大脱走!
小屋の隅を走る鼠の姿が見え、その足音までもが聞こえてくる。
「すごく五月蝿い」
入ってくる情報の多さに戸惑い、両手で耳を押さえて蹲るリツコ。
そんな彼女の隣でも、変化が起きていた。
麻袋の中から、長い腕が勢い良く飛び出したのだ。
突然歌いだした少女と麻袋に注目していた店の人々は、その腕に驚いてざわめき出した。
何事か、とリツコも隣に目を向けて絶句する。
枯れ枝のように細く節くれだった腕の先についていたのは、アンバランスなほどに大きな掌だった。
リツコの頭を覆ってしまえそうなほどに長い指の先には、刃物のように尖った爪。
「ゆ、指が……」
その異常な形状に驚いていたリツコの前で、もう一本の腕が麻袋から飛び出した。
自由になった2本の腕が麻袋を大きく引き裂き、束縛を解いた中身がゆっくりと体を起こす。
「え?」
それは、人に似たシルエットを持っていた。
しかし、それはひと目で人間でないと分かる奇妙なパーツで出来ていた。
大きすぎる手。鱗で覆われた爬虫類のような足と尾。
にんまりと笑った唇の間からは、サメのように尖った歯が並んでいる。
「やっと出られた」
ぎょろり、と黒目と白目が反転した奇妙な瞳がリツコの姿を捉える。
彼の口から長い舌が伸びて、長く尖った自分の耳をぺろりと舐めた。
「ひっ」
見たことのない生物を前に、恐怖に襲われたリツコは引きつった悲鳴を上げた。
「そんなに怖がらないで。さっきまで普通だったでしょ?」
モンスターと呼べるような不可思議な生物は、リツコに向かって困ったように微笑んだ。
目と耳を除けば、その顔立ちは整っていると言えなくもない。
顔だけ見れば、という前提が付くが。
「アドラメレク、さん?」
「うん。そうだよ」
麻袋の中に居たときと変わらないアドラメレクの声色に、リツコは少し落ち着きを取り戻した。
「人間じゃあ、なかったんですね」
恐る恐る問いかけるリツコに、アドラメレクがきょとんとした表情になる。
「人間同士で契約はできないよ?」
さも当然のように言う彼。
相手が人間であると思っていたから深く聞かなかったが、そもそも契約とは何なのか。
リツコがそれを問う前に、アドラメレクの背後に棍棒を振りかぶった男の姿が見えた。
「後ろ!」
思わず叫んだリツコの前で、アドラメレクが尾を振った。
尾は男の足元を掬い、大きく転倒させる。
「今、出してあげるね」
打たれた足が痛むのか、転んだ衝撃で怪我をしたのか、襲撃者は地面に転がって呻いている。
それには目もくれず、アドラメレクはリツコとの間にある格子を両腕で掴んだ。
彼が力を込めると、金属で出来ているはずのそれは容易く曲がり大きな隙間が出来る。
「……!」
店員たちが悲鳴を上げ、アドラメレクに向かって一斉に武器を構える。
アドラメレクはその中から先頭に立って殴りかかってきた男の腕を掴むと、そのまま捻る。
「ぎゃぁぁぁ」
鈍い音がして、男の右腕が関節の向きとは逆に曲がった。
店内に悲鳴と怒号が飛び交い、アドラメレクに向かって屈強そうな店員が殺到する。
「痛たたた」
向かってくる人間達に、アドラメレクは容赦をしなかった。
腕や足を折られたり、投げ飛ばされて気絶したりする店員の様子を見ながらリツコが呻く。
幸いアドラメレクに殺意はないようだったが、他人が怪我をする様子は見ていて気持ちの良いものではない。
耳をふさいでも堪えきれない程の騒音の中、リツコは周囲を見渡しながら考える。
多勢に無勢でありながらも、アドラメレクは押さえ込もうとする店員たちを圧倒していた。
「よし」
少しならば余裕があるだろうと考えたリツコは立ち上がって、檻の隅で震える少女達の下へ駆け寄る。
「ほら、逃げよう!」
ボディランゲージと多少の強引さをもって蹲って震える彼女達を助け起こし、檻の外へと送り出す。
「アドラメレクさん!他の檻も開けられますか!?」
向かってくる店員を全て叩きのめし終えた様子のアドラメレクに向かってリツコが尋ねる。
「出来るけど」
「じゃあ、お願いします。ここにいる全員を逃がしてください」
リツコの指示に、アドラメレクは首を傾げた。
「他の人も助けるの?」
「お願いします!」
言われたアドラメレク訝しげな表情をしていたが、指示通り他の檻を壊して捕まった人々を解放し始める。
リツコには、自分と同じ立場の人間を助けてあげたいという気持ちが半分。
逃げる人数が多いほど、追跡する側の人数が分散して自分達の逃げられる確率も高くなると考えたのが半分。
自身の利己的な思考に嫌気が差したリツコだったが、乱闘で大きな音を立ててしまったのでもうこっそりとは逃げられない。必要なことだった。
新たな店員が来る前にと、リツコは作業を急ぐ。
売られていた人々は明らかにアドラメレクの風貌に怯えている様子だったが、自分達を逃がそうとしている意図に気付くと次々と逃亡を始めた。
「ねえ、早く逃げようよ」
檻の破壊を終えたアドラメレクがテントから出ようとするのを制して、リツコは彼を物陰に引っ張り込む。
直後に複数の足音が近づいてきて、奥にいたらしい店員たちがテント小屋にやってきた。
「……!?」
彼らの先頭にいた店主が頭を抱えて何か叫び、彼らは逃げた人々を追って外へ飛び出していった。
「追って行っちゃったよ?」
テント小屋に残った数人を伸した後、アドラメレクが困ったようにリツコを振り返った。
「追いますか?」
先に逃げた人々を助けるか、という意味を込めてリツコが問い返す。
「やだ」
アドラメレクが即答した。
彼が援護を拒否した以上、彼に頼るしかない彼女にこれ以上できることはない。
逃げた奴隷たちの無事を祈りつつ、自分達の脱出を優先しようとリツコは思考を切り替えた。
「誰も居ません。今のうちに」
テントの外へ顔を出し、周囲の安全を確認したリツコがアドラメレクを手招きする。
振り返った彼女の目に、檻の中に蹲る小さな人影が飛び込んできた。
リツコが戻ってその檻に近づくと、中にいたのは小さな男の子だった。
今のリツコより少しだけ年上の少年は、膝を抱えて空ろな目で近づくリツコを見上げた。
「ねえ、早く行こう」
入り口で待機しているアドラメレクが低い声で催促する。
それに頷きながらも、暫く少年と見詰め合っていたリツコは彼の体が小刻みに震えていることに気付いた。
怖がっているのだと分かり、リツコは彼にむかって手を伸ばす。
「おいで」
彼女の言葉は少年に通じない。
それでも、リツコは優しく声をかけた。
声音や表情からリツコの意図が分かったのか、少年は恐る恐るその手を取った。
リツコが腕に力を入れて助けると、少年は若干ふらつきながら立ち上がった。
既に外に出ていたアドラメレクに続いて、2人もテント小屋の外へと歩みだす。
窓の無かった小屋から急に外に出たリツコは、目に飛び込んできた夕日の眩しさに目を細めた。
「こっちへ逃げよう」
朱色に染まる街の中へ、3つの影は静かに飛び出した。
人外のキャラ登場で若干のファンタジー要素が出てきましたかね。
お店の人を店員と表記すると、何となく異世界感が無くなる気がします。
しかし、他に書きようもないのでここらへんは店員で通そうかと。