終章 そして、また雨が降る(1)
自宅アパートの屋根にアンテナが立てられている。
そこにワタリガラスが留まっていた。
シカミの穢れを祓い、転じた神霊ではあったが、その本質はシカミの分身でしかない。
本体が理に回帰した以上、そう長くは存在できないだろう。
上泉が手を振るとワタリガラスは羽ばたき、飛んだ――。
「じゃあ、またな兄弟」
上泉はクライヴと握手した。
「義道」
マリアが上泉に抱きついた。
背中に手を回し、体を強く押し当てる。
鼻と唇を上泉の首に埋め、眠るように呼吸する。
上泉はダマスクローズの香りに包まれた。
「姉さん」
クライヴが声をかけるもマリアは離れようとしない。
上泉はマリアの背中を叩いた。
少しの間を置いて、ようやく離れる。
「行こう姉さん」
マリアはうなずくと、名残惜しそうにハイヤーに乗り込んだ。
クライヴもウィンクして乗り込む。
ハイヤーは走り去った。
――先日の、自宅アパート前での出来事だった。
事件の事後処理も済まぬうちにマリアとクライヴは日本を旅立ち、イギリスに帰っていった。
二人には騎士としての役目がある。
本来は主がために動くべきであって、それ以外の目的で動くべきではない。
今回は本当に特別、例外だった。
ワタリガラスが空遠く、黒い点になっていた。
上泉が観ていると、黒のセダンがアパートの門前に停まった。
後部座席の窓が開き、葉室が顔を出した。
「会社までお送りしましょうか?」
上泉は素直に応じた。
セダンに乗り込み、しばらく走るが、途中で通勤ラッシュに巻き込まれる。
ひどい渋滞で、このままでは遅刻するかもしれない。
葉室が上泉の隣で申し訳なさそうにしている。
落ち着きなく、逆ナイロールのブリッジを右手中指で押し上げた。
「申し訳ない。まさかこんなことになるとは……」
車が少しだけ前進した。
「別にかまわない。昨日まで無断で休んでいたんだ。ルイスが気を利かせてくれなければ、こうして遅刻することもできなかった」
上泉は窓から歩道を眺めた。
ランドセルを背負った子供たちがぞろぞろと、だるそうに歩いている。
顔に生気が感じられない。
これは塵芥の降臨のせいではない。
元から生気がないのだ。
いや、また何か、誰かがこの世界に呼び込もうとしているのかもしれない。
「……何か話があったのでは?」
「ええ、大鷲さんのことで」
「先輩が何か?」
「帰ろうとしないんです。ホテルから出ようとしません。余程、居心地がいいのか、帰りたくないのか、何とかなりませんか?」
「円に連絡して迎えに来させればいい。先輩は何だ彼んだ言って彼女に頭が上がらない」
「わかりました。ですが、よろしいのですか? 円さんは大鷲さんが亡くなったと聞いて、かなりのショックを受けていたようですが」
上泉は円が玄関先で気を失ったときの事を思い出した。
「……僕が何とかします」
「ありがとうございます」
葉室は微笑んだ。
「代わりと言っては何だが、僕から一つ聞いていいか?」
「何でしょう?」
「あなたと先輩の接点を知りたい」
「それは、法曹界のコネクションと言いましょうか、我々は大鷲家と色々繋がりがあるのです」
「大鷲家と? 先輩は家業を嫌っていたはずだが」
「はい。だから別の理由で説得しました」
「別の理由?」
「大鷲さんは熱心な神道信者、それだけのことです」
「そうか。先輩の神道に対する解釈は少し歪んでいるから」
「信仰を利用したこと、軽蔑しますか?」
「いや、わざわざ軽蔑するほどのことでもない。それに爺さんのときと違って、あなた達、大鷲も含めてたが、あなた達に説教するほどの情熱もない。全ては自由意志、全ては信じる者の責任でしかない」
「なかなか、辛辣ですね」
葉室が困った顔をする。
車が渋滞を抜けた。
でも、すぐに赤信号で止まる。
「すまない。もう一つ聞いていいか?」
「はい」
「爺さんはどうしてる?」
「宗像氏は淡々と供述しています。いずれ臓器売買の全容が明らかになるでしょう。ただ、ホーエン・カンパニーのヴォルフガング・ガーランド、残念ながら彼には逃げられました。空港に網を張っていたんですが、一体どうやって国外へと脱出できたのやら」
「ヴォルフガング・ガーランド」
「彼を知っているんですか?」
「そうか、今回の件には彼女が関わっていたのか」
「彼女?」
「僕は、爺さんのやったことをじつに馬鹿なことだと思っている。でも、だからといって、僕のほうが正しいとは思ってはいない。それは、あなたや大鷲にも言えることだ。全ては神のみぞ知る、違いますか?」
「……私には分かりかねます」
葉室は顔を逸らし、反対側の窓に目を向けた。
運転席に座る寝癖のついた男性がルームミラーを通して、後部座席をちらちら見ている。
上泉は構わず、窓の外に目を向けた。
曇り空なので、街並みは全体的に薄暗い。
今朝読んだ新聞の天気予報欄によれば、夕方から雨が降るらしい。
――剛心ビルの最上階、役員専用の受付カウンターに白人の女性が座っていた。
大鷲が喜びそうな金髪で化粧が濃く、ブラウスの襟元には深い谷間があった。
女性は上泉の顔を見ると、椅子から腰を上げ、きれいな日本語で言った。
「お待ちしていましたわ、上泉様。どの部屋かわかりますか? ご案内しましょうか?」
「いいえ、結構。僕は一人で行ける。あなたはあなたの仕事をしてください」
上泉は女性の脇をすり抜け、奥へと進んだ。
一番奥の部屋、そのドアをノックして中に入る。
ルイスが相談役の椅子に座っていた。
顔の左半分をノートパソコンに密着させキーボードを叩いている。
上泉は言った。
「役員就任おめでとう」
「ありがとうございます」
ルイスはモニターから顔を離した。
「でも、すぐに退きます」
「なぜだ?」
「ミスター・羽織の意向です。日本の企業は日本人が運営すべきと言うのが彼の考え方らしく、それに沿った形です。彼は随分と保守的な方ですね。私としては久し振りに実業を楽しみたかったのですが」
上泉はソファーに座った。
テーブルに葉巻き入れはない。
灰皿もなくなっている。
「僕も先生の考えに賛成だ。創業以来、一度も外国人を役員にしていない企業にいきなり外国人を招き入れたんだ。不審に思い色々探る人が出てくるかもしれない」
「それもそうですね」
「それで後任は?」
「今呼んでます。ジニーに、あなたが来たら彼女を呼ぶように言っておきましたから」
「ジニー? さっきの受付の女性のことか? それに彼女?」
「イエス、ジニーはマイベストパートナー」
ルイスはにこりと笑った。
「それから彼女とは私の後任のことです。あなたもよくご存知の方です」
「それはもしかして」
「イエス」
後任は城之崎だった。
彼女は部屋に入るなり涙を流し始める。
手のひらで涙を拭った。
「生きていたのね、よかった。ルイスさんに話は聞いていたけれど、実際にその顔を見るまでは、私、心配で、よかった」
「残念ながら」
城之崎が睨んだ。
化粧は崩れ、鼻を赤くしている。
上泉はソファーから腰を上げ、城之崎に歩み寄るとハンカチを渡した。
「なぜ君が泣く。僕は君が泣くに値しない男だ」
「私はあなたが無事で本当に嬉しかった。だから泣いているの。ねえ、どうして? どうしてあなたはそんなことばかり言うの?」
ルイスが咳払いする。
「私は少し用事を思い出しました。すこし席を外します」
上泉は苦笑いを浮かべた。
「いや、その必要はない。一緒に聞いてくれ。他の人にしてみれば、どうでもいいことかもしれないが、僕にとってはどうしようもない、償いようのない罪なんだ」
上泉は城之崎をソファーに座らせると、自らも座り、二人に話し始めた。
母を看取った際に犯した罪、生まれて初めての嘘を……。
――告白を終え、上泉が営業部に行くと、いつもの慌ただしい業務が始まっている。
上泉は存在感を消しながら自分の席に座った。
これは何ということだろう、あれほど混沌としていた机がきれいに掃除されている。
机の片隅にあった紙の山もない。
隣の花咲が声をかけてきた。
「上泉くん、何かなくなってる物とかない?」
上泉はわざとらしく机を見渡した。
「紙の山がない」
「うん、私が全部やっといた。ついでに掃除もしといた」
「あ、ありがとう」
「わあ……、あの上泉くんがお礼を言うなんて……」
「……」
「うん、どういたしまして!」
花咲がにこにこしながら両手のひらを上に向けて差し出した。
上泉はわけがわからず、花咲の手のひらを見つめる。
小さくて、かわいらしい手だ。
花咲が言った。
「お土産は?」
「みやげ?」
「出張の土産」
「出張?」
上泉は先ほど、無断欠勤を出張扱いにしておいたとルイスに言われたことを思い出した。
「すまない、買うのを忘れた」
「えー、楽しみにしてたのに」
上泉は花咲の不満そうな顔から逃れるように、椅子の背もたれに体を埋めた。
「すまない。次の出張の際には必ず買ってくるから、それまで待っていてくれ」
「もう」
花咲が業務に戻った。
パソコンのキーボードを叩く音がする。
課長の村田が怒鳴っている。
上泉は、はっと思い出し、体を起こして光一郎を探した。
彼は自分の席で電話の応対をしていた。
ルイスによると、祖父の宗像源蔵は相談役から退いたが、父親は未だ役員に留まっているらしい。
それでもこれからが大変だ。
七光りも輝きが鈍るだろう。
上泉は再び背もたれに体を埋め、窓から射し込む光に目を向けた。
日向に埃が舞っている。
その動きを眺めていたら眠くなった。
欠伸が出る。
「うん。やっぱり隣に上泉くんがいないとね」
ふいに花咲が言った。
上泉が目を向けると、花咲は首を振った。
「ううん、何でもない。ね、お昼どうする? 新しいラーメン屋さん見つけたんだけど、行く? それとも屋上がいい?」
「そうだな。今日は君に任せる」
「本当! やった!」
花咲はありえないぐらい喜んだ。




