この泥棒猫
ほう……。
侯爵家令嬢カトリーヌはぼんやりと空を眺めながらため息をついた。
変わり者の従姉妹が言うには前世を思い出すと高熱を出すか、気を失うかするらしい。
カトリーヌの中で蘇ったシュークリームとして生まれて終えた生は、熱を出す暇も倒れる暇もなくすんなり彼女の記憶に根付いた。
そもそもシュークリームの一生など、長くて1日。カトリーヌの前世に至っては、シュークリームとして誕生して数分である。
絞り袋から絞り出された瞬間から数えてもせいぜいが2、3時間。
記憶容量を圧迫するどころか、逆に記憶の方が押しつぶされても不思議ではない。
むしろ、そんな刹那の一瞬の記憶が蘇っただけで奇跡だ。
「むしろ、気づかぬ間に消えて欲しかったわ」
カトリーヌは頬に手を当て、ため息をついた。
「そんな……」
消え入りそうな弱々しい声にカトリーヌは我に返った。
彼女の前では彼女の取り巻き令嬢達が、地面に座り込んだ1人の少女を見下ろしていた。
声を発したのは地面に座り込んだチョコレート色の髪の愛らしい顔立ちの少女だった。
「カトリーヌ様、私、何か気に触る事をしてしまったでしょうか?」
それに応えたのはカトリーヌではなく、取り巻き令嬢だった。
「まあ、図々しい!パフさん、貴女、カトリーヌ様の婚約者であらせられるサミュエル殿下と仲睦まじく過ごしているそうじゃないの」
「そうよ!サミュエル殿下は侯爵家令嬢、カトリーヌ様の婚約者。たかだか男爵家の出の貴女が気安くして良い方ではなくってよ!この泥棒猫!」
「……」
カトリーヌは無言で扇子を開き、口元を隠す。
『泥棒猫』それはカトリーヌにとって、一度は口にしてみたいフレーズであったが、あっさりと目の前の男爵家令嬢を責め立てる令嬢達にお株を奪われてしまった。
カトリーヌとしては、物語のようにもっと悪役らしく、令嬢達を前にではなく、後ろに置き、高笑いして蔑んでみたかった。
それらも全て目の前の彼女達がしっかりこなしているので、カトリーヌはやる事がなくなってしまった。
しかし、まあ、第三者の目から見れば、2人の令嬢を指図してカトリーヌは自分の手を汚さず高見の見物を決めこむ、中ボスくらいには見えるのではなかろうか。
男爵令嬢が地面に手をついて悄然とした姿を見て、もう、いいだろう、と口を開きかけた時だった。
「そこで何をしている!」
カトリーヌはパチリ、と音を立てて扇子を閉じる。
耳に馴染んだその声に振り返れば、目に馴染んだ青年が、厳しい表情でこちらを睨んでいた。
別の意味で緩みそうになる口元を、ゆるりと平常の笑顔に切り替える。
「あら、殿下。ごきげん麗しゅう」
カトリーヌのそのセリフに彼女の婚約者は更に表情を険しくさせた。
「こんなものを目の当たりにして、麗しいわけがあるか!カトリーヌ。パフ嬢が何故そんな事になっている?」
「泥棒猫にはお仕置きが必要でしょう?」
言えた!今泥棒猫って言えた!
そんな感動すら表に出さず、サミュエルの厳しい視線をカトリーヌは受け流した。
「泥棒猫だと……?」
「ええ。愛する婚約者に見知らぬ娘が気安く接していては、誰だってそう思いましてよ?」
「彼女は私の大切な学友だ。勉強の事で議論する事もある」
サミュエルはカトリーヌの側をそして、気圧されて数歩下がった令嬢達を横切り、パフの手を取り助け起こす。
その様をカトリーヌは目を眇め、無言で見つめる。
(学友、ね)
パフの手を握ったサミュエルは真っ直ぐに未だ厳しい視線でカトリーヌを射抜いた。
「後日、この件についてはじっくり話し合おう」
固い表情のままのサミュエルに、カトリーヌは改めてにっこりと微笑んだ。
「ええ、お待ちしておりますわ」
「では失礼する」
カトリーヌは遠ざかるサミュエルの背中から目を逸らし、踵を返し、ゆっくりと歩き出す。
そんな彼女の背中を2人の取り巻き令嬢が慌てて追った。