ユリア湖!
置時計の低音の鐘の音が、朝六時を報せた。
俺は、パッと目が覚め、すぐに上体を起こして念力で置時計の音を鳴らすスイッチを切る。
そして、悶々とした頭を振り払い、おもむろに布団を剥がした。
旅には荷物になるからと、寝間着の類いは持たない。
とは言え、外で着る服を着たまま寝ると寝苦しいから、俺は基本的に下着の様な薄手の甚平の様なものを着て寝ているのだが、今朝は余程寝相が悪かったのか、前重ねの左右の結び目がほどけて、肩もはだけた格好になっていた。
ふと視線を下に向けて、感慨に更ける。
我ながら見事に割れた腹筋と、力を入れたらピクピク動かせる胸筋に、これまでの苦労が表れていた。
この世界に来るまでは、贅肉と言うものはそれほど無かったものの、ここまで筋肉質な肉体は持っていなかった。
日々、トレーニングをしてきた成果が、体には確実に実っていた。
しかし、その肉体を手に入れるまでは、地球ではあまりお目にかかれない努力が必要だった。
なぜなら、実はイーシスは、地球と比べて重力が幾らか弱いのだ。
つまり、運動するにも体が軽い上に、物を持っても地球と同じ材質、質量の物が地球で持つよりも軽いのである。
その分、イーシスでは筋力トレーニングに地球よりも多くの労力が必要になる。
とは言え、イーシスは地球に比べれば原始的で、町から町までの間には人の住む家など極めて希にしか無く、新たな町まで行くのに一日に何十キロも歩かされる事が当たり前だった。
おかげで、現代日本でヌクヌクと育った俺のやわ肌では、靴擦れやマメ、水膨れや肌擦れが酷くつきまとうのだった。
足の裏はもちろんの事、肌擦れ等は腰回りや首回りを始め、地球人では一部の人しか味会わないであろう、内股の股擦れや脇まで当たり前の様にあった。
擦りむけて再生した箇所は肌が黒く変色しているから、恥ずかしくてあまり肌を露出したくはない。
これでも幾らか肌も厚くなり、最初の頃よりは痛みは少ない。
今朝も、擦りむけた箇所の多少ヒリヒリする痛みに耐えながら、洗顔などを済ませて服を着替えた。
すると。
「お兄ちゃん、おはよ」
「若様、はよー」
「おはようございます」
ルー、カルに続いて、昨日、寝る前に旅を共にすることになったユリシアが朝の挨拶をしてきた。
「おはよう。よく眠れたか?」
俺はいつもの朝の様に、ルーやカルに加えてユリシアにも目配せして問う。
「うん。今朝もいい天気だね」
「ボクはまだ寝足りないよ」
「お陰様で」
などと三人から返ってきたところで。
「よし、じゃあ顔洗って、着替えたら朝飯食いに行こう」
俺がそう言うと。
「うん」「おっけー」「そうですね」
と三者三様に声が重なる。
俺は三人が洗顔などを済ませるまで、窓際のテーブルセットに腰を下ろして備え付けのお茶を頂いた。
そうして皆の簡単な身仕度が済むと、皆で早々と宿の朝食にありつくのだった。
その後、店が開くまでにまだ少し時間があるからと、皆で朝風呂を軽く頂き、女子の身仕度が終えるまでカルと待たされ、宿を後にして村の商店の方へ出向く。
食品店、雑貨屋、衣類・武器防具店の三件が軒を連ねた、小さな商店街の様な所が村の中心部にあり、俺達は旅の食料と、ボロボロになった衣類等を買い換え、昼前に全ての買い物を済ませた。
「……こんなところか」
衣類店を出た俺は、後から出てきた女子達に言った。
「……ええ。これで充分だと思いますよ」
ユリシアがそれに返し、ルー達も満足そうな笑顔を向けてくる。
「……よし、じゃあちょっと早いけど、昼メシを食べてから出発しよう。明るいうちにユリア湖を囲む森の手前まで行っておきたいから、料理する時間がもったいない」
「衣類店が十時まで開かなかったからしょうがないね」
「食品店は早くからやってるのになぁ」
俺の提案にルーとカルが続いた。
朝飯を皆で食べたのが七時半。
まだ十一時を過ぎたばかりだから、まだ朝食が消化仕切れていないのは解っている。
「それか、確か東の門の方に持ち帰りできる店があっただろ。そこでも良いか?」
「あっ、それ良いね!ルーそれが良い!」
「ユリシアもそれで良いか?」
「私はあなた方に世話になる身ですから、我儘は言いませんよ」
ルーの反応に合わせてカルも喜んでいたから、カルは承諾とみなしてユリシアに聞いたのだが、何かスッキリしない答えだった。
「いや、ユリシア。俺は旅を共にする仲間は常に対等でありたいと思ってるんだ。だから、そう言う身の引きかたはしないでくれ。俺達の財布は皆の財布だし、時には多数決や誰かの意見だけで物事を決める事もあるだろうけど、基本的には新しい仲間だろうが古い仲間だろうが平等に意見は聞く事にしてる。小さな事でも何かあるなら言ってくれ」
俺がそう言うと、ユリシアは苦笑して告げる。
「ごめんなさい。私の言い方が悪かったですね。私の本心でも、持ち帰りで良いです。まどろっこしい言葉を繋げるから、語弊が生まれるんですよね。実は私の悪い癖なんです。こんな私ですが、これからもよろしくお願いします」
丁寧に頭を下げて皆に告げた。
「よし、じゃあ解ったから、これからはそのかしこまった姿勢も無しにしよう。慣れないかもしれないから、無理にとは言わない。でも、俺達はユリシアの仲間だ。昨日の今日でいきなり信用しろとも言わないけど、もっと気持ちを楽にしてくれて良いからな」
昨日の自らが詫びた意地悪と言うものに、未だに負い目を負っている様で、俺は早くそんな負い目を取っ払えるようにそう言った。
「ええ。わかりました。でも、職業柄、丁寧語は無くせません。勢いなどで多少崩す事もあるかもしれませんが、基本はこれが私の自然体なので、出来れば気にしないでください」
「じゃあ、ボクたちは普通に話して良いんだよね?」
カルが、どうやら堅苦しいのが苦手で、丁寧語で話す事に抵抗があって口数が減っていた様だ。
「ええ。ぜひ、そうしてください」
ユリシアもようやく自然な笑顔が見えた。
「やった!じゃあ早速だけど、お姉さんの事は何て呼んだら良いかなぁ?」
カルが、箍が外れた様に話し始める。
「アハハ、カルったら調子に乗ってる」
などと俺の横でルーが呟いているが、当のカルには届いていない。
「そうですね。お好きに呼んでください」
「……んー、じゃあねー……」
ユリシアも多少は打ち解けた様子で、カルと明るく話し合う。
俺とルーが歩き始めると、カルとユリシアも着いてくる様なので、話しは折らずにそのまま店へと向かうのだった。
ユリシアは、丁寧語を除けば、最初に出会った時の様な無表情で無愛想な態度が嘘だった様に、明るく話をしていた。
あれから、村の東門前近くの店で、見るからにピロシキの様なパン料理を買い、持ち帰りして旅に備える。
地球で言うピロシキは、日本では揚げパンに具を詰めた物が当たり前になっているが、本場ロシアでは、普通の焼いたパンに色々な具を詰めるのが本来のピロシキなのだ。
俺達がさっき買ったピロシキは、正に本場ロシアのものに近い。
ただ、長めのパンに具が色々と詰められているので、一つでもなかなかのボリュームだ。
具材は色んな種類を注文し、肉巻きアスパラを挟んだものや、ミンチ肉と玉ねぎセロリを微塵にして混ぜたもの、ゆで玉子とソーセージを刻んで玉子ペーストと混ぜたものや、マッシュポテトにひき肉、ツナとポテト、キャベツとツナなど、一人で二つ三つ食べる分を買った。
食いしん坊なルーは待ち遠しい気持ちを隠せず、旅路でもチョイチョイ気にする姿が目に入った。
「ルーちゃんは食いしん坊なのですね」
ユリシアがそれを見てクスクスと笑っている。
そんな砕けた会話をしながら、俺達はお互いの事を話し合い、ユリア湖へ向けて歩を進めるのだった。
――――夕暮れ時。
ユリア湖があるとされている森の手前ニキロ程の地点で、俺達は野営の準備を始めた。
「割りと順調だったから、思ったより早く着いたな」
「でも、確かにお昼に料理とかしてたら、日が落ちるまでに間に合わなかったかもね」
俺の言葉にルーが答える。
「今日はここで野営して、明日は朝から森を抜けるから、しっかり休んでおこう。ユリシアは、悪いけど交代で警戒するのに手伝ってもらうよ?それと、料理と洗濯は緩いけど一応当番だから、よろしくな」
「ええ。家事は得意ですよ。これでも教会の家事は主に私がやってましたから」
ユリシアは、俺達と出会う布教活動の前、フィルローと言う国の教会で生活をしていたらしい。
幼い頃、両親の離婚で父に引き取られたが、その父も間もなく突発性の病気で亡くなり、引き取り手の居なかったユリシアは、国の保護の後、教会に預けられたと言う。
成人して、ハスハ教への信心を認められ、布教活動をするようになった。
母親がわりに育ててくれたマザーも、去年の夏に教会で天に召され、ユリシア自身は天涯孤独の様な人生を送っていたそうだ。
「それは助かる。ルーも食いしん坊な分、料理は美味いんだ。……いて!」
「お兄ちゃん、食いしん坊は余計だよ」
ルーが切り落とした玉ねぎの根っこの部分を投げてきて言う。
「ハハハ、ゴメンゴメン。……で、今日はルーが作るし、明日はもしかしたら洞窟の中かもしれないから、俺が朝のうちに二食分くらい作る予定だから、帰りが明後日になったらその時頼む」
最初にルーに謝りながら、後はユリシアに向けて説明した。
「それでパンを買い貯めていたんですね。それなら、明日は私が作りますよ」
「……良いのか?」
「ええ。もちろん」
明るい顔でやる気を見せるユリシア。
「ボクもユリ姫のご飯を早く食べたいなぁ」
「あ、そんな事言うなら、カルの分はルー作らないからね」
「え?お嬢、そりゃないよ!ボクはただ、ユリ姫の料理を食べたこと無いから、どんなの作るのか興味があっただけなのに!」
「フフフ、冗談だよ。カルの分もちゃんと作るから」
カルの横槍にルーがからかう。
そんな様子を俺とユリシアで笑っていた。
食事を終え、夜の星空を眺めながら燻茶にハマったらしいルーが入れた茶を堪能する。
「だけど、実際、祠では何があるんだろうね?」
ルーがそんな事を切り出した。
「そうだな。予言だと何か発見があるって言ってたけどな」
あくまでルーが天使であることや俺の存在を明かさない為に、ミカの名前は出さない。
ミカの名前を出すと、俺の義妹であるとか、芋づる式に色々話さなければならなくなるからだ。
『ミカとか言う天使が』の様に他人扱いすれば、道すがらに出会った天使だったり、カ帝国で知り合った人の紹介だったりと誤魔化す事はできるかもしれないが、他人扱いするには情が入って違和感がある。
「私なんかがそんな旅にお付き合いして良いのでしょうか?」
ユリシアがそんな疑問を投げてきた。
「……ん?ああ、それは気にしなくて良いよ。別にユリシアを巻き込むつもりもないし、ユリア湖の用事が済んだら、その後はいつまで一緒に居られるかわからないけど、俺も何時までもユリシアを連れ回すつもりはない」
「……そ、そうなんですか」
俺の話にユリシアは不安が拭えない様子だった。
そこへ。
「でも、ユリシアさんと別れたら、ユリシアさんを黒の軍勢から護るのはどうするの?」
ルーがユリシアの不安を察して、俺に聞いてくる。
「それは、キシに任せるさ」
「「「え?」」」
俺の発言に、カルも含めた三人が訝しい顔を返した。
「今はまだ、エメリアとエストールへ向かっている所だろうけど、キシはその後、エルフの国の協力を得るためにエルフの国々を回るはずだ。その、協力を得られた国にユリシアを匿ってもらえば良い」
「あ、なるほど!その手があったね!」
ルーは手を叩いて声をあげた。
「えっと、すみません。その、キシさんと言うのは……?」
当然と言えば当然だが、ユリシアはキシに会った事もないから話が読めない。
「ああ、俺達はカ帝国から来たって言ったろ?その時に―――」
俺は、これまでにユリシアに話をしてきた事も踏まえて、キシやエメリアについても、予言に沿って少し詳しく話した。
ユリシアはそれを聞いて、なんか俺達を一層尊敬の目で見てくる。
昨日の夜から態度を改めたと思ったら、俺達の素性が少しずつ明かされるにつれて、今度は尊敬で見られるとは、何とも扱いにくい人種だ。
エルフとは皆こうなのだろうか。
「では、その時はキシさんと言う方を頼れば良いんですね?」
「ああ。それもそうなんだが、キシには俺が、何とかして話をつけるから、まぁ安心して良いよ」
「何なら、ボクがひとっ飛びして伝えて来ても良いよ?ボクは風の聖霊だから、一人で飛び回るなら時速百キロは出せると思うし」
カルがそんな事を言って、表情は変わらないがドヤ顔をしている様だ。
「マジか!?カルってそんなに早かったの!?」
これには俺もビックリした!
ドリューの全速力より早いじゃねーか!?
「ボク、一人で長時間飛んだこと無いから、自分でもボク自身がどれだけの早さでどれだけ飛べるのかも解らないんだ。お嬢の家に居たときにも、遠出する時はペーターと一緒だったしね。ハッキリ言って、ペーターは遅かったから、ボクがいつもペーターに合わせてたんだ」
ソイツは初耳だ!
「それなら、そうなった時は頼むかもしれないけど、もしかしたら別の用件を頼む事があるかもな」
そんな事を聞いたら、他に何かやってもらう事があるかもしれない。
「まあ、若様に任せるけど」
「ああ。実は、キシへの連絡は真紅の翼を利用させてもらおうかと思ってるんだ。だから、それがうまくいかなかった時はカルに頼むかもだけど、多分、あと数日すれば、ナージャのあの自信たっぷりな態度から、色々と手回しして世界中に連絡手段くらいは張り巡らせるだろうと俺は見てる」
「なるほどね!さすが若様は頭の回転が早いなぁ」
「ハハッ!それほどでも無いさ」
「ハハハ!」「ハハハハハ!」
俺とカルで笑いあっている所を、ルーとユリシアは不審者を見るように眺めていた。
――そうして、とうとうユリア湖に到着した。
あれから、夕食をとって休むと、俺が朝起きた時には最後に見張りをしていたルーとユリシアが、今日の食事の準備を済ませていた。
そして、弁当の様に包んだ昼、夕食用のものとは別に、余り物等から朝食が作られ、それを皆で食べてから野営地を出発した。
そうして、間もなく着いた森に入り、厄介なストレイエイプやクトと言うモンスター達を倒し、昼前にユリア湖に到着したのだった。
その景色は美しく、湖面が空を写し出し、幾つかの小さな島が、まるで雲海から突き出た山の頂上の様だった。
天気が生憎の曇だったが、これが晴れていたらさぞや綺麗な景色が見られたのだろうとは思うが、曇には曇の良さが目の前に広がっていた。
あの島のうちの一つに、祠があるのか。
それとも湖畔のどこかにあるのか。
ルーとカルが感嘆の声を漏らしている中、俺は気が締まる思いで眺めていた。




