大蜘蛛VS狼
ちょっと暴力的です。
太陽が中天へ差し掛かる頃。
瑞々しく輝く苔の間を、木の実をたっぷり詰め込んだ袋を抱えたリツコが進む。
少女の隣を、獲物を右手にぶら下げたアドラメレクが彼女の足に合わせてゆっくりと並んで歩いている。
『今日は久々にお肉が食べられますね!』
アドラメレクが一歩踏み出す度に目の前でゆらゆらと揺れる兎に、リツコの胸は達成感で満たされていた。
動物を見て美味しそうなどと発想するのを見ても分かるように、育ち盛りのエヴァンは肉が好きだ。
しかし、食卓に肉が上るのは極稀である。老いたり怪我をしたりして弱っている動物を運よく見つけることができたときにのみ、リツコ達はそれを口にすることができた。
エヴァンの為と栄養バランスの為に、リツコは採集だけでなく狩猟も生活に取り入れて行きたいと考えていた。
思い立ってすぐの頃は罠を作ってみたり、拾った弓の練習をしてみたりと試行錯誤していた。
結果としては、素人が一朝一夕で身につけられるような技能であれば猟師という職業は成り立たないのだと思い知らされるだけであった。
自分に出来ることとして暇な時間を使って投石の練習に励んだ結果、彼女は10回に1回程度は動く獲物に当てられるようになった。
謎の筋力のおかげで、リツコの投げる石は専用の道具など無くても十分な威力を誇っている。
彼女の手を離れた石は放物線などというやわな軌道は描かずに、銃弾のように直進して目標へ突き刺さるのだ。
一発でも当てれば、肉が手に入る。そう確信してから何匹の獲物を逃したことか。
アドラメレクに掴まれた兎は、諦めかけていたリツコに漸く天が与えてくれた初の成果だった。
『……僕は遠慮しとくよ』
大喜びのリツコとは対照的に、重い溜息をついたアドラメレクが続ける。
『だって、彼女が料理するんでしょ?』
その言葉に、リツコの表情筋が硬直した。
『……そうでした』
彼女の眉はみるみるうちにハの字に垂れ下がり、上気していた頬が色を失う。
『お昼ご飯は先生の担当ですもんね』
すっかりしょぼくれてしまったリツコたちの前に、立派な銀の木が現れる。
いつもならば、その下には炊事の準備をするジャネットとエヴァンの姿があるのだが。
『あれ、誰も居ませんね』
姿が無いどころか、竃から上がる煙も無い。
『待って』
竃に駆け寄ろうとした少女の肩を掴んで、アドラメレクが声を潜める。
リツコが見上げると彼の目はぎょろぎょろと辺りを窺い、長い耳はぴくぴくと忙しく動いている。
配色のせいで目の動きに若干の気味の悪さを感じるが、彼が周囲を警戒しているのは良く分かった。彼を真似てリツコも静かに周囲を窺う。
「キィ」
金属の擦れるような、小さな音がリツコの耳に届いた。
続いて、軽い布で地面に擦っているような音。何かがゆっくりと2人へと近付いているようだ。
2人が音のする方へ目を凝らすと、下草の向こうに小さな小さな黒い点が現れた。
『どうしたの!?』
音の正体が判明すると同時に、リツコは悲鳴を上げてそれに駆け寄った。
現れたのは、林檎程度の大きさの一匹の蜘蛛だ。彼は最近生まれたばかりの、巨大蜘蛛の赤子である。
『怪我してるじゃない!』
リツコが狩りに出る前までは元気に走り回っていた筈の赤ちゃん蜘蛛は、足を3本失っていた。
体にも傷があるのか、彼の歩いた後には体液が滴り背の低い草や苔の上に小さなシミを点々と残している。
『リツコ!』
助けを求めるように鳴いた蜘蛛に手を伸ばしたリツコは、視界の端を横切る影に気付いて顔を上げる。
地面を蹴って彼女に飛び掛ってきたのは、シベリアンハスキーに似た獣だった。
その綺麗な黄色の瞳と目が合ったリツコは鳥肌の立つような悪寒を覚え、持っていた袋を正面に突き出した。
小さな両腕を衝撃が襲い、湿った音を立てて袋の中の果実が潰れる。受け流そうと彼女が体を大きく捻ると、体当たりしてきた速度をそのままに襲撃者は背後へ投げ飛ばされる。
空中で体勢を立て直した襲撃者が着地すると同時に、その柔らかそうな腹を狙ってアドラメレクが爪を一閃させる。
大きく裂けたのは獣の腹ではなく、その鋭い牙に奪われた袋だった。袋の一部が爪に引っかかり、鮮やかな色をした木の実を飛び散らせながら襤褸布と姿を変える。
色とりどりの木の実のカーテンがほんの僅かな時間だけ、両者の視界を奪った。
『犬?』
アドラメレクの爪に警戒したのか、灰毛の獣は距離をとってリツコたちを睨みつけている。
『狼だよ』
尻尾をぴんと立てたアドラメレクが、のんびりとした口調で訂正する。
『もしかして、強敵だったりしますか?』
一見暢気に聞こえる相棒の声が僅かに上ずっていることに気がついたリツコは、背中に蜘蛛を庇いながら足元の小石を拾う。
今までの狩猟の成績を思えば命中率は期待できないが、何もしないよりはマシだろうと投擲の姿勢をとる。
低く喉を鳴らし、再び襲い掛かろうと姿勢を低くした狼の目が黄金色の光を帯び始める。
『そうかも』
答えたアドラメレクの口が半月型に裂ける。獣と魔物が牙を剥き、低いうなり声を上げながら威嚇し合っている。
緊張がピークに達し、狼が苔を踏みしめて飛び掛るような素振りを見せる。その狼を狙って、上空から突然白い色が降り注いだ。
地面に突き刺さるかのように飛んでくるそれは、大量の白い糸だった。粘着質なそれを軽やかなステップで避けながら後退する狼。
『きゃあっ』
糸を伝って樹上から滑り降りてきた大蜘蛛が、重い音を立てて足先を地面に食い込ませた。
蜘蛛の着地と同時に巻き起こった謎の旋風が細かい土や枯葉を巻き上げた為、リツコは両腕で顔を庇う。
『去レ。サモナクバ、殺ス』
目に寒色の光を灯した大蜘蛛は、侵入者に向かってシンプルかつ容赦のない警告を発した。
しばしの間両者は無言で睨みあっていたが、己の不利を悟った狼が一声鳴いて森の奥へ消えていった。
『ふぅ』
忙しなく耳を動かしていたアドラメレクが安堵の溜息をついたのを見て、身を硬くしていたリツコもほっと胸を撫で下ろす。
『助けてくれてありがとうございます』
大蜘蛛に向かって頭を下げたリツコは、彼の目が自分の足元に釘付けになっていることに気がついた。
視線の先には、小さく震える黒い毛玉。
『赤ちゃん!』
リツコが悲鳴を上げた。赤ちゃん蜘蛛はすっかり衰弱した様子でその場に蹲っていた。
抱き上げようと手を差し伸べたリツコの心に、虫への嫌悪感が過ぎった。しかし、あまりに悲惨なその姿に嫌悪よりも同情が勝り、覚悟を決めて小さな命をそっと拾い上げる。
ふかふかした毛に覆われたその体は愛玩用の小動物に似て手触りが良く、彼女は自身で思っていたよりも抵抗無く胸に抱くことができた。
『アド、布を取ってきて、今朝洗濯したやつ!』
人間たちから回収した傷薬が効くかもしれないと考えたリツコが、指示を出すなり返事を待たず自分達の巣へむかって走り出す。
片腕に蜘蛛を抱いている為に普段より速度が落ちているのをもどかしく思いながら、彼女は取り付いた縄梯子を上りきる。
「リツ。どうしたの?」
必死の形相の少女に、巣の中にいたエヴァンが驚いた様子で駆け寄ってきた。
「ちょっとこの子をお願い」
これ幸いとエヴァンに子蜘蛛を手渡すと、リツコは巣の奥に並べてあった薬瓶を漁る。
「何を探しているの?」
エヴァンと一緒に巣にいたジャネットが、散らかされて転がる瓶の群れを覗き込んだ。
「傷薬。その子、怪我をしているんです」
ラベルが読めない為に苦戦していたリツコに、ジャネットが横から手を伸ばして緑の液体の入った瓶を取り上げた。
「これが傷薬よ。でも、これ全部人間用だわ」
果たして蜘蛛に効くのだろうか、と困ったように首を傾げるジャネット。
「無いよりは、マシだと思うんですけど」
その言葉に、リツコは受け取った薬瓶と丸くなった蜘蛛を見比べて眉を落とす。
少しの間迷っていた彼女は自分の言葉を後押しするように頷き、瓶の蓋を開けて薬を指先に取って蜘蛛の傷口に優しく塗り始めた。
『大丈夫、大丈夫。きっと助かるよ。少しだけ我慢してね』
痛むのか、蜘蛛は高い声で弱弱しく鳴く。傷口に強く触れないように注意しながら、リツコは作業を進めていく。
大蜘蛛たちは大きくても小さくても蜘蛛であり、目の前の赤ちゃんも愛好家を除く一般人にはお世辞にも可愛いとは思えない外見をしてはいる。
しかし、リツコはこの子たちが卵から生まれてきたときに親蜘蛛たちがどれだけ喜んだか知っている。
伴侶も見つからないうちにこの世界に迷い込んでしまったリツコには、子供を失う親の気持ちは分からないだろう。
しかし、家族を失う気持ちは痛いほどに分かる。
「どうか、死なないで」
もう会えないであろう家族の顔を思い浮かべながら、リツコは強く祈った。
そのうちに、彼女の指についた薬が燐光を帯び始めた。
傷ついた子蜘蛛の腹に彼女の指が触れると、傷口についた薬が小さな光の粒を散らしながら消えていく。
いつの間にか、リツコが左手で握っていた瓶の中身も同じように淡く輝いていた。
「どうしてっ」
いくら塗っても傷口に定着せず、消えてしまう薬に焦りを感じてリツコは唇を噛む。
「リツ。もういいよ」
子蜘蛛を抱えていたエヴァンが、その小さな手でリツコを遮った。
「でも」
助けを求めるように顔を上げたリツコの目には、混乱と焦燥がはっきりと浮かんでいる。
「もう血が出て無いよ」
彼女を落ち着かせるように穏やかに、しかしはっきりと言いきったエヴァンが小さく微笑みを浮かべた。
目を瞬かせたリツコは、恐る恐る子蜘蛛に目を落とす。
子蜘蛛は相変わらず傷だらけで弱ってはいるものの、傷口には薄っすらと瘡蓋のようなものが出来てそれ以上命が漏れ出すのを防いでいた。
「助かる、のかな……?」
安堵してよいものか判断が着かず呆然としたままのリツコが呟いたとき、包帯に使われる予定の布を手にしたアドラメレクが入り口から顔を覗かせた。
ほのぼのしない。
ほのぼのしたい。




