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釣り餌のきもち

 囮役をリツコが引き受けてから、約2時間をかけて罠の補修と改良が終わった。

 メインの大きな釣り針の他に予備の針を何本か追加し、巨大魚の出現場所に多少のずれがあっても対応出来るようにした。

 リツコの腰には細いロープが括り付けられ、魚が出現すると同時に空中へ引き上げてその牙から逃れる手筈となっている。

『大丈夫、大丈夫』

 大きく深呼吸をしたリツコが上を見れば、木々の間に張られた蜘蛛の糸が反射する細い光が目に入る。

 釣り針から伸びるロープの先にある銀の枝から見下ろす一対の瞳が心配そうな、かつ怒ったような表情を浮かべて彼女を見つめている。

『ごめんね、アド』

 リツコが小さく謝罪を述べると、それが耳に届いたのか彼は諦めたように首を振った。

『いつでもいいよ』

 目線の先で手を振ったアドラメレクに答えて頷き、リツコは目を閉じる。

 瞼の裏に浮かぶのは鋭い牙に噛み潰され、暗い穴に飲み込まれていく自分の姿。

 今にもこの場から逃げ出したい思いに駆られた彼女は、緊張と恐怖で激しく鳴る心臓を押さえつけるためにその場にしゃがみ込んだ。

 止めます。という言葉が彼女の喉から出掛かったが、ここで引き下がる訳にはいかない。

 アドラメレクは逃げれば良いと言ったが、それが可能なのは彼が1人の場合である。

 ここで逃げてしまえば、今後ここに住み続けることも、蜘蛛達の庇護を受けることも出来なくなる。

 危険な獣や魔物のうろつく魔の森で味方もなしに、戦う術も俊敏な逃げ足も持たないエヴァンやジャネットを抱えて生きていくことなど不可能だ。

 近いうちに守りきれなくなって、彼らを捨てることになる。

 そして、いずれリツコも捨てられる。

『……いきます!』

 恐ろしい想像を振り払う為に首を振って、リツコは決意を込めて立ち上がった。

 肺一杯に吸い込んだ空気を使って、力の限り声帯を振るわせる。

「ああああぁぁぁぁぁぁぁ」

 獣の咆哮のように森に広がったその叫びは、リツコ自身の耳に僅かな余韻を残して消え去っていった。

 代わりに、声に反応して彼女に近付く音がある。

 息を吐ききって限界を訴える肺と、恐怖に震えてへたり込みそうになる両足を心の中で罵りながら頭の中で次にすべきことを復唱する。

 まだ、彼女の役目は終わっていない。

『はぁ、はぁ』

 息を整える間も無く、リツコは右足を持ち上げた。

 勢いを付けて足の裏で地面を叩き、その場で足踏みをする。

 耳の良い捕食者に向かって、捕まえて見せろとアピールすること数回。地面を掘り進んでいた音が彼女の足元でぴたりと止まる。

『引いてっ』

 魚が跳躍の準備に入った気配を察して、リツコは頭上へ向かって叫ぶ。

 樹上で彼女の腰につながるロープを銜えていた大蜘蛛が慌ててそれを引く。

 ロープの動きに合わせて地面を蹴ったリツコの真下。一瞬前まで彼女の足があった場所に、ぽっかりと黒い円が出現した。

『近っ』

 空中に逃げた獲物を追って、予想していた以上に高く飛び迫ってくる魚の姿にリツコの背筋が凍りつく。

 並んだ歯の先端が小さな足に巻いた布を引っ掛けて大きく引き裂き、傷ついた皮膚から滴る赤い滴が魚の口へと消える。

 とっさに足を引いた彼女のつま先を引っかいて、生臭い風を吐き出す凶器が閉じた。

 くすんだ鉄の色をした胴を日光にさらした魚は、空中で一瞬静止したのち重力に負けて土の海へと帰る。

『助かった……』

 ぽつりと呟いたリツコの赤い瞳と、地中で退化したのであろう魚の白く濁った瞳が見つめ合う。

『引けえぇぇ!!』

『ウオオオオオ』

 一瞬の静寂を裂いて、木々の間から鬨の声が上がる。

 少女の代わりに釣り針を飲み込んだ魚は、魔物たちの引く釣り糸によって宙吊り状態になる。

『――グオオオオオ』

 口内に突き刺さる針の傷みにもがき苦しみ、逃れようとした魚が身を捩る。

 暴れる巨体に向かって、四方から一斉に糸が放たれる。

 鱗に当たった蜘蛛の糸はそのざらついた表面にべったりと張り付き、魚が暴れる度に予め木々の間に張ってあった糸を巻き込んで容赦なく絡みついていく。

 助けを求めるように口を開閉させる獲物の様は、リツコに餌を求める金魚を思い起こさせた。

 気の遠くなるような長い抵抗の末、幾重にも巻かれた糸によって自由を奪われた魚はその動きを止めた。

『やった、の?』

 リツコは瞬きも忘れて、毛糸玉のようになった白い塊を食い入るように見つめる。

 ぐったりと垂れ下がった鰭はぴくりともせず、魔物にすら恐れられた巨大魚はただ風に押されてロープをぎしりぎしりと鳴らすのみである。

『やった……。そうだ。やった!仕留めた!!』

 自身も宙に吊られたまま緊張の面持ちで魚の様子を窺っていたリツコの、興奮した声が辺りに木霊した。

 一呼吸遅れて、周囲からも歓声が上がった。

 歓声は熱狂的な騒ぎへと代わり、蜘蛛達は早口でお互いの善戦を称えあう。

『あ、痛っ』

 ふつり、とリツコを支えていたロープが緊張を失って彼女は地面へ叩きつけられた。

 喜びに沸いた大蜘蛛がロープを離してしまったようだ。

『ちゃんと支えてくださいよ、もう!』

 体重が軽い為に大した怪我はしなかったものの、全身を襲った痛みにリツコが抗議の拳を振り上げる。

 ワンピースに付いた土を払いながら立ち上がったその隣へ、ゆっくりと魚が下ろされる。

 まだ微かに命の名残を感じさせるその巨体を見上げてリツコは息を呑む。

 一歩間違えば、ほんの少し運がなければ、彼女は今頃この巨大魚の胃袋の中で生を終えることになっていたはずだ。

『は、ははは』

 足を裂かれた痛みを思い出し、今更ながら恐怖を感じて力なく笑うリツコ。

 震える膝が力を失い、地面に崩れ落ちそうになるその直前。

『リツコ!』

「リツ!」

 少女の体は横合いから突っ込んできた2つの影に攫われて、悲鳴を上げる間も無く再び地面へ転がった。

「えーっと、エヴァン。貴方は何処から出てきたのかな?」

 大小2人の同居人に圧し掛かられて起き上がることも出来ないリツコはどちらに声をかけるか迷い、とりあえずこの場に居ないはずの少年に問いかけた。

「エヴァン?」

 返事が無い事に疑問を抱き、目を空から自分の胸へ移した彼女はぎょっと目をむいた。

「だっで、だっでぇ、ぜんぜいがりづこがぎげんなごとじでるっでぇぇぇ」

 涙と鼻水とでぐしゃぐしゃになった顔を上げて、しゃくりあげながら訴えるエヴァン。

 喋っている本人以外には何を言いたいのか全く伝わらないが、ここで問い詰めるのは酷というものだろう。

「ああ、うん。分かった。分かりました。私は無事だから。ほら、泣かないで」

 生暖かく湿ってきた胸元に苦笑しながら、彼女は自分へ縋る金色の小さな頭を撫でる。

『アド、重いので退いてもらえませんか?』

 エヴァンごと抱きかかえるようにリツコに圧し掛かる、もう1人に声をかける。

『……心配したんだよ』

 アドラメレクは俯いている為、リツコからその表情は見えない。

『……はい』

 変な弁解をせずに、彼女は素直に頷く。

『いっつも、無茶ばっかりして』

 お説教に似合わない弱弱しい声に、リツコの胸がつまる。

『ごめんなさい』

 しおらしい少女の謝罪に、魔物は疑わしげに眉を潜めた。

『いつもそればっかり。反省してないでしょ』

 上目遣いに見上げる彼の顔は子供のような膨れっ面で、急に可笑しくなったリツコは唇の端を吊り上げた。

『してますよ。次は落とされないようにロープを引く人を慎重に選ぼうと思ってます』

 涼しい表情で言われ、アドラメレクは一瞬きょとんとした後に口をへの字に曲げた。

『もうっ』

 怒ったように声を上げながらも、彼はリツコを抱きしめる両腕にやんわりと力を込めた。

 彼らの隣では、興奮さめやらぬ蜘蛛達がまるでダンスをするように飛び回っていた。


主人公は美味しくいただかれずに済みました。

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