美味しい日々
遅くなりました。今回はちょっと長めです。
彼は走っていた。
先の見えない、真っ暗な闇の中をひた走って逃げていた。
「うわっ」
何かに躓いた彼は、全力の走行速度そのままに地面に叩きつけられる。
痛みは感じなかったが、疑問は無い。恐怖のあまりそれどころではないのだから。
後ろからついてくるのは、軽快な足音。
慌てて立ち上がろうと体を起こした彼の目に飛び込んできたのは、自分が躓いてしまった障害物。
ぐったりとして力なく横たわっている男の、年齢の割に幼い顔は青白い。
「ひいっ」
生気のない濁った瞳と目が合って、慌てて身を引けば土の地面についたはずの手にぐにゃりとした感触が伝わる。
「あ……ぁ」
そこにいたのは、何かと声をかけてくれた強面だが気の良い男。鍛え上げられた逞しい手足を人形のように無造作に投げ出し、苦悶の表情で虚空を睨んでいる。
彼らの体は何かに食い荒らされたように千切れ、抉れ、その中身を晒していた。
声にならない悲鳴を上げながらそこから逃げ出そうとするが、震える体は思うように動かない。
背後の足音が大きくなる。
立ち上がることが出来ずにいると、徐々に近づいてくるモノの輪郭がはっきりとしてくる。
緩く波打った、烏の羽のように艶のある黒髪。
夕日より尚赤い、紅玉の瞳。
肌は陶器のように白く滑らかで、ふっくらとした柔らかそうな頬は瑞々しい桃の色。
「鬼ごっこは終わりですか?」
小さな唇からは、転がる鈴のような可愛らしい声が紡がれる。
飾り物の様に美しい少女の顔に描かれているのは、歪な悪魔の笑み。
「働かざる者食うべからずって言ったじゃないですかぁ」
けらけらと笑いだした少女の、宝石のように煌いていた瞳が血を流し込んだように濁りバラ色の唇が大きく裂けた。
彼女の背後の闇に無数の金の光が現れ、チカチカと瞬いている。
それは瞳だった。獲物を求めてぎょろぎょろと辺りを見渡し、時折思い思いに瞬きをしている。
「あっ」
身の毛がよだつような光景に、思わず声が漏れた。
慌てて口を覆うが、既に手遅れである。
「働けないなら、カラダで返してもらうしかないですよねぇ?」
バラバラに動いていた瞳が一斉にこちらを捉え、少女がケタケタと狂ったように笑う。
それを合図に、瞳の本体である狼たちが牙を剥き出しにして襲ってくる。
腕に、足に、体の各部に食い込んだそれは暴れれば暴れるだけ肌を傷つけ、深く食い込んでいく。
助けてくれと叫びかけた瞬間、1匹の狼が喉を目掛けて飛びかかってくるのが見えた。
自身の上げた悲鳴に驚いて目を覚ませば、そこは見慣れない場所だった。
ごつごつとした蔦に覆われた空間はまるで牢獄のようだ。
蔦の隙間から差し込む陽光はまばらで、朝だというのに薄暗い。
痛いほどに激しい動悸に胸を押さえながら起き上がり、自分がどこにいるのかを思い出す。
「お、お騒がせして申し訳ありません」
室内にいる全員の注目を集めてしまっている事に気づき、床に額を打たんばかりに頭を下げる。
「……大丈夫ですか?」
眠そうな声で問いかけるのは、赤い瞳の幼い少女。
「はい。朝早くから申し訳ありませんでした!」
眠りを妨げられた彼女がどうか怒っていませんように。
狼の餌にされませんように。
ついさっきまで見ていた悪夢が正夢になる可能性に怯えながら、デレクは必死で祈った。
ほんのりと光を帯びた、オパールのように美しい魔石がちりばめられた幻想的なテントの中。
毛布を折りたたんで作った座布団の上で、リツコは神妙な顔をしたエヴァンや子蜘蛛達と額を突き合わせていた。
「ごほん。……みんなのお陰で、やっと完成しました」
もったいぶって咳ばらいをした後、何を話していいのか分からなかったらしいエヴァンはシンプルにそう告げた。
彼らの中心にある丸太を切って作っただけのシンプルなテーブルの上には、ひと際大きい魔石が飾られている。
子蜘蛛たちに言葉は通じていない筈だが、雰囲気は伝わったようで言葉が終わるなり一斉に鳴きだした。
さざ波のような喜びの声に、エヴァンも真面目な顔を止めてはしゃぎだした。
「お祝いしよう!」
冒険者達との遭遇によって起こった諸々の件で中断していた3日間を挟んで、ようやく彼らの秘密基地が完成したのだった。
材料の調達とアドバイスをしながら温かく見守っていたリツコは、子供たちに向けて称賛の拍手を送る。
基地の中心にある大きな魔石は彼女が最初に魔力溜まりに行った際に見つけたもので、思い出して設置してみたのだ。
魔石自体は弱い光しか発しない為、明かりに使うには向かないが雰囲気がある為に好評を得ている。
「あの」
盛り上がっている子供たちに、外から控えめな声がかけられた。
秘密基地の入り口から中を覗き込んでいたのは、デレクだった。
おおよそ歓迎とは程遠い子供たちの突き刺すような視線を受けて、琥珀色の瞳が所在なさげに揺れている。
「どうしたんですか?」
なるべく柔らかく聞こえるように、声を調整してリツコが尋ねる。
「お、お食事の用意をしたいので、一緒に来て頂きたいのです……」
デレクがびくついた態度でぎこちない愛想笑いを浮かべた。
「はーい。行きます」
始終落ち着かない様子のデレクに、リツコは明るく返事をしながらこっそりとため息をついた。
彼の名はデレク・バレット。
整っているとは言えないが、優しそうな顔立ちをした青年である。
年齢は19歳。小さな食堂を経営する一家の次男で、魔術学校へ通っていたが中退して今は冒険者という職業についているそうだ。
魔法を使うが、魔女ではなく魔術師なのだという。その違いが何なのか、リツコにはよくわからない。
怯えきっている彼を宥めすかしながら、出会ってから5日の間に聞き出せた情報はそれだけである。
原因はいくつかあるが、一番は最初に行った皮肉を交えた脅しのせいだろう。
質問をすれば答えてくれるのだが、リツコの機嫌を損ねることが怖い為かあまり長く話をしたがらない。
分からない単語があって彼女が軽く眉を顰めただけで謝罪に移ってしまう為、全く会話が進まない。
悪役の演技が楽しくて調子に乗った数日前の自分を殴りたいと思う彼女だったが、やってしまったものは仕方ない。
朝、悪夢にうなされるデレクの悲鳴で叩き起こされるのも、何かを勘違いした彼に様付で呼ばれるのも罰だと思って受け入れるしかないのだ。
「そう、受け入れ……られるかぁぁぁっ」
見た目だけではあるが年上の男に様付で呼ばせ、あまつさえ機嫌を窺って始終媚びるような態度を取られて愉快な訳がない。どんな性悪女だ。
しばらく様子を見ると言った話し合い以来アドラメレクはこの件に対してノータッチな為、リツコには自力で解決する以外に道は無い。
「っ!?」
突然頭を抱えだしたリツコに、デレクが飛び上らんばかりに驚いている。慌てて振り返った彼の手には包丁が握られていた。
「あー、なんでも無いです。怪我しないように気を付けて下さい」
震える刃先に、動揺しすぎだろうと内心溜息をつきながらも笑顔を取り繕う。
毒を入れられないように監視する、という名目でリツコは毎食の準備を見守っている。
今後の為に料理を教えてもらうことが出来ればいいのだが、手伝いを申し出た場合にどうなるかは予想が付くため傍観に徹している。
「今日のメニューは何ですか?」
椅子代わりの丸太の上で足をぶらつかせながら、リツコは当たり障りの無い話題で距離を縮めようと試みる。
何気ない日常会話を繰り返すことで、自分の無害さをアピールする作戦だ。
「豆のスープと、猪肉の腸詰を作る予定です」
既に解体が済んで塊になっている猪肉を細切れにしながら彼が答える。肉は狼たちからのおすそ分けである。
「美味しそうですね。そっちのは何ですか?」
フライパンの上に載った白い物体に興味を引かれて指さした彼女に、デレクは少し言いよどんだ。
「パンを焼いてみようかと思って……窯が無いので、上手くいくか分からないのですが」
それだけのことを何故そうも悲壮な表情で述べるのか、とリツコが首を傾げる。
「貴重な小麦粉を勝手に使ってしまって、申し訳ありません」
どうやら彼は、リツコたちの持つ食材を実験的に使っていることに後ろめたさを感じているようだった。
「気にしなくていいですよ。どうせ私では天ぷらにするくらいしか利用法はありませんから」
確かに森で手に入らない小麦は貴重だが、それは料理が出来る人が居てこそである。
ホワイトソースも、パンも、麺類も、電気ガス水道が揃った日本の台所にてレシピが無いと作ることの出来ないリツコでは宝の持ち腐れである。
「それよりも、今日はパンが食べられるんですね!」
穀物少なめの森生活を送っていたリツコは目を輝かせる。一番恋しいのは炊き立ての白米だが、それは贅沢というものだろう。
「上手くいけば、です。俺も窯無しで作るのは初めてでして」
期待を膨らませるリツコに、プレッシャーを感じたらしいデレクが眉尻を下げる。
「失敗したものを捨てるのももったいないでしょう?とりあえず出来たら皆で試食しましょう」
生と消し炭以外なら許容できる、とリツコは膨らみ始めたパンに熱い視線を送る。
「パンがお好きなんですか?」
彼女のパンに対する情熱に気圧されたらしいデレクが首を傾げる。
「文化的な食事に飢えているんです。生の果実や焼いただけの肉ばかり食べていては、野生に戻ってしまいます。ウキーッ」
折角進化を遂げて文明を持つようになった人間も、森で獣のように暮らせば原始人に逆戻りしかねない。
それが悪いことだとは言わないが、リツコはもう少し現代的に生きていたいのだ。
「……ふっ」
猿の真似をした彼女をまじまじと見つめた後、デレクが慌てて顔を背ける。微かに漏れた呼気を捉えたリツコが、期待しながら彼に近寄った。
「な、何ですか?」
誤魔化すように、デレクは焼けたパンを割り顔を隠すように持って焼け具合を確認する。
見えないその表情は気になったが、リツコはそれよりも食欲を刺激するいい香りに心を奪われる。我慢が出来ず、ねだる様に彼女が両腕を伸ばすとデレクは戸惑いながら持っていたパンの欠片を手渡してくれた。
「いただきます」
口に入れてみれば、狐を通り越して狸色になった表面が少し固いが中はしっとりと柔らかい。当然のことながら、味は長年の品種改良を経て進化した小麦とこだわり抜かれた食材、充実した設備で作られた故郷のパン屋のものとは比べるべくも無い。
しかし、焼きたてを頬張ることが出来る点はそれを補う贅沢である。
「よろしければ……」
夢中になって齧りついているリツコを緊張しながら見つめていたデレクが、小さな椀によそったスープを差し出した。
透き通った琥珀色のスープに、少量の豆と野菜が彩を添えている。
「お、美味しいっ」
パンによって乾いた口内に、温かみをもったスープが染み込んでいく。一見具が少なくシンプルに見えるスープだが、様々な出汁の味が十分に出ていて複雑な味わいを醸し出している。
市販のコンソメスープしか使ったことの無いリツコとしては作り方を想像するしかないが、相当な手間がかかっているのでは無いだろうか。
「随分手の込んだ料理ですね」
ひとしきり堪能したリツコは、ふと我に返ってはしたないつまみ食いの手を止める。
「あ、し、仕込みの時は、ちゃんと見てもらいましたからっ」
彼女の発言を深読みしたらしいデレクが挙動不審になりながら弁解する。
「貴方が毒を入れるなんて思ってませんよ。自分で言ってたじゃないですか。仮に私を毒殺したとしても、魔物達から逃げ切れないって」
そう言ってリツコが見上げた先には、相変わらずの怯えた瞳。少しは距離が縮まったかと期待していたが、やはり時間をかけるしかないようだ。
椀の底に残ったスープを啜った彼女は名残惜し気にパンに視線を送っていたが、自分が邪魔になることを自覚して大人しく丸太の上に戻って完成を待つことにした。
お料理を美味しく描写できるとほのぼの感が増すんですが、中々食材や料理の知識が増えません……。




