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逃した魚は本当に大きい

 日の光で鏡のように輝く湖から少し離れた、冷たい銀の木立。

 その一番高い木の枝に登って、リツコは眼下に広がる仕掛けの最終チェックをしていた。

 木々の間に張り巡らされた糸が、風に揺られて細い光を放つ。

 地上では、木製の杭につながれた1匹の牡鹿が静かに草を食んでいる。

 鹿の足元には、アドラメレクの馬鹿力によってU字に捻じ曲げられた刀剣を幾つか束ねたものが転がっている。

 刀剣の束から伸びる太いロープを辿ると、それは一際太い木の中腹あたりにがっちりと縛り付けられていた。

『こんな感じかな』

 チェックを終えて1人満足気に呟いていたリツコは、自分の真下に待機する大蜘蛛に魔物言葉で呼びかけた。

 それに応えて下から飛んできた糸の端を掴んで自分の腰に巻きつけると、彼女は一つ深呼吸をして飛び降りた。

『おっとっと』

 よろめきながらもなんとか下の枝に着地したリツコは、同じ高さの枝に待機していた大蜘蛛とアドラメレクに頷いてみせる。

『仕掛けのほうは大丈夫そうです。そちらはどうですか?』

 リツコが尋ねると、アドラメレクが周囲の枝に目を向けた。

『もういいみたいだよ』

 にんまりと笑う彼の視線の先では、枝の上にいた大蜘蛛たちが各々前足を上げて同意を示した。

『では、いきますか』

 気合を入れて両手を打ち合わせたリツコは、自分のすぐ横の幹に縛られたロープを確認する。

 蜘蛛の糸で作られたそのロープは絹のような光沢と滑らかさを持ちながら、ワイヤーのように強靭である。

『おおおおおおおぉぉん』

 大蜘蛛たちの緊張した視線が集まる中、リツコと目を合わせたアドラメレクが吼えた。

 あらかじめ耳を塞いでいてもなお、びりびりと鼓膜を振るわせるその音量に身を竦めつつ少女は地面に目を落とした。

 突然上がった魔物の咆哮に、驚いた鹿が食事を止めてぴんと耳を立てて警戒している。

 やがて、息を飲んで見守る一同の耳に小さく地響きの音が届き始めた。

『来ましたね』

 リツコが汗で湿った両手を蜘蛛糸のロープに添えると、隣に移ってきていたアドラメレクもそれに習う。

 まるで綱引きをするように腰を落とした2人は、そのまま静かに音の主を待った。

 小刻みに体を震わせている鹿の真下までやってきた音の主は、周囲の予想を他所にその姿を現そうとはしなかった。

『……あれ?』

 ロープを抱えたまま、アドラメレクが首を傾げる。

『鹿を脅かして下さい!』

 それが獲物の位置を図りかねているせいだと気付いたリツコが、慌てて近くにいた蜘蛛に指示を飛ばした。

 1匹の大蜘蛛が鹿の足元に向かって糸を飛ばし、それに驚いた鹿が跳ねる。

 繋がれているために遠くに逃げることが出来ない鹿が、恐慌をきたした様子で暴れ始めた。

 リツコの指示が功を奏し、哀れな獲物を捕らえようと音が浮上を始めた。

『あっ』

 予定通りに事が進むと思われた次の瞬間、リツコは計画の失敗を悟って思わず声を漏らした。

 地面から巨大魚が顔を出すその直前、必死に抵抗する鹿の後ろ足がU字型の刀剣の束を蹴飛ばした。

 釣り針の役割を果たすはずだったそれは、巨大魚の口から遠く離れた草の上に力なく転がった。

『あー……』

 その場にいた誰もが、哀れな鹿が魚の胃袋へ消えていくのをただただ見送ることしか出来なかった。



 鹿の抵抗と魚の捕食のおかげで荒れてしまった草の上で、少女と魔物たちが沈痛な面を並べていた。

 ジャネットと共に彼女達が徹夜で立てた『巨大魚を釣りあげて魔力を得る』作戦が失敗に終わり、心が沈んでいるのだ。

 仕掛けには殆ど損傷がなかった為、皆再度挑戦をしたい気持ちではあるのだが。

『餌が居なくなってしまいました』

 少女の呟きに、叱咤された訳でもないのに一同は深く首を垂れた。

 リツコはもちろんのこと、草食の大蜘蛛たちも狩りの経験に乏しく、3日かけて鹿1頭を確保するのが精一杯だったのだ。

『困りました』

 リツコは頭を抱えた。

 疑似餌を使うことを思い立ち、紐で吊った岩や木で地面を叩いて足音を擬態してみたが、巨大魚は近くまで寄っては来るものの食いつくまでには至らなかった。

 やはり餌は生き物でなくてはならないらしい。

『誰かが囮になるしかないかな』

 溜息混じりにそう呟いたアドラメレクに、大蜘蛛たちの視線が集中する。

『だってそうでしょ?もう餌を調達する時間なんてないよ』

 その視線に否定や叱責の色を感じ取ったアドラメレクは、口を尖らせて全員を睨む。

『誰かを餌にして作戦を続けるか、このまま止めるか、どちらかしかないんだよ?』

 アドラメレクの視線が最後にリツコの上に止まり、そこで再び沈黙が降りた。

 犠牲者を出さずに乗り切ることが出来ると一旦希望をもっていただけに、この失敗は全員の心に重く圧し掛かっている。

『そう、ですね』

 曖昧に頷いたものの、リツコの脳裏には作戦を断念する未来がはっきりと映った。

 囮は誰にでも出来るが、自己を犠牲にしなくてはならないその役を誰が引き受けるというのか。

 まして、この先狼達と一戦交える可能性があるのだから蜘蛛たちは仲間を減らすことは避けたいはずである。

 視線を向ければ、彼女と目の合った蜘蛛は不安そうに身を揺すった。

『誰か、囮をやれるひとはいないでしょうか』

 見かけより俊敏な動きが出来るとはいえ、大蜘蛛の巨体では魚の牙から完全に逃げ切ることは不可能だろう。

 彼らより小柄で身軽なアドラメレクやリツコは俊敏だが、それでも運が良ければ生き残れるという程度の違いでしかない。

 しん、と静まり返った場。

 各々の呼吸が居心地の悪くなる和音を奏でている。

 その静寂を、小さな手が打ち破った。

『よし、分かりました!』

 勢い良く手を叩いたリツコが、大きな声で呼びかけた。

 諦めきった表情をした魔物たちは、その音量を注意することも忘れて少女に注目する。

『私がやりますっ』

 無謀を極めるリツコの宣言。

 その場の全員が肯定も否定も出来ず、ただただ彼女を見つめていた。

長くなりすぎたので、次と分割しました。短くてすいません。

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