プロローグ
遠田律子は、駅のコンビニで買ったパックの野菜ジュースを片手に電車が来るのを待っていた。
帰宅ラッシュのホームは込み合っており、律子と同じようなスーツ姿も多く見受けられる。
折りたたみ式のストローを伸ばして飲み口に差込み、パックの中身を口に含んだ律子は眉を潜めた。
ジュースは野菜の青臭さが強く、彼女が期待したほど甘くない。
正直、不味かった。
私の120円を返せ、と心の中で毒づいた律子はイライラついでに嫌なことを思い出してしまった。
彼女は昼間、電話応対の際のミスで上司に叱られたのだ。
普段の彼女ならばやらなかったようなミスで、電話相手がその取引先でなければ問題にならなかったはずの些細な事件だ。
色々な事情が重なって律子では対処できず、結局上司に対応を頼むことになってしまった。
そのむしゃくしゃした気持ちを癒そうと買った野菜ジュースにすら期待を裏切られる。
なんてついてない日だろう、と苦々しく思いながら律子は残ったジュースを一気に飲み干す。
べこん、と空になった紙パックが音を立てた。
「はぁ」
ストローから離れた唇からため息が漏れた。
小さなことに一々イライラを募らせる自分の心の狭さに、律子の気分はどんどん沈んでいく。
こんな時、律子が愛読している恋愛小説の主人公たちには慰めてくれる相手がいるのだが。
「現実は甘くないか」
もうすぐ30歳になる彼女に恋人は居ない。
一人暮らしのアパートには、彼女を慰めてくれる家族もペットも居ない。
気を紛らわそうとした彼女がポケットから取り出した携帯電話の画面を見れば、友人からのメッセージが届いていた。
「……」
内容は、最近出来た恋人の話。
ここひと月程、彼女が律子に送ってくる話題はそればかりだった。
仲良きことは美しき哉。
しかし、気が滅入っているときに他人の惚気話に付き合えるほど律子は寛大な女ではない。
彼女はそれを見なかったことにして、携帯電話を再びポケットへとしまう。
「はぁ」
律子が再度深いため息をついた時だった。
彼女の背中に、誰かの手が触れた。
否、彼女の背中を誰かが両手で突き飛ばした。
「え?」
衝撃で傾いていく視界に、律子の思考はついていけなかった。
律子の左足が、反射的に踏みとどまろうと前に出る。
ハイヒールの踵が、コンクリートの地面を乱暴に踏み鳴らす。
一歩目で踏みとどまることが出来ず、彼女は縺れるようにして前に倒れこむ。
列の先頭で電車を待っていた律子の進路を妨げるものは何もなく、彼女は踊るようにホームから転げ落ちる。
響き渡る警告音。
ホーム内に入ってきた電車のライトが、まるでスポットライトのように律子を照らした。