目覚め
5/5 脱字訂正
リツコが目を開けると、澄んだ青色が目に飛び込んできた。
周囲には、さざ波のような穏やかな音が満ちている。
心地よい温かさに、彼女の両目は再び閉じていく。
「電車!!」
意識を失う直前の出来事を思い出して我に返り、飛び起きたリツコは自分の体を見下ろした。
手足がもげたり、内臓が飛び散ったり、赤い液体にまみれたりしていないことを確認して彼女は安堵のため息をついた。
状況確認のために、彼女は周囲を見渡した。
そこは、真っ白な壁に囲まれた病室ではなかった。
真っ暗な棺桶の中でも、もちろんない。
「どこ、ここ」
背の高い木々に囲まれて、リツコから見える空は小さく切り取られている。
地面には、高さの揃わない草や苔が沢山生えており土の露出が少ない。
リツコには、ここが森の中のように見えた。
「私、死んだの?」
宗教的な知識に乏しいので、死後の世界がどのようなものなのかリツコは知らない。
花畑や三途の川。もしくは天国と地獄。
リツコは漠然と、そんなようなものがあるのだろう思っていたのだが。
「なんか、思っていたより普通ね」
小さい頃にリツコが遊んでいた学校の裏山よりは原生林といった風情だが、彼女が生きていた頃に見ていた風景とあまり変化がないように見えた。
ひょっとすると、リツコはまだ死んでおらず夢を見ているのかも知れない。
あの状態から電車に轢かれたのならば、即死は免れても2度と目覚めなくてもおかしくない。
「ああ……なんて華のない人生」
不景気な世の中を憂いて、リツコは老後の為に生活を切り詰めて貯金をしていた。
「こんなことになるならば、半分くらいパーッと使ってから死にたかったなぁ」
小学生の卒業アルバムに書いたリツコの夢は、可愛いお嫁さんになること。
その頃から現在に至るまで、リツコの周囲に男の影は無い。
「ドラマみたいにとは言わないから、ちょっとぐらい恋もしてみたかったなぁ」
しみじみと回想して嘆息したリツコは、ふと喉の渇きを覚えて思考を中断する。
口内が乾いて粘ついている。
それに気付くと同時に、彼女の胃がきゅるきゅると間の抜けた音を立てた。
「お腹空いた」
死人も空腹を覚えるものなのかと疑問に思いながらも、リツコは食べ物を探して周囲を見回す。
彼女の目に入るのは、木と雑草と苔ばかりだ。
植物に詳しくないリツコとしては、その辺の正体不明の草を食べるのは気が引けた。
「誰か、いないかな」
食べ物を探す為に立ち上がった彼女は、自分の視界に違和感を覚える。
周囲の草木がリツコに比べて異常に大きい。
疑問に思ったリツコは改めて自分の体に目を落とし、驚愕した。
「ちっさ!」
何がと言わず、何もかもが小さい。
丸みを帯びた手のひらも、むき出しの地面を踏みしめる足も成人とは思えないほど小さい。
足から頭までの距離が、彼女の見慣れていたものよりも近い。
ささやかながら存在した胸の膨らみが断崖絶壁になり、若干くびれていた腰周りも平坦にならされている。
服装も仕事用のスーツではなく、シンプルな白いワンピースに変わっている。
彼女が恐る恐る顔に手をやると、ふっくらとした柔らかい頬に触れた。
「子供になってる?」
心なしか、声も幼いように感じられた。
リツコは暫く呆然としていたが、我に返って首を左右にふる。
「夢。そう、これは夢よ!子供の頃の夢を見ているんだわ!」
夢の中ならば何が起こってもおかしくはない。
そう自分に言い聞かせて無理やり納得したリツコは、空腹を満たす為の食べ物を探す為に歩き始めた。
どれだけ歩いても、森の景色は変わらなかった。
最初のうちは見たことのない花や変わった形の植物に興味を惹かれていたリツコだったが、歩いているうちに飽きがきた。
変化のない景色を見ながら当てもなく彷徨うのは、リツコが思っていたよりも辛かった。
履物がなく、裸足であることも彼女に追い討ちをかけた。
「痛っ」
小さな石を踏むたびに痛みに襲われた彼女は、1時間程度で歩けなくなった。
疲労と空腹を抱えながら、木を背もたれにして座り込む。
リツコは見た目だけでなく、体力面でも子供に戻ってしまっているようだ。
「もう、駄目かも」
傷ついた足の裏をさすりながら、彼女は諦めたように肩を落とす。
疲労に負け、うとうとと目を閉じた彼女の耳に音が届いた。
風に揺らされた木の葉の擦れる波のような音と、どこからか聞こえる小鳥の声。
その合間を縫って、微かに水の流れるような音がする。
それに気付いたリツコは、両手を耳に当てながらゆっくりと体を回して音のする方向を探る。
やがてその方向を特定できた彼女は、疲労も忘れて立ち上がり音のするほうへ進む。
暫く歩いていくと足を苛む小石が大粒の丸い石に変わり、リツコは音の出所を発見することが出来た。
「川だ!」
丸みを帯びた石が多いとはいえ裸足の彼女には厳しい川原を進み、川のほとりにたどり着いた。
静かに流れる川の水は青く澄んでいて、涼しげな音を立てながら下流へと流れていく。
彼女が流れに手を伸ばすと、冷えた川の水が実に快く指の間をすり抜けた。
真っ先に喉の渇きを癒そうと両手で水を掬ったはいいが、リツコの頭に不安が過ぎる。
「この水、大丈夫かな?」
病原菌。食中毒。寄生虫。
さまざまな危険が彼女の頭を駆け巡ったが、カラカラになった口と空腹を訴えて鳴る胃袋には勝てなかった。
手の中の水を飲み干すと、我慢できなくなったリツコは顔面を川に突っ込む。
四つんばいになったまま、彼女は激しく喉を鳴らして水分を摂取する。
「ぶはっ」
息が続かなくなるまで飲み続け、ようやくリツコは水面から顔を上げた。
喉の渇きを癒やすと、リツコは火照った足を川へと差し入れた。
冷えた川の水は心地よく、足の痛みが和らいでいく。
川原はすわり心地が抜群に悪く、石の上に置いた尻が痛いがリツコはとりあえず人心地つくことができた。
少し落ち着いたところで、彼女は自分の置かれた状況を把握しようと考え始めた。
「まず、ここはどこなのか」
死後か夢かというのはひとまず置いておいて、この森はどこにあってどうすれば抜けることができるのか。
空腹を満たす為の食料を得るにはどこへ行けば良いのかも、リツコには分からないのだ。
目覚めた場所から川まで歩く間に場所を把握出来るようなものは何も見つからなかったので、リツコはこの問いを保留にすることにした。
「何故私は子供になっているのか」
呟いてすぐに、自分が何歳くらいにまで逆行しているのか気になった彼女は立ち上がって辺りを見回す。
目的のものはすぐに見つかった。
「痛たた」
小石に足の裏を刺激されつつ、彼女はその場所まで移動する。
そこには、川の水が地面のくぼみに流れ込んで出来た小さな水溜りがあった。
それが鏡のように周囲を移し込んでいることを確認し、リツコは真上から水面を覗き込んだ。
「ん?」
そこに映る自分の姿を眺めて、リツコは首を傾げる。
肩まで伸びるウエーブのかかった黒髪。
彼女の記憶の中に残る自分の姿と、水面から自分を見つめ返す少女の間に一致する特徴がそれしか見られなかった為だ。
そこに映るのは、6歳くらいの少女。
彫りの深い顔立ちと、真っ白な肌。
ふっくらとした頬と小さな薔薇色の唇は、まるでフランス人形のようだ。
どう見たってリツコの元の顔とは似ても似つかないのだが、問題はそれだけではない。
「怖っ」
水面からこちらを見つめている少女の瞳は、血のような赤い色をしていた。
ほっそりした子供の手足とあいまって、彼女はホラー映画に出てくる幽霊のようだ。
「てか、誰だ、私」
今までリツコは自分が日本人だと思っていたのだが、それにしては異質すぎる顔立ちだ。
アルビノと呼ばれる遺伝子疾患があることはリツコも知っているが、それにしては髪が真っ黒なのはおかしい。
やはり夢か。
別人になった夢を見ているのだと、リツコは確信した。
夢の中であれば、ここが何処で自分が何なのか確かめようとしても整合性のある答えなど得られるはずもない。
「まあ可愛い子になれたなら、いいか」
諦めたようにリツコが笑えば、水面からかわいらしい少女が微笑み返してくる。
しばらくそうやって現実逃避していたリツコだったが、直後に鳴った腹の虫によって現実に引き戻され盛大なため息をついた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
初めて書く小説なので、まだ投稿ペースがどうなるか分かりませんがこの後も読んでいただけたら幸いです。