第1章 埃と雨の日常(2)
日本剛心は自社ビルを持っており、地下から屋上まで全ての階を業務に使用していた。
地下はただの駐車場だったが、屋上はヒートアイランドの緩和、社員たちの癒やしを目的に緑化されており庭園になっていた。
エレベーターで屋上まで上がり、ホールから一歩踏み出せば、遮るもののない空中に浮かんだ新緑の風景を一望できる。
屋上一面に蔓草のトンネルが張り巡らされ、様々な樹木や花などが植えられていて、ほぼ植物園と言ってもいい規模だった。
「お弁当か……」
花咲が残念そうにしている。
トンネルを歩きながら手に持ったビニール袋を顔の高さまで引き上げ、眺めた。
袋の中には花咲が選んだカルビ焼肉弁当が入っている。
一方、上泉は幕の内弁当を選んだので、弁当の中身が崩れないよう、手に持ったビニール袋をあまり揺らさず、水平に保ちながら歩いていた。
「ラーメンも悪くないが、こんなに晴れているんだ。外の空気を吸いながら一緒に弁当を食べよう」
「う、うん。別にいいけど。上泉くんがそこまで言うなら」
上泉と花咲は芝生の広場を抜け、蔓草のトンネルに入った。
若葉の隙間から太陽の光が射し込み、足元の赤レンガを照らしている。
描かれた木漏れ日は駁模様となって、ゆらゆらと揺れている。
日陰で湿り気があるためか、赤レンガの所々に苔が生えていて、上泉はそれらをできるだけ踏まないよう、左右に揺れながら歩いた。
上泉の前をずかずかと歩いている花咲が振り返った。
「でもこんなに天気がいいと混みそうなんだけど、大丈夫? 座る場所ある?」
上泉たちは数名の女性社員とすれ違った。
さらに別の女性グループとすれ違う。
「たまに来ているから分かるんだが、ほとんどの男性社員は外で食べるから、ここに来るのはほとんど女性社員ばかりだ。君も知っての通り、剛心は七対三で男性のほうが多い、だから混むことは滅多にない。探せばどこかの席が空いているはずだ」
トンネルの出口から外に出ると、赤レンガの小道が小さな広場へと続いていた。
広場の真ん中には一本の花水木が植えられ、それを囲むように三つのベンチが置いてあった。
その内、二つはすでに女性社員たちのグループが座っており、空いてるのは一つだけ、上泉と花咲はその一つにビニール袋を置いて食事の準備に取り掛かった。
風が吹き、ビニール袋が震える。
花水木の白い総苞片が揺れた。
花咲が髪を押さえ、片目を瞑る。
「ちょっと風が強いかも」
「僕が風上に座ろう」
「うん、ありがと」
上泉と花咲はベンチに座り、弁当を食べ始めた。
食べながら花咲が一方的に話し、上泉は静かに聞いている。
今日の話題は花咲の家族についてだった。
花咲は昨夜、父親と喧嘩したらしい。
「喧嘩の原因? 女の生き様について、ちょっとね。私のお父さん、早く結婚しろ、恋人を連れて来い、ってうるさいんだ」
「そうか。だったら、恋人を連れていけばいいし、早く結婚すればいい。そうすればお父さんも静かになるだろう」
「そんな相手がいたら、もうとっくの昔にしてます! はあ、誰か素敵な人、落ちてないかな」
そう言って花咲は弁当からタレの絡んだカルビを箸でつまみ上げ、白飯に置いた。
箸を大きく開き、カルビで白飯をごっそり包み込んで持ち上げる。
口を大きく開けて放り込んだ。
右頬を膨らませ、もぐもぐ噛んでいる。
上泉は花咲の相変わらずな、豪快な食いっぷりに改めて感心する。
「美味いか?」
花咲は笑顔になり、うなずいた。
口の中のものを飲み込み言った。
「うん、美味しい! ラーメンも美味しいけど、この焼肉弁当も相当に美味しいよね。私、あそこのコンビニだと、絶対このお弁当を頼むんだ」
「それはよかった。君は何でも美味しそうに食べるから僕も楽しい」
「えへへ、褒められちゃった。あ、一口食べる?」
上泉がもらったカルビを噛みしめていると、トンネルの出口から丸刈りの男が出てきた。
上泉の幼馴染で、親友の大鷲紀人だった。
明るいベージュのスーツ、胸元には濃紺のネクタイ、結び目の大きいウィンザーノットで締め、スマホを弄りながら、上泉たちのほうに歩いて来た。
花咲が大鷲に気づき、弁当の残りを急いで食べる。
まだかなりの量が残っていたが、次から次へと口の中に運び、あっという間に弁当箱を空にした。
箱を畳み、ビニール袋に入れ、ベンチから立ち上がった。
「私、行くね。あの人、下ネタばかり言うから苦手なんだ」
花咲は蔓草のトンネルに向かって歩き出した。
大鷲とすれ違う際、顔をぷいっと逆の方向に向ける。
そのまま駆け出し、トンネルの中に入っていった。
そんな花咲に大鷲は全くの無関心で、上泉の前まで来ると隣に座り、脚を組んだ。
ポインテッドトゥの革靴をぷらぷらさせ、言った。
「いちゃいちゃしてんじゃねーよ」
「いちゃいちゃなんてしてません」
「本当か?」
「本当です」
「……ま、そうだろうな。お前はそういう奴だ。昔からな」
「そんなことよりも先輩、出張はどうでしたか?」
上泉が聞くと大鷲はスマホの灯りを消し、上着の内ポケットに入れた。
にやりと笑う。
「金髪は素晴らしい。これに尽きる」
そう言って、大鷲は上着の外ポケットからマトリョーシカ人形を取り出した。
親指ほどの大きさで携帯電話用のストラップだった。
「これはお土産だ」
「いりません」
「いいじゃないか、可愛いだろ?」
大鷲は人形を振った。
上泉は首を振る。
「できれば食べ物のほうが良かったんですが、キャビアとかウォッカとか」
「我がままな奴だな」
大鷲は人形とは別の外ポケットから缶コーヒーを取り出した。
人工甘味料ではない微糖、ミルク入りだった。
「これなら文句ないだろ?」
「有り難くいただきます」
上泉は缶を受け取った。
それから弁当を食べ終わるまでの間、大鷲は空を見上げていた。
口をぽかりと開けていたので馬面がますます馬面になっていた。
大鷲は突然、ため息をついた。
上泉は無視したが、大鷲は再びため息をついた。
上泉は弁当の蓋を閉じた。
「どうしました? また誰かに惚れましたか?」
「いや、そうじゃない。今の時季だと叔母さんの庭園が真っ白になっている頃合いだな、って思ってな」
「マドンナリリーですね」
「そう、それだ。あの頃は本当によかった。学生だったから時間が有り余っていて、行こうと思えば何処にでも行けた」
「そうですね。あの頃の、イギリス留学中の僕が人生のピークでした。今の僕にあれほどの元気はありません」
「そんな哀しいこと言うなよ。俺たちまだ二十代だぞ」
大鷲は口元をゆるめた。
上泉は空の弁当箱をビニール袋に入れた。
「そういえばこの前、クライヴからメールが送られて来ました。エイジス家の皆は元気にやっているそうです」
「何? 俺のところには来てないぞ?」
上泉は少し間を置き、大鷲を傷つけぬよう、掛ける言葉を慎重に選んで言った。
「ああ、すいません。何か余計なことを言ってしまったようで。クライヴもきっと忙しかったんだと思います。さっきのことは忘れてください。あ、いや、そのうち挨拶のメールぐらいは送られてくるかもしれません。気をしっかり持ってください」
「お前、それ、わざと言ってるだろ。ん、お、おおお?」
大鷲が急に大声を出し、背筋を伸ばした。
トンネルから剛心の女性社員が二人出てくる。
二人とも髪が長くスタイルがよい。
こちらに歩いて来る。
が、途中で立ち止まった。
どうやらベンチに空きがないことに気づいたようだ。
彼女たちは引き返す。
透かさず大鷲が叫んだ。
「待って! よろしければ、僕たちとご一緒しませんか!」
女性社員たちが振り返った。
大鷲が笑顔で手を振る。
女性社員たちは互いの顔を見合い、もう一度こちらに顔を向けた。
上泉のほうを見て、大鷲のほうを見る。
もう一度、上泉のほうをじっと見つめる。
二人は一言二言話し合い、なぜか残念そうに立ち去った。
「振られましたね」
「別にいいさ。印象付けることはできた。次に会ったら運命の再会になる」
「先輩はいつも前向きと言うか、クレバーですね」
「ふふ、俺を見習え上泉」
「遠慮します」
「でも、ああ」
大鷲はベンチの背もたれにのけぞった。
「やっぱり金髪だな! あと、丸くて大きなお尻だったら最高だな!」
大鷲は空に向かって大声で叫んだ。
それを隣のベンチに座る女性社員たちが冷やかに見ている。
上泉は言った。
「先輩、あまりそういうことを公然で言わないほうがいいです。不快に思う女性もいますから」
「何だよ、堅いこと言うなよ。俺とお前の仲だろ?」
「どんな仲ですか」
大鷲は女性たちの冷たい視線など気にしていないようだ。
思い返せば昔からそうだった。
「で、お前はどうなんだ?」
「何がです?」
「女だ、どっちがよかった?」
上泉は首を振った。
「僕は別に」
「そうか、それはよかった。だが、さっきの茶髪の小娘ともいちゃいちゃしていないとなると、お前にはいよいよ女っ気がなくなるな」
「構いません」
「お前はいいかもしれんが、俺はよくない。将来、孤独死などされても困るからな。と言うわけで、円はどうだ?」
「円?」
「嫁にしないか?」
上泉は再度、首を振った。
「何度も言っているように無理です」
大鷲の顔つきが変わる。
真面目になった。
「俺たちは親父同士が親友ということもあり、幼い頃から見知った仲で、いわゆる幼馴染ってやつだ」
「そうですね。おじさんには父子共々お世話になっています。最近はお会いしていませんが、お元気ですか?」
「親父のことはどうでもいい。それよりも円のことだ。あいつは子供の頃からずっとお前に惚れている。だから未だに彼氏の一人もできやしない。全部お前のせいだ」
「……そう言われましても」
上泉はうつむいた。
大鷲が背中を丸める。
両肘を膝に置き、両手を組み合わせた。
「俺はな、お前のことが心配なんだ。古今東西の英雄は放浪、早世と決まっている。放って置いたら、どこか遠くに行ってしまうような気がするんだ」
「僕はどこにも行きません。死ぬつもりもないです」
「俺には死にたがっているようにしか見えないが」
「……なるほど、つまり、円は僕を縛る鎖というわけですか?」
「そうだ。それがお前のため、そして円のためだ」
「違います」
大鷲が首を傾げ、上泉に目を向ける。
「それは、その思いは自分自身のためです。先輩は本当の意味で僕と円の気持ちを考えていますか?」
「……考えてるさ」
「そうは見えませんが」
大鷲がベンチから腰を上げた。
「今夜、仕事が終わったら家に来い。久しぶりに円と一緒に三人で飯でも食おう」
「その飯は誰が作るんです?」
「もちろん俺とお前でだ」
「僕が作るんですね」
大鷲は誤魔化すように笑うと、手を振りながら去っていった。
上泉は貰った缶コーヒーのふたを押し開け、飲んだ。
とても甘い。
この世界にはどうにもならないことがある。
この缶コーヒーの味もその一つだ。
決して淹れたてにはならない。
上泉は一気に飲み干すと、空になった缶をビニール袋に入れ、腰を上げた。