ってくれ。
「私、そろそろ、帰ります」
そう言ったところで、男性に腕を掴まれた。
全身から血の気が引いていく。
「まだ、二階に生まれたばかりの子がいるんですよ」
「いいえ、あの、もう、お邪魔ですから」
「見ていってください」
男性がにっこりと微笑むが、目の焦点が合っていない。
私はようやく、この家に入ってはいけなかったんだと後悔した。
掴まれた腕を振り払おうとしたら、余計に力を入れられる。
恐怖に耐えきれず、私は力いっぱい叫んだ。
「助けて!」
私の声に、男性が驚いたような顔をして、それから何かを言いかける。
その瞬間。
インターフォンの音が辺りに響く。
男性が玄関のドアを開けたところで、私は外に飛び出した。
目の前にいたのは、楠木。
「行くぞ!」
楠木はそれだけ言うと、私の手を引いて走り出す。
「バカ!」
随分と走ってから、ようやく立ち止まった彼の第一声はシンプルなものだった。
「ばか、って……」
「バカだよ! とことんバカ! 他人の家に入るか? 普通? しかも男だし」
「だって家族いるって言ってたし……」
私はそう言って俯く。
「いなかっただろ! もし、いたとしても変な一家だったらどうするんだよ?!」
「そうだよね……」
私がそう言って黙り込むと、楠木はため息をついてから、続ける。
「まあ、でも、藤咲だしな」
「どういう意味?」
「新築の家とかオシャレな家が好き過ぎて、ポスティングのバイトするくらいってこと」
楠木がそう言って呆れたように笑ったので、私は言う。
「ごめんね。ライソで酷いこと、言った」
「うん。傷ついた。で、デートはキャンセルだってメッセージ送ろうって決意したら、またスーパーで藤咲のおばさんに会って、バイトだって聞いた。場所も聞いた」
「それで、来たの?」
「直接、言いたいこと言ってやろうと思ったけど、チラシを丸めてぶつけられてるところ見て、可哀想になって、さっきの家を見てる藤崎を見て、ああ、本当どうしうようもねえなって」
「うん。本当ね」
私がそう頷くと、楠木は優しい声で言う。
「だから、俺が守ってやらなきゃな、って思った」
「は?」
私は顔を上げて、楠木の顔を見た。
途端に照れくさそうに右手で自分の顔を隠す楠木。
指の隙間から見えた頬は苺みたいに真っ赤だった。
鼻歌混じりに車から降り、オンボロ我が家を眺める。
涙が出そうなくらいに古い。
だけど、私はこの家のおかげで新築に執着して、おまけに今日めでたく彼氏もできた。
古い家だって、悪いことばかりではない。
玄関の引き戸を開けると、家族の笑い声が聞こえる。
家は古いし不便だけど、ここには温かい幸せがあるんだ。
私はそんなくっさいことを考えて、大きな声で言う。
「ただいま!」
<終>