酒と愚痴
赤くなったエヴァンの額に狼狽したリツコだったが、詳しく話を聞けばそれは所謂デコピンをされた跡であった。
「全部話して謝ったら、許してくれた。おでこをぺちってされたけど」
痛みがある為かちょこんと口を尖らせているエヴァン。その元気そうな様子にリツコは安堵した。
「いい人で良かった」
デコピンを暴力と捉える者もいるだろうが、エヴァンの仕打ちに対する報復がそれだというならばリツコとしても文句を言える立場ではない。むしろ、軽すぎる位である。
「私もデレクさんにお話がありますから、ちょっと行ってきますね」
ついて来ようとしたエヴァンを押しとどめ、リツコは彼と入れ替わりに梯子を登って住居の巣へと足を踏み入れる。
薄暗い籠の中、湾曲した空間の隅に膝を抱えて座り込んだデレクを見つけてリツコはゆっくりと歩み寄る。
「エヴァンを許して下さって、ありがとうございました」
視線を合わせるように膝を折り、リツコは頭を下げた。
「あの少年に何かあったら、君は怒るんだろ。そして……報復合戦になる訳だ」
暫しの沈黙の後、デレクは小さな声でそう返した。
「ああ、全部話したってそういう事……」
思いがけない返答にリツコは目を見開き、次いで天井を仰いだ。
《残された人達は、悲しんで、悲しんで……きっと怒るわ。殺した人に復讐をしたいと思うようになる。デレクを大切に思う人が今度は復讐の為に私たちを殺しに来るのよ》
彼女が言ったことを、エヴァンはそのままデレクに伝えたのだろう。
デレクからすれば、エヴァンに何かあれば復讐してやるから覚悟しろと脅されているように聞こえたとしても仕方があるまい。
彼がデコピンをしたのも、今敬語ではないのも、それに対してのささやかな抵抗なのかもしれない。
「脅迫のつもりはありませんでしたが、そうですね。何かあった時には報復をせずにいられたかどうかは……」
分からない。リツコは自分の事をそこそこ善良で理性的な人間であると評価しているが、実際に親しい人が傷つけられた時にカッとならない自信はない。
弁明し目の前の青年を安心させてやるべきだ。そうは分かっていたが、リツコは続く言葉を見つけることが出来ない。
「どの道、俺が帰らなければ結果は一緒だと思わないか?」
黙りこくったリツコに、不貞腐れたようにデレクが問いかけた。
「……私も、考えなかった訳じゃありません。引き留めても帰してもデメリットはあるんです」
精神的な疲労から大きく溜息をついて、リツコはデレクの隣に腰を下ろした。
「ベストは仲間の2人と一緒に逃げてもらうことだったんです。狼たちが貴方を拘束した際に、これで穏便に済ませられるって内心喜んでいたんですよ。人質を返して欲しければ大人しく帰れって交渉出来ますからね」
リツコは足を抱え、揃えた膝頭に小さな顎を載せた。
「まさか仲間を見捨てて一目散に逃げるとは思いませんでした。それがケチのつきはじめです」
顎が開かない為に声がくぐもるが、彼女はそれを気に留めずに続ける。
「貴方を森の外に送ろうと思ったら、私1人では無理です」
森の外までジャネット達を送り届けた際の道筋をリツコはちゃんと覚えている。しかし、いくら狼や蜘蛛の縄張りの中でも、彼女にとって危険な生き物は沢山いる。
一度敵対的な関係であったデレクを森の外まで安全に送り届ける為に、再び縄張りの主たちが協力してくれるかどうかは疑問だった。
「すぐ帰せないならば友好関係を結んで、いずれ人里に戻った際に私たちが危険で無いことを宣伝してもらおうと思いました。その間にお仲間2人が助けに来ても、無傷で返せば全面的に戦わずに済むだろうと」
リツコに友好的なチャッティや、契約者のアドラメレクにしつこく頼めば何時でも森の外へ放りだすことは出来たに違いない。
己の言が全て言い訳に過ぎないと気づき、彼女は渋い顔で隣のデレクを見やる。
「貴方が魔術学校とか、呪術とか、私の知らない言葉を次々に言うから……知識が欲しくなりました。お料理上手だし。それで、引き留めたらこの有様」
欲をかいたせいで身内の不和を招くことになった。笑えるでしょう、とリツコは八つ当たり気味に鼻を鳴らす。
「笑えないんだけど」
疲れたように呟いたデレクが、近くに転がっていた容器を拾い上げた。
蓋を開けて匂いを嗅ぎ、少し眉を顰めてから投げやりに口をつけた。
「あ、私にも下さい」
喉の渇きを覚えたリツコが手を伸ばして、何故か噎せているデレクからその容器を受け取る。
ぐいっと勢いよく煽れば、水ではない癖のある香りと喉が焼けるような強い刺激。
「はへ?」
驚いた拍子に飲み込んでしまった彼女は噎せはしなかったものの、何かがおかしいと手にした容器をまじまじと見つめる。
それはスキットルだった。銀色に輝くそれには見覚えがある、と認識すると同時にリツコの周囲の世界がぐるぐると回り出す。
「どうしてこーう、上手くいかないんでしょうねぇ」
張子の虎のように首をぐらぐらと振りながら、彼女はスキットルを手に大きな身振りで話を続ける。
「ちょっと……」
嫌な空気を感じ取ったデレクが手を伸ばしてリツコからスキットルを取り戻そうとしたが、彼女はその腕を素早くかいくぐって逃げてしまう。
「……あああ、もう飲んじゃダメだって」
顔を真っ赤にしたリツコが腕を振り回すたび、スキットルの口から飛沫が周囲に飛び散る。
「わたしだって上手く対処したいんですよぉ。でも、こんなの習ったことないんだもん。『ネット検索』もできない環境でどうしろってのよ。私は普通の『OL』なんだから、もうちょっと『マニュアル』とかあってもいいじゃない。こんな体じゃ彼氏も出来ないし!おうちにも帰れないし!」
日本語もとい魔物言葉とヴァーラス王国の公用語を交えた彼女の叫びの意味を理解できず、デレクが一瞬動きを止める。
その隙に彼女はスキットルの中身をまた一口含み、嚥下する。
「うるひゃい!『アラサー』の焦りなんて、貴方にはわかんないのよぉ。こんなに若くて、お肌も艶々。デレクさんのくせにぃ」
酒臭い息を吐きながら、彼女はデレクの頬をぺちぺちと叩く。
「き、君の方が若いと思うんだけど」
まだ手加減が出来る程度に理性は残っているものの、酩酊状態のリツコに危険を感じたデレクは身を遠ざける。
「飲んで」
「え?」
まだ中身が残っていることを示す水音と共にスキットルを押し付けられ、戸惑ったデレクが顔を引きつらせる。
「付き合ってよ。愚痴らせて、ね?」
頬を染め、潤んだ瞳で彼女はデレクを見上げる。
こんな絡まれ方でも、街の酒場で歳の近い普通の女の子にされれば嬉しいと思ったかもしれない。
2人きりの空間で、人を簡単に殴り殺せる怪力の幼女に絡まれたデレクの心には恐怖しかなかった。
「それとも、私のお酒が飲めないっていうの?」
魔女の幼く可愛らしい声が、1オクターブ低くなる。
「お、お付き合いさせていただきます」
これ以上彼女に飲ませてはいけない。そう決意を固めた彼は、残っている酒を一気に飲み干した。
強烈な喉の渇きで目が覚めたリツコは、身体を起こそうとして異変に襲われた。
「あ、頭が痛い……」
カサカサに乾燥した唇から漏れた声にはいつもの張りがない。
「う、ううう」
自分のものでない枯れた声にリツコが顔を上げれば、ごつごつした蔦の床をミミズのように這っているデレクの姿。
何故か上半身裸の彼と昨晩何を話したのか、どういう経緯を経てこの状態なのか全く思い出せないが、室内に漂うアルコール臭と頭痛から彼女は一つの答えを導き出すことができた。
「あぁ。二日酔い」
痛む頭を働かせて思い出せたのは、スキットルに入った酒を水と間違えて口にしたところまで。
それ以降のことは、まったくもって記憶にない。
「喉渇いた……」
身体にまとわりつく毛布を押しのけて立とうとして、自分の動きを阻害する何かが体に巻き付いていることに気付いた。
見下ろせば、彼女の両足は大きなシャツの襟から揃って飛び出している。
「……」
毛布だと思っていたものはその裾で、リツコは男物のシャツをさかさまに着ているようだった。
「デレクさんのじゃないですか、これ」
彼が半裸の理由は分かったが、何故こんな状態になったのかは全く想像もつかない。
学生時代や社会人になった後もリツコは酒を飲む機会が幾度もあり、2日酔いを経験することはあったものの記憶が飛ぶ程に酔ったことは無かった。
原因はこの肉体か、それとも異界の酒か。
呻きながら床を這いまわるシャツの主と己の奇態を暫し見比べ、2度とアルコールの類は口にすまいとリツコは心に刻んだ。
シリアスを続けることができませんでした。




